ながひさありか
2024-09-27 00:05:46
11152文字
Public STR-Mozeqiu
 

モ椒:Nox and Nox - 休暇・3

思い出す椒丘と諦めの悪いモゼの話。
この下りはこれで終わりです。捏造が随所にあります。

前回→https://privatter.net/p/11176054

 今日も出かけるのか、と朝食の席で問われ、「そのつもりでいます」と答えた椒丘に、モゼはしばらく言葉を返さなかった。出かけると言っても、また湖に舟を出し、魚を釣る予定しかない。植物やきのこは明日、帰る前にまた採取しに行く予定だった。
 休暇の三日目に「君も魚を釣りに行きますか」と尋ねた椒丘に、モゼは椒丘の顔と部屋の中を見回して、「掃除をする」と回答した。落ち着かなそうな顔をしていたので、椒丘も「わかりました」としか答えず、モゼを家に置いて釣りに出かけた。
 モゼは本当に休暇の間中掃除をしていて、誘っておきながら、本当にこれでよかったのかと頭の片隅でずっと考えていた。
 かつては潔癖症の気があったが、この所はそれも落ち着いて、「人よりも綺麗好き」程度になっている。とはいえ、普段、飛霄や椒丘に付き従い、あるいは不穏分子を監視して、昼夜となく働いているモゼに、もう少し普通に休んでいて欲しい気持ちもあった。
 しかしながら、モゼに「のんびりしてください」と言ったところで今やらなくてもいいような掃除を始めてしまうし、彼はどうやら本当に「何もしない」が苦手なようだった。椒丘も似たようなもので、休暇とはいえ、飛霄のそばを離れただけで結局薬についていつだって考えているし、そもそも医士の休暇はあってないようなものだ。
 椒丘は食後の茶を啜りながら、無言で食事を続けるモゼをちらりと伺った。顔色は良好で、食事の量も普段と変わらない。昨日、すべての部屋の床を磨き上げていたモゼは、椒丘と違って腰痛とは無縁らしい。
 若いっていいですよね、となんだか急に老け込んだような気分になりながら、食べ終えたモゼが食器を持ち上げるのと同時に、食卓を片付け始めた。
 ——結局のところ、ぼんやり怠惰に過ごすよりも、忙しくなくしている方が心が休まる。そう言うところはモゼも自分も、少し似ているのかもしれない。
「俺も行く」
 片付けをしている途中で、唐突にモゼが言った。どの会話の続きからなのかはわかっていた。
 もしかすると食べている間中考えていたのだろうか、と微笑ましい気持ちになりながら、椒丘はにっこりと笑う。
「今日は釣りの予定です」
……したことがない」
「餌をつけて釣竿を垂らすだけなので、別に難しくはありませんよ。仕掛け漁もしますが、そちらは餌を入れて沈めておくだけなのでもっと簡単です」
 神妙そうな顔で頷いたモゼは、椒丘の洗った皿を布で拭き、次から次へと棚へしまってゆく。作業をモゼに任せて、椒丘は釣り用具と仕掛けの準備をすることにした。
 釣竿は一本しかなかったが、モゼが釣るのを横で見ている方が安全だろう。

 *

 今日は少し曇りがかった空だった。湖畔ではいつも通り老いた亀がのそのそと歩いていたが、甲羅を乾かす様子もなく、手足と首を縮めて小さな岩のように微動だにしない。
 数日前は鮮やかだった黄色い花が少し萎み始めている。椒丘は季節の移ろいを感じながら、モゼに舟に乗るように言い、少し舟を手で押してから自分も乗り込んだ。
「バランスを崩すと落ちるので、揺れても暴れないでください」
 大人しく座ったまま湖を眺めているモゼを揶揄うが、モゼは椒丘の言葉が聞こえていないのか、あるいは答えるつもりがないのか、景色に夢中なのか、何も言わなかった。
 彼の瞳は水面を眺めたり、ゆっくりと遠ざかって行くほとりを見つめていた。湖が珍しいわけでもないだろうに、と思ったが、もしかすると珍しいのかもしれない。
 湖ははじめてでしたっけ、と尋ねようとしたが、しばし逡巡してやめておく。モゼの過去については触れるのが難しい。
 椒丘は彼に友人と呼ばれるようになって久しいが、過去については敢えて尋ねないようにしている。もちろん、彼が自ら口にするのであれば話は別だが。
 モゼの治療に必要だと感じれば尋ねただろうが、今のところは特に必要な場面がなかった。だから、飛霄が語った話を聞いただけで、それ以上は詮索しないことにしている。
「いい魚が釣れるといいんですが」
 ぽつりとつぶやいた椒丘に、モゼは反応を返さない。彼の興味と瞳は、依然として水面を向いていた。
 モゼの寡黙さには慣れているので、椒丘も気にせず、いつものように舟を漕ぐ。



 対岸にたどり着くと、罠を仕掛ける場所を探す。モゼは全てが物珍しいのか、あたりをきょろきょろと見回していた。
「天気が良ければ、このあたりはもう少し気持ちがいいんですが」
 曇天を写した薄暗い湖畔を見つめながら、椒丘は水中に仕掛けを置く。
「いつもこんなところで作業をしてるのか」
 不思議そうにあたりの葉や花に触れながら呟くモゼを振り返り、「君の目にはどう映っているのかわかりませんが、僕にとっては食糧庫のようなものですよ」とモゼのつついていた淡いピンク色の花を摘む。
 そのまま、徐に口の中に放り込んだ。感覚の鈍くなった舌が、ほのかな甘みを伝えてくる。
「まずまずですね。本当は乾燥させた方が甘味が強くて美味しいんですが、まぁ、おやつにはなります」
 君も食べてみますか、ともう一つ摘んでモゼに差し出すと、モゼは数秒椒丘の顔を見つめてから、摘んだままの椒丘の手に顔を寄せ、直接花を咥えた。
 モゼの唇の感触が椒丘の指に触れ、一瞬、肩を跳ねさせそうになった。その昔、軍用獣に餌付けをさせられる羽目になった時のように心臓が少し早い。
「甘い、とは思う」
 不満そうに呟くモゼがなんだか子どもっぽくて、直前に感じた妙な感覚はすぐに霧散した。
「庭先で数日乾燥させたものがあるので、帰ったら食べ比べてみますか」
 唇の感触が微かに残ったままの手をそっと背中で振る。すっかり忘れていたが、いつだかモゼに好きだと言われたことを、今思い出してしまった。
 あれ以来、モゼからはずっと何も言われていない。態度だって変わらないし、視線が不用意に刺さることだってなかった。……ないと思っていたが、意識していなかったので気づかなかっただけかもしれない。
 もしかしなくとも、休暇を一緒に過ごしませんかと誘ったのは悪手だったかもしれない。モゼはとっくになんとも思っていないからついてきたのかもしれなかったが、椒丘だって忘れていなければ、流石に二人きりで長期間過ごす提案はしなかっただろう。モゼに気持ちがもうなくなっているからこそ簡単についてきたのかもしれなかったが、もしかすると「未練がある」と誤解を生んでいる可能性があった。
 気づいたのが帰る前日でよかった、と内心ひやりとしながら、モゼを連れて再び小舟に戻ると、のんびりと漕いで、湖の真ん中あたりに舟を向かわせた。



 そのまま数時間、モゼに指導しながら湖畔で釣りをした。普段、一人で漕いでいる小舟に他人がいるのは椒丘にとっても新鮮で、案外悪くない時間だった。
 釣り上げの際、ぐらぐらと揺れる舟にモゼも最初のうちは戸惑っていたが、すぐにバランスの取り方を会得していた。
「小すぎる魚は帰してあげてください」
 釣り上げた魚の小ささに椒丘が言うと、モゼが視線だけ寄越す。
「もう少し大人になってから食べた方が美味しいので」
…………
 間違ったことは言っていないはずなのに、モゼは黙ったまま、少しだけ嫌そうな顔をした。言い方が嫌だ、と顔に書いてあって、椒丘はおや、と笑う。
「せっかく食べるなら美味しい方がいいじゃないですか。三倍くらいの大きさのものが一番身が柔らかくて美味しいんです。それ以上のものは年をとり過ぎているし、それ以下のものはまだ幼いので帰します」
 針を魚の口から外して湖に帰しながら言うと、モゼは無言で針先を椒丘から受け取り、餌をつけ直すと、ふたたび釣り糸を垂らした。

「おや……
 ようやくモゼが食べ頃のサイズを釣り上げた時、椒丘はふと、空が暗くなっていることに気がついた。もしかすると雨が降り出すかもしれない。
 一人であれば多少の雨を気にせず釣りを続けるが、今日はモゼがいたし、すでに目的は達成している。
「雨が降るかもしれませんから、仕掛けを回収して帰りましょうか」
 椒丘の提案に、モゼは大人しく釣竿を湖から引き上げると、「帰りは俺が漕ぐ」と櫓を手に取ろうとしたが、「今度きちんと漕ぎ方を教えます」と椒丘は首を横に振った。
 雨の気配がなければいい提案だったが、今は少しでも早く戻りたいので、間が悪い。
 対岸に舟をつけると、仕掛けを回収する。あまり成果は芳しくなかったが、そう言うこともあるだろう。
 椒丘は舟のはしに仕掛けと釣った魚を入れた籠をくくりつけ、なるべく急いで帰路へついた。
「あ」
 けれども、もう少しでほとりに着くと言うその時、ぽつりと雨粒が椒丘の頬に落ちた。不快感に耳を揺らしながら漕ぐ速度を早めると、モゼが顔を背けて俯いている。
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
 答えたモゼは微かに笑っているような気がしたが、はっきりとはわからなかった。見間違いを疑っているうちに、髪や顔を濡らす雨に、モゼがはっきりと嫌そうな顔をしたからだ。
「雨具を持ってくれば良かった」
「ギリギリ降らないと思ったんですが、アテが外れましたね」
 苦笑した椒丘はモゼに魚の入った仕掛けと籠を渡し、舟を岸へ上げると、いつもそうしているように、岩に舟を縄でくくりつけておく。
 雨が本格的に降り初め、二人は程なくして全身びしょ濡れになっていた。
「帰ったらまずお風呂に入りましょう。風邪をひいてはたまりませんから」
 雨で顔に張り付いた髪を鬱陶しそうに指ではらいながら、椒丘は傍のモゼを見上げた。
「モゼ? 帰りますよ?」
「っ、あ、ああ……
 何故かモゼにじっと見下ろされていたことに気付き首を傾げると、モゼは気まずそうに顔を逸らした。顔に何かついてましたか? と聞いてもモゼは答えず、椒丘を置いて足早にスタスタと歩いて行ってしまう。
 はて、と椒丘は再び首を傾げたが、モゼの背を追って家路を急いだ。
「君は先にお風呂に入ってしまってください、最低限の下処理をしておきたいので」
 椒丘が玄関口で簪を外して髪と尻尾を絞りながら口にすると、モゼは少しだけ逡巡する様子を見せてから、「わかった」と眉を寄せたまま風呂場へ消えていく。
 床が濡れるのを気にしているのだろうか? と思いながら念入りに水分を絞ると、適当に髪をまとめて櫛を差し直しておく。靴を脱ぎ、濡れた足でそのままぺたぺた歩こうとすると、バスタオルが頭に飛んでくる。
「わぷ、」
「そのまま歩き回るな」
「後で拭けばいいじゃないですか」
 嫌そうな顔をしたモゼが濡れた床を拭いているのに感心するやら呆れるやら、と思いながら、大人しく投げられたタオルで足を拭いておく。肌に張り付いた服が不快で脱ぐか一瞬悩んでいると、モゼが気まずそうに口を開く。
「尻尾……は自分で拭けるのか」
 バスタオルをもう一枚持っていたモゼが、何故か椒丘から目を逸らしたまま口にする。さっきから妙に目が合わない、と顔を覗き込もうとすると、再びタオルを投げつけられた。
「風呂に入ってくる」
 そそくさと、逃げるように風呂場へ向かうモゼの奇妙な言動は気になったが、今は魚の下処理をしておくのが先だった。


 最低限の下処理を終えると、濡れた服をこれ以上着ているのが嫌になった。風呂場へ向かい、「モゼ、入りますよ」と声をかけて脱衣所の戸を開ける。
「っ……!?」
「あ、すみません、ちょっと服だけ先に脱いでおきたくて」
 タイミングが良かったのか、あるいは悪かったのか、ほとんど着替えを終えたモゼと脱衣所で鉢合わせる。
 シャツから首を出していたモゼが驚いた顔をするのを気にせず、椒丘は首許の留め具に手をかけた。
「夕食まで時間もありますし、のんびりしていてく、」
「椒丘っ」
 がしっ、と手首を掴まれ、え? と声を上げると、ハッとしたようにモゼが手を離した。
…………出る」
 椒丘を押し除け、慌てて脱衣所を出て行くモゼに椒丘はぽかん、と口を開けた。
……恥ずかしかったんでしょうか」
 別に裸を見たわけでもないし、と考えつつ、椒丘は散々怪我の治療だのなんだのでモゼの裸、と言うか下着姿は見たことがあった。治療時にモゼが見られるのを嫌がる素振りを見せたことは今までになく、ますます不可解な反応だった。
 虫の居所が悪かったのかもしれない、と早々に考えるのをやめて、不快な服をさっさと脱ぎ、風呂場へ向かった。

   *

 本当に椒丘に意識されていないことはこの休暇の間に散々わかっていたが、それでも、もう少し気を使ってくれたっていいだろ、と口走りそうだった。
 慌てて脱衣所を出たモゼは自分の寝室に向かい、濡れた髪を乾かす気力もなくベッドに倒れ込んだ。
 目を閉じると、日中の椒丘の色んな姿が瞼の裏に浮かぶ。摘んだ花を放り込んだ時の口の形や、モゼに花を差し出して来た時のいつもと変わらない、何の裏もない柔らかな表情。意外とそう言う笑い方をしないのを、本人が気づいているのかどうかは知らない。
 椒丘は人前ではいつだって笑ってばかりの男だが、それが半分以上本心を見せないための演技だと言うことを知っている。だから飛霄やモゼの前では表情が崩れることが度々あって、そういう表情を見るたびに、彼が常時張り巡らせている結界の内側に侵入するのを許されている側の人間なのだと感じていた。
 雨が降り始めた時に耳を不愉快そうに揺らしているのが可愛かっただとか、濡れた髪が頬に張り付くのを気にするちょっと不機嫌そうな顔が綺麗だったとか、髪を払いのける指先も綺麗だったとか、ずぶ濡れで髪を絞っている姿が妙に小さく見えて抱きしめたかっただとか、どうしようもない目線で眺めてしまっていた。
 普段は碌に肌を見せない男が簡単に服を脱ごうとしたのに驚いて止めてしまったが、あのまま見ておけばよかった、と邪な後悔が頭の中を巡っている。
 あんな態度を取られたって、椒丘にそれほど特別扱いされているわけではないとわかっているつもりだった。彼の一番が誰なのかは良く知っているし、自分がその席に座りたいとは思っていない。 
 ざあざあと降りしきる雨音を聞きながらため息をつくと、のろのろと起き上がり、髪を乾かすために脱衣所へもう一度戻った。薄いドアの向こうでは、椒丘がシャワーを浴びている音がした。

   *

「おや」
 調理後にどうせもう一度風呂に入ることになるだろうから、と髪も尻尾もタオルにある程度の水分を吸わせただけの状態で脱衣所を出ると、モゼが両腕を組み、壁に背をつけ、目を閉じた状態で椒丘を待ち構えていた。
 ドライヤーを使う音は聞こえていたが、声もかけられなかったので、てっきり寝室かリビングで寛いでいるだろうと考えていた椒丘は「忘れものは特になかった気がしますが」と出てきたばかりの脱衣所を振り返る。
「椒丘」
 ほら、と脱衣所の中をモゼに見せようと体を傾けた時には、背中から伸びてきたモゼの腕に抱きしめられていた。
 椒丘は服越しに感じたモゼの体温にはっ、と小さく息を吸い、何が起きているのか理解しようと思考を巡らせた。けれど考えなくとも、これがどう言う状況なのかなんて本当はわかっていた。
 昼間からモゼの様子は少しおかしかったし、そこからこの休暇中の様子を辿ってみれば、時折、ほんの僅かではあるけれど、片鱗は見えていた。
 好きだと言われたことを忘れていたとはいえ休暇に誘ったのは椒丘自身で、期待させてしまってもしょうがない状況だった。今日までモゼが何も行動を起こさなかったのは、もしかすると椒丘の口から何か言い出すのを待っていたのかもしれない。
 そんなことを考えている間も、拘束は解かれるどころか両腕ごと強く抱きしめられて、モゼの体温と緊張した吐息が首筋にそっと触れる。
「あの、」
 頭ひとつ分背の高いモゼをなんとか振り返ると、覚悟を決めたような、真剣な瞳と目が合う。彼の瞳の中心にある赤いルビーのような虹彩が揺れていた。
 勘違いさせたならすみません、と正直に言おうとして、言葉に詰まった。自らの言動を振り返り、最悪だ、と胸中でごちる。
 彼のためにも拒絶した方がいいのはわかっているのに、自分にも非があると思うと、強く出られない。視線を逸らして俯くと、抱きしめられていた腕の力が抜ける。
……考えてくれたわけじゃないんだろうとは思ってた」
 がっかりしたように低く呟くモゼの言葉に「すみません」と反射で返してしまってから、この反応は良くなかったな、と後悔した。けれども、すでに発してしまった言葉を取り消すことはできない。
「もう一度ちゃんと考えてくれって言ったら、考えてくれるのか?」
 俯いた椒丘に、モゼは静かに続ける。それはないだろう、とわかっているのに、諦めきれないと縋るような声だった。
………………………
「椒丘」
 言葉を探す椒丘に焦れたモゼが、そっと椒丘の左手を取る。手の甲を親指で擦るように握られ、椒丘は覚悟を決めたように、右手で手を握るモゼの手の上に手を重ねた。
……すみません、多分、難しいと思います」
 顔を上げて、モゼの不安そうな表情を見つめ返した。
「僕は、君とは友人でいたいと思っています」
 宥めるように重ねた手を撫でて、空気が重くならないように笑うと、モゼの眉が寄る。
「俺が年下すぎるだからか?」
 モゼの問いは的を得ていた。正直に言えば、パートナーとして考えられないと思う理由の八割でもある。椒丘から見れば彼はあまりに若くて、甥っ子のような存在だった。
 もちろんモゼが種族的には成人していることはわかっている。それでも、過ごした年月が長くなれば長くなるほど、ますます大事な子どものように感じていた。
「お前より先に死ぬから、だからだめなのか?」
 淡々とした声だったが、モゼにしては少し早口だった。椒丘はそれにははっきりと首を横に振る。
「それは違います。君が僕より先に死ぬ可能性が高いから気持ちに応えたくないなんて、そんなのは命に対する侮辱でしょう。……ただ、君が僕よりずっと年下だからと言うのはある意味では正しい」
 でも、と言葉を挟もうとするモゼを見上げて、聞きなさい、と言うように首を振る。
「君のことを甥のように感じていると言うこともありますが、……そもそも、僕は誰かに想ってもらえるような人間じゃありません。期待には応えられないし、気持ちを返すこともできないと思います」
 眉を寄せて何か言い返したそうにしながらも、モゼは椒丘の続きを待って忍耐強く押し黙っていた。その素直さに椒丘の胸が少し痛む。確かに、彼は自分を慕ってくれている。だからこそ、聞きたくないであろう、自分の望まない言葉を待ってくれている。
 椒丘はため息をつきたいのを堪え、言葉を続けることにした。
「君が年下だからとか、若いからなんて言うのは、君の気持ちを断る理由の中では本当は一番軽いものです。君よりずっと大人なので、君がこんな年上相手に人生を無駄にするのはかわいそうだと感じる気持ちもゼロではありませんが、それもやはり些細なことです。
 勿論君が嫌いだとか、そんなこともありません。それだったらもっと簡単に拒絶しているし、近寄らせません。……ただ、君でなくても、誰でも、過去を含めて誰ともパートナーになりたいとは思いませんでした」
 椒丘はモゼの手をそっと離してから、優しく握り直した。
「僕は一度医者を辞めた身ではありますが、今は飛霄様の主治医をしている医士です。僕は常に患者のことを一番に考えて生きることにしているので、他の人のことは、僕自身でさえ優先度が著しく下がります。——そんな人間のことは、好きにならないほうがいい。君がいくら僕を想ってくれたとしても、僕は患者のことばかり考えています。
 もちろん、誰も僕のことを、医士を必要としない世界になればいいのにと常々思っていますが……
 流星が同胞も豊穣の忌み者も一緒くたに灰燼に帰してしまった夜のことを思い出すと、目の前が揺れたと感じるほど不安な気持ちを思い出してしまう。今夜は超激辛の火鍋を用意する必要がありそうだった。
 椒丘は慌てて深呼吸をし、モゼに向き直ると、「ですから」と場を明るくするために笑った。
「君のことは勿論友人として好いていますし、今は怪我や病気をしていなくたって、患者となれば他の患者たちと同じように君のことを考えます。
 ですが僕はこう言う人間なので、君が治れば嬉しくなるのと同時に、もう、僕の手は不要だとすっぱり忘れてしまうでしょう。……他の患者に時間を割く必要がありますから」
 家族や恋人を持つ医士はいくらでもいるし、自分の考えが医士の総意だとはもちろん思っていない。
 けれど、医士は最終的にはそうあるべきだと考えているし、自分は他人を愛しながら職務に殉じることをよしとできるほど器用な人間ではないのだと思っていた。愛する人より患者の命を救うことの方が重大だったし、今やこの命を本当に使う先はたった一人の患者に設定されている。
 彼女の病を治すためだけに、この世の全ての命を救うこともできない、無力で、取るに足りない命はまだ鼓動を止めずに動いているのだから。
「患者の事以外、気持ちも時間も割く余裕が僕にはないんです。君が僕を大事に想ってくれていたとしても、僕はきっと変われないので、君を蔑ろにして、気持ちを踏み躙ってしまうと思います」
 はぁ、と椒丘が喋り疲れて吐息すると、モゼは小さく唸るような声を上げた。
 モゼの傷ついた表情を間近で見て罪悪感が胸に満ちたが、こんな風に、未来でまた彼を無意識に傷つけてしまわないためにも、今日、ここではっきりさせておいた方がいいと考えていた。
「俺は別に、お前に変わってほしいわけじゃない。……お前が献身的な医者だってことはよくわかってるし、お前を必要としてる人が大勢いることもわかってる」
 真夜中だろうが明け方早朝だろうが、徹夜続きで一時間前に仮眠についたばかりだろうが、先生、と叩き起こされればすぐに患者のところに飛んで行く人間だと言うことをモゼはよく知っている。
 椒丘が献身的に支えているからこそ、飛霄が今日まで月狂いに負けずに戻って来られているのを知っているし、休暇を言い渡されても薬になる植物だのなんだのを集め続けているのもそばで見て知っている。
『飛霄様のこと以外はお前が無理して行かなくてもいいだろ』
 疲労困憊で床に倒れていた椒丘にモゼが半分呆れて、半分は心配で口にすると、椒丘はぼんやりと顔色の悪い顔をモゼに向けながら、「でも、僕が行かなかったら彼は死んでいましたから」と笑った。確かに、現実はそうだった。そう言うところが時々どうしようもなく嫌で、そう言うところがどうしようもなく好きだと思っていた。
 椒丘が飛霄の病を治せないことを本当にずっと気に病んでいる事だって知っているし、彼女を戦場に送り出してからは、無事に帰ってくるまで気が気でないのを必死に隠している事だって知っているつもりだった。
 いつだったか、飛霄が戦地で大怪我をし、彼女の肩を担いでモゼが帰還した時、道すがら、彼女は「大丈夫。あたしはこんな怪我で絶対に死なない。だって、あたしが戦場で死んだら椒丘が壊れちゃうから」と冗談のように口にしていた。だけどそれが冗談でないことは、モゼにはもうわかっている。
『どんなに僕が必死に治しても、みんな翌日には戦地に戻って死んでしまうんですよね。——飛霄様以外は』
 お前にとってあの女はなんなんだ、と遠い昔、モゼが何度目かの飛霄の暗殺に失敗して、逆に骨を折られた日に、看護してくれる椒丘にいらいらして尋ねたことがあった。椒丘は随分ぼんやりしたことをはじめは言っていたけれど、最終的に、そんなことをぽつりと漏らしていた。
 昔は「それがなんなんだ?」と思っていたけれど、大人になるにつれどう言う意味だったのか理解した。
 椒丘にとって飛霄がどれほど特別で、彼女の病を治す事が、彼女の体が健やかであることが、この男の願いで、幸福であることは知っている、つもりだった。
 だからその席におさまりたいとは思わないし、その願いと幸福を奪いたいわけでもない。
「お前が自分で言うほど明るい人間じゃないことも知ってるし、考えすぎてめんどくさいところがあるのも知ってるし、変なところで頑固なことも知ってる」
 モゼの手を握ったままじっと見上げてくる椒丘は笑顔だったけれど、そこには自虐的な色が滲んでいた。
「お前に必要とされたいわけじゃないし、お前に奉仕されたいわけでもない。ましてやお前の一番になりたいわけでもない。……俺はただ、お前のそばにいたいだけだ」
 言葉を連ねるモゼを見上げる椒丘の表情が段々と曇って行くのを見て少し胸が痛んだ。困らせているし、言いたくないことを言わせたな、とも思っていた。
 それでも、生きていく上で椒丘の一番にして欲しいわけではないし、全てを投げ打って飛霄に奉仕するのを止めたいわけでもないことは知っていて欲しかった。
……物好きですねえ」
 はぁ、と疲れたようにため息をついた椒丘は、モゼの手を離し、額に指を当てる。
「君の気持ちはよく分かりましたが」
 頭痛を覚え、額に手を当てたまま、椒丘はモゼを見上げて力無く笑う。
「それでもやっぱり、君の気持ちには応えられないと思います。……恐らく、いくら時間が経っても」
……………………
「今回のことは完全に僕の落ち度です。だから、さっきいきなり抱きしめられたことは忘れます。勘違いさせてしまったのは僕ですから」
 これ以上不毛な話を続けても意味がないと判断して、椒丘は話の切り上げにかかった。
 明日には中央に戻り、またいつもの職場で、いつものように同僚として顔を合わせる必要がある。それだけははっきりさせる必要があったから。
「できれば友人のままでいたいと思っていますが、君に任せることしかできません。僕たちの個人的なことで飛霄様に迷惑がかかることも避けたいので、仕事中は今まで通りに接してもらいたいとも考えています」
 我ながら残酷なことを要求している。椒丘は自身にほとほと幻滅しながら、だけど、これでモゼがすっぱり諦めてくれればそれでいいと感じていた。
 せめてモゼがこんなどうしようもない自分ではなく飛霄様を好きだったら良かったのに、と思わず口許が歪む。
……お前が今何考えてるのか当ててやりたいが、むかつくから言いたくない」
 唐突に、年相応に拗ねた口調で文句を言うモゼに面食らった。
 思わず笑ってしまった椒丘に、モゼは不服そうな顔を見せたが、諦めたように「任務に支障を来すような真似も、飛霄様を心配させるようなこともしない」と口にした。
「お前の気が変わる日が来るかもしれないだろ。だから、とりあえずは今のままでいい」
 諦めの悪いことを言うモゼに、困ったなぁ、と内心で苦笑しながら、椒丘は言葉を返さず、曖昧に微笑むことにした。
 自分がもう少し若ければ、彼の情熱に負けてしまったかもしれなかったから。


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