上司が絡み酒をしてくることは滅多にないが、その夜はいくらあしらっても飲め飲め飲め飲めあたしの酒が飲めないって言うの? と、最悪のアルハラが終わらなかった。いつもこうなるのであれば主治医として「お酒は禁止です」と取り上げてしまったかもしれないが、基本的にそこまでの事態になることは少ない——と、椒丘は思い込むことにしていた。実際は規模が違えど、上司である飛霄が飲みすぎた際には、必ず後始末に奔走する羽目になっているのだが。
(まぁ、人様に迷惑をかけるよりはマシでしょう……)
飲め〜、飲んでよ〜、と抱きついて肩をゆさゆさと激しく揺さぶってくる飛霄に「わかりました飲みます飲みます」、と呆れながら彼女の差し出した杯を受け取ると、少し離れた場所で、とっくに気配を消していたモゼと目が合う。
一人で逃げないでくださいよ、と咎めるように視線を送った椒丘が瞬きをした次の瞬間、煙のようにモゼの姿は消えていた。二秒ほど置いて、懐の端末が着信音を立てる。飛霄が酒を注いでくるのを「はいはい」と杯を掲げたまま片手で確認すれば、「後始末はする」と簡潔な一文だけが送られていた。
*
頬を何度も叩かれている。体が熱くて重く、けれどもひどくいい気分だった。
椒丘は「んん……」と頬を叩かれる不快感に身を捩り、手をはたき落として体を回転させた。冷たい床に頬が触れる。心地よさに、覚醒しかけた意識が再びすぅ……、と眠りの淵に落ちてゆく。
「おい、起きろ」
体を丸めて眠りに落ちようとする椒丘の肩を揺さぶりながら、耳許で誰かが低く呟いた。
誰ですか、眠りたいので寝ます、と椒丘はむにゃむにゃ口の中で呟き、尻尾で頭上の誰かの体をばしばしと叩く。聞き覚えのある声のような気がしたが、今はそんなことよりも眠りたくて仕方がなかった。
「起きろ。この間床で寝て、翌日腰が死んだだのなんだの喚いてただろ」
「んん……どなたか知りませんが、僕のことは放っておいてください……、明日は休みなので昼まで寝ます……」
体をひっくり返そうとしてくる手から逃れるように身を捩り、手や尻尾で抵抗していると、ため息が頭上から落ちてくる。
「椒丘」
「すぅ……すぅ……」
「………………はぁ」
ようやく諦めてくれたらしい、と安堵したのも束の間、突然、体が宙に浮き、ぐるりと回転する。椒丘はヒュッ、と息を呑み、心臓が縮む感覚に声も上げられずに硬直した。酒精と眠気でぼんやりしていた意識が一気に覚醒し、心臓が飛び出しそうなほどの速さで打っている。
「な、な、な、え……!?」
太腿の後ろを抱えられ、頭が傾ぐ。慌てて腕を伸ばすと、誰かの肩を掴む形になっていた。
「帰るぞ」
低い声と触れ慣れた体に、さっきから執拗に声をかけていた男はモゼだったのかと把握した。
肩の上に胸が当たるような形で抱えられて、そのままモゼはすたすたと何事もなかったかのように歩いて行く。
「な、なんだ……君でしたか。もう少し優しく起こしてくれても……」
後ろに落ちないよう、モゼの首にしがみつきながらぶつぶつ文句を口にすると、「起きなかったのはお前だろ」と彼にしては珍しくすぐに言葉が返ってくる。
「ところで、……もしかして僕の部屋まで運んでくれるんですか?」
「後始末はすると言った」
そういえば、飛霄のアルハラから逃げ出したモゼはそんなことを言っていた。
「律儀ですねえ……」
平時であれば、「下ろしてください」とすぐに口にしただろう。けれど、今夜は飲まされすぎていて、覚醒した意識は拍動が落ち着くのと同時に、再び酒精と眠気に支配されていた。自分を運んでいるのが同僚でなければもう少し体面を保つ気にもなったかもしれなかったが、今更モゼ相手になにか繕う必要性も感じない。眠気に任せて彼にしがみついまま、暗い夜道を灯りもなくすたすたと歩むモゼに運ばれて行く。
おい、とモゼは彼の部屋の前で声をかけたが、椒丘は再びぐっすり眠っていた。首にしがみついたままの体が熱く、酔っているのだと言うことがよくわかる。
諦めて部屋の鍵を開けて入室すると、再び後ろ手に鍵をかけて、勝手知ったる室内を歩いた。
昨日、椒丘の部屋を掃除したばかりだったが、すでに室内はいくらか乱れていた。
テーブルの上には何冊もの本が積み上がっていたし、香辛料や食材がさまざまな器具と一緒に並べられている。複雑な香辛料と薬の混ざったにおいがモゼの鼻をつき、しばらく考えてから抱えたままの椒丘の服に鼻先を押し当てた。
当然のことながら、そこからは同じにおいがした。
寝室へ進むと、ベッドへ膝をつき、椒丘を下ろそうとしたが、妙な力強さでしがみつかれていて、何故かすぐには腕が外れない。
「おい、ついたぞ」
抱えていた足を離し、椒丘の背中をベッドにつけさせようとすると、首を抱えこまれたままバランスを崩し、二人してベッドに倒れ込む。
「んん……なんですか、もしかして一人寝がさみしいんですか……」
モゼの首に腕をかけたまま、ふぁ、と椒丘があくびをする。
離さないのはお前だろ、この酔っ払い、と酔っ払い相手に怒るのもばかばかしくて、無言で首にかけられた腕を外そうとすると、「仕方ないですね……」とモゼの首筋に頬を擦り付けるように椒丘が体を寄せて来た。
「…………………」
首筋で地肌がふれあい、ぴた、と動きを止めたモゼに、「よしよし、いい子ですね……」と小さく掠れた声で言いながら、椒丘が頭を撫でてくる。
犬でも撫でているつもりなのか? と咄嗟に考えようとしたが、ベッドの上で抱きしめられながら、眠たそうな声で囁かれている状況に混乱していた。
少なくとも椒丘は普段、スキンシップの多いタイプではなく、治療や検診以外で簡単に触れてくることはない。
それなのに今、椒丘の熱い頬が首筋に当たっていて、彼にしては強い力で抱きしめられていた。
「っ、おい……」
首筋に柔らかな感触が当たり、ぶわっ、と体温があがる感覚がした。文句を口にしたモゼに、むにゃむにゃと抗議のような声が上がり、首筋に熱い息がかかる。不明瞭になった椒丘の言葉を聞き取ることは不可能だったが、もし声が鮮明でも、何を言ったのか聞き取ることは不可能だっただろう。
狼狽したモゼは無理やり椒丘の腕を剥がし、ベッドから身を引こうとして、そのまま床に落ちた。
打ちつけた肘をさすりながらベッドの上へ視線を上げると、頬をほんのり紅くした椒丘が、ベッドに手足をぱたりと投げ出して、ぼんやりとした表情で笑っていた。眠たそうに細められた眦が優しく下がり、唇の端が微かに上がっている。
「モゼ、」
小さく名前を呼ばれたその瞬間、呪いでもかけられてしまったかのように動けなくなっていた。椒丘はとろりとした瞳をモゼに向けたまま、何も言わずにただ微笑んでいる。
そうして見つめあったまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。数システム分にも満たなかった気もするし、何システム時間も経ってしまったかのような気がした。
モゼは何故か自分の鼓動が普段より早くなっていることに気づいたが、その理由がわからなかった。俺は椒丘を恐れているのか? そんな考えが脳裏に浮かぶが、それはすぐさま否定できた。
椒丘が数度瞬きをし、そっと腕を持ち上げた。ゆっくりと上下する胸を見ながら、モゼはなんとなく、「そばに来てください」と呼ばれたような気がし、ベッドに膝をつける。
恐る恐る横になったままの椒丘へ近づき、なんだ、と口を開く。椒丘はモゼの問いに答えず、黙ったままモゼの頬に手を伸ばした。熱い手のひらが頬に添えられ、親指で頬骨の上をゆっくりとなぞられる。モゼの心臓がより早く跳ね、口の中が急激に乾いた気がした。
優しい、慈しむような目で椒丘が黙って頬を撫でている。ただそれだけの話で、鬱陶しいと手を跳ね除けて部屋から出ていけばいいだけのはずなのに、金色の瞳に囚われたかのように身動きが取れなかった。
頬に添えられていた手が後頭部へ周り、ゆっくりと引き寄せられるのがわかった。それを拒まず、モゼは椒丘の手に従って顔を寄せた。
吸い寄せられていた金の瞳が瞼の下に隠れたのを見て、モゼも思わず、目を閉じた。
「………………、……」
唇が触れ合ったのはほんの一瞬だった。
やわらかな感触を覚えた次の瞬間には、ぱたりと椒丘の腕が落ちて、モゼの動揺など梅雨知らず、穏やかな寝息を立てながら、幸福そうに眠っていた。
モゼは無言で音もなくベッドから飛び退くと、唇に触れて、すぐに離し、じりじりと壁向かって後ずさった。
——さっきのはなんだ?
考えても答えの出るはずのない問いが頭を駆け巡ったが、当人を叩き起こして問うつもりにもならなかった。
モゼは月が随分と沈むまで困惑したまま部屋の隅に佇んでいたが、ふと我に帰り、同僚の部屋を後にした。
*
昼を過ぎてもグループチャットに返事をしない椒丘に、昨晩の酒乱の影もない飛霄が「もしかして二日酔いかしら。モゼはどう思う?」と尋ねて来た。昨晩の醜態を誰かから聞いたらしい飛霄は、珍しく申し訳なさそうな顔をしていた。
確かに休日、椒丘が昼まで惰眠を貪っているのは珍しくもないが、昼を数時間過ぎても反応がないのは珍しかった。
昨晩のことを考えるといささか気が乗らなかったが、モゼは諦めたように「見て来ましょうか」と口にした。
「悪いけどお願いできる? 前に言った通り、これから武器の交換で出かけなくちゃいけないのよ」
グループチャットには「昼過ぎには出かけるから夕飯はいらないんだけど、代わりに昼食を一緒に食べない?」と言う飛霄のメッセージと、モゼの了承を示すスタンプだけがあった。読んでいるのであれば何かしら反応を残す椒丘が今日に限って無反応な訳もないだろうし、見ていないか、あるいは見てはいるが反応ができない状態だろうと二人は考えていた。
飛霄を見送った足で、気が乗らないまま昨晩も訪れた椒丘の部屋へ足を向ける。道中、端末へ通話をかけてみたが、やはり反応はない。
重い足取りのまま部屋の鍵を開け、「椒丘」と声をかける。微かにうめくような声が聞こえ、はあ、とモゼはため息をついた。
部屋を進めば、案の定ベッドの上で、丸まったまま椒丘がぐったりしている。
「……水は?」
「ちょうどいいところに………………」
顔を上げもせず、かと言ってモゼの来訪を驚きもせず、椒丘が死にそうな声で口にした。まごうことなき二日酔いで潰れた狐の姿だった。
「二日酔いの薬は、棚の、左から四つ目、上から七段目です……」
モゼは無言で隣の部屋へ行くと、巨大な薬棚の指定された引き出しを引いた。薬包を一つつまむと、調理場で水を汲み、寝室へ戻る。
「ほら」
青ざめた顔でぐったりしたままの椒丘に水と薬を差し出し、腕を組んでじっと見下ろした。いかにも哀れそうな顔で薬を流し込んだ椒丘が再びベッドに沈み、「そういえば何故ここに?」と今更の問いを口にした。
「……昼を過ぎても反応がないと、飛霄様が心配していた」
端末を見ろ、と続けると、「すみません、視界が揺れているのでまだ無理です」と弱々しい声が返ってくる。
「飛霄様は武器の調整で出かけた。夕飯はいらないそうだ」
モゼの言葉に、ああそういえば……、と弱々しい声で椒丘が呟く。
頭が……うう、と呻いている男の姿と、昨晩の姿があまり重ならず、モゼは再び「なんだったんだ?」と困惑した。
「……お前、昨日のことは覚えているか?」
「昨日ですか? ええと、それはどこまで記憶があるかと、そういう……?」
顔をなんとか布団から上げた椒丘が不思議そうにモゼを見る。無言で頷くと、「そうですね」と椒丘が思考に沈んだ。
「飛霄様が、僕より先に倒れたのは覚えています……。確か介護して差し上げようとして……どうしたんでしたっけ。おや? もしかして僕を運んでくれたのはモゼでしたか? それとも、なんとか自力で帰ったんでしょうか」
思わず、モゼの眉間に皺が寄る。
ほとんど何も覚えていないと言われたも同然で、舌打ちが小さく漏れる。
「なんです?」
「なんでもない」
「もしかして、僕は君に何かしましたか?」
「……………別に何も」
お前に抱きしめられてキスされた、なんて、本当のことをいえば、お互い気まずい思いをするに決まっていた。
はぁ、と重苦しいため息を吐くと、「帰りに道端で吐かれたくらいだ」と適当な嘘をついておく。
「…………それは、ご迷惑を」
「別にいい。掃除は嫌いじゃない」
嘘を貫くために、無関心を装って答えたモゼの言葉を信じた椒丘が「流石に情けないですね……」と落ち込む声を聞き、少しだけ気分が晴れたような気がした。ほんの少しだけ。
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