車窓からの景色はすっかり白一色に染まっていた。ロサンゼルスからシカゴに向かうアムトラックは鉛色の車体をゆったりと揺らしながら、悪天候など気にも留めず目的の地へと向かう。
「通りで冷えると思ったぜ」
隣の席のテリーが小さな肩越しに外を見やる。トレードマークのキャップの鍔を僅かにあげるとすぐに深く被り直した。
「寒くないか?」
ロックは首を横に振った。
「大丈夫」
「寒くなったら言えよ」
言われて確かに急に冷え込んできたことに気付く。窓からの冷気が肌の上を滑るように伝わってきた。しかし、そんなことはどうでも良くなるほどにロックは窓の外に釘付けになっていた。黒い木々もレンガの赤もジープの緑も全て白に埋もれている。ロックが初めて見る雪は眩しくて、目頭が微かに痛んだ。
ロックは身を乗り出すと、細い首を亀のように伸ばした。ガラスに頬を寄せると、氷を押し付けられたみたいに冷たい。ロックは反射的に肩を震わせた。小さく息を吐くと、窓ガラスは一瞬で曇り、ロックの姿を雪景色と一緒に白く塗り潰してしまう。
「ひゃあ」
ロックは再び窓に触れる。ピタリとつけた左の頬は一層赤みが増した。冷たさに少し慣れるとこのひんやりとした感触がむしろ心地良い。ロックは口元を綻ばせる。効きすぎているヒーターと着慣れぬ厚手のコートよりずっと好きだった。
このコートは急遽見繕ってもらったもので、今回の旅には必要だからとテリーがショッピングモールで買ってくれた。ちょうどこの空みたいな色のグレーのコートだ。見た目は嫌いじゃないし、何よりテリーが買ってくれたものではあったが、室内で着るには生地が硬くて少し窮屈だった。
「テリー」
ロックは少し長い袖を揺らし、後ろに向き直る。テリーはこちらを窺うようにキャップの間から視線を投げた。
「シカゴは寒い?」
「ああ」
この時期は特にな、と言うと、テリーは笑う。
「サウスタウンは雪が降らないからな、珍しいだろ」
「テリーは見たことあるの?」
ロックの問いにテリーは頷く。伝説の狼として世界に名の知れたテリーはあちこちから試合のオファーを受けているし、スタントマンの仕事なんかもやっているから、きっとアメリカだけでなく、世界中でいろいろな景色を見てきたに違いない。サウスタウンではまず見られないこんな雪景色なんかも。
「綺麗だね」
「そうだな、これで寒くなけりゃ最高なんだがな」
テリーは売店で購入した新聞を広げた。尻ポケットに突っ込んでいたからか読む前からすでにくしゃくしゃになってしまっている。しかし、テリーはさして気にした様子もなく、皺立ったままの記事に目を通していた。ロックも一緒に覗き込んでみる。何が書かれているのか、ロックにもわかるような気がしたが、まだ読めない単語も多かったので、すぐに文字を追うのをやめた。そのまま気付かれぬようにこっそりとテリーの方を見上げる。スカイブルーの瞳が右に左に忙しなく動いていた。丁寧に磨き上げられたガラス玉越しに見る空みたいな色だ。ロックは思わず見惚れた。特別碧眼が珍しい訳ではない。思い出したくもないが実の父親もブルーの瞳だったし、人種の坩堝のようなサウスタウンではもっと珍しい目の色をした人達もたくさんいた。でもテリーの色はそのどれとも違うようにロックには見える。薄いブルーで、すごく澄んでいる。見ているとなんだか吸い込まれてしまいそうで———ロックは瑞々しいチェリーのような瞳を溢れそうなくらい大きく見開いた。ブルーだけじゃない。よく見ると、雲みたいな微かなグレーと太陽の光みたいなイエローもちょっと混ざっているようだ。昔、母が持っていたブローチにもこんなものはなかったと思う。この色に見つめられると、ロックはどうしていいのかわからなくなる時がある。臍の奥がぎゅうと締め付けられて、そわそわしてその場を走り出したくなったり、なんだか泣きたくなるときもある。変なの。でもそれくらいテリーの瞳はなんとも言えなく綺麗で、魅力的だった。
少し下の方からのロックの熱い視線を感じ取り、テリーは笑った。
「どうした?」
「えっ」
つい見入ってしまったせいか、自然と口が開いていたことに気が付いて、ロックは恥ずかしくなった。なんでもないよ、と早口で答えると、居た堪れず外方を向く。
窓の外では灰色の空から垂れ下がった無数の紐が靡くみたいに雪が降り続いていた。それを見ながらロックはふと、昔、母に読んでもらった雪の女王のことを思い出していた。雪の女王は家の本棚にいつもあった。モノトーンが美しくて、そして少し寂しげな表紙の絵本だ。雪の女王が少年・カイを連れて行くシーンは少し怖かったけれど、白に塗られた背景は幻想的で好きだった——母さんは見たことあるのかなぁ、雪。ロックはもう会えぬ優しい母の声とサボンの香りを思い出す。
——「ああ、カイは雪の女王と一緒に行ったよ」
鼻の奥がじん、と痛くなった。
母と遠出した記憶がロックにはほとんどない。サウスタウンの外れで人目を忍ぶようにひっそりと暮らしていた。あまり丈夫ではなかった母は部屋に篭り、絵を描いていることが多かった。油絵のじっとりした香りがいつも室内に充満していた。白いパレットに出された虹みたいな絵の具、華奢な指。母はゆったりとした手つきで、白いキャンバスに筆を重ねる。指揮者がタクトを降るみたいな、優雅な仕草だ。四角い窓からは西陽が差し込んでいる。その光を浴びた母の絵はインクみたいにテラテラと輝いていた。
貧しく、苦しいことも多い母との生活ではあったが、束の間、母が絵を描いてる時間は平穏で安らかなものであったと思う。ロックは絵を描く母を見るのがとても好きだった。いつも二人の瞳と同じ色の絵の具を使ってくれるのが嬉しかった。陽の光で母の輪郭が飴細工みたいに見えるのが綺麗だった。そして———その時だけは母は悲しくなそさうに見えたから。
雪の白がみるみる滲み出す。ロックは慌てて瞼を擦った。泣いたらダメだ。テリーを心配させることはしたくないし、カッコ悪いのも、弱いヤツだと思われるのも嫌だった。胸の奥からじわじわと湧き上がる痛みを跳ねつけようとロックは大きく息を吸い込む。そして、まだ小さく薄い腹に目一杯の力を込めた。
「夢中だな」
ガサガサと背後で新聞を畳む音がする。ガラス越しにテリーを見ると、すぐに目が合った。テリーは軽く腰を浮かすとロックを後ろから軽々と抱き上げる。そのまま膝に乗せ、ロックの席にさっと腰掛けた。背中越しに抱き締められロックは強張っていた頬が緩む。テリーと触れあっている部分がポカポカと暖かい。空気と一緒に仕舞い込んだ悲しみごと溶かしてしまいそうだ。
「熱中するのは構わないが、体冷えてるぞ」
肩を強く擦られる。母のとは違う大きな手のひらはロックの肩を丸々と包み込んでしまう。
「あったかい」
「ん?」
「テリーのからだ」
「そうか?」
ロックは顔を上げ、そのまま後頭部をテリーに預ける。テリーの少し尖った顎が見えた。髭は今朝剃ったばかりなはずだ。母さんはいつもツルツルしていたけれど、テリーはたまに痛いんだよな、とロックはあのチクチクした感触を思い出して、吹き出しそうになった。チョンと指先でつついてみるが、髭はまだ皮膚の下に隠れているようだった。もう一度指で触れる。楽しげなロックを見て、テリーは嬉しそうに笑った。
「なぁ、ロック」
「シカゴに美味いホットドッグ屋があるんだ」
「ホットドッグ?」
ああ、とテリーは相槌を打つ。
「マスタードとペッパーが最高でな。そこではケチャップの類は一切使わない。甘酸っぱいピクルスと抜群に合うんだ」
「パオパオカフェのとどっちが美味しい?」
「そりゃ俺はリチャードが作ったのが格別に好きさ。でも、こっちに来たときは絶対に食うことにしててな」
「ふうん」
「お前も食うか?ロック」
「うん」
頷くロックの頭をテリーは撫でる。そして、リチャードには内緒だぜと悪戯っぽく笑った。節が太く、ゴツゴツした指なのに優しいのが不思議だ。なんだかとてもほっとして、自然と笑ってしまいたくなるような、そんな気持ちになる。
「あのね、テリー」
「ああ」
「マスタードは好き」
「ほう」
「ポトフにね、入れたりするの、マスタード」
昔、母の手伝いをしたとき、そう教えてくれた———こうすると、味がしまって、野菜やお肉の味がいっぱい引き出されるのよ。
「最後の仕上げに入れるの、そうすると野菜とかの味がちゃんとするから美味しいんだよ」
「そうなのか」
テリーは素直に感心していた。ロックの鼻が得意げに動く。
「だからね、ピクルスと合うんだと思う」
「そんなことを知ってるなんて、ロックは大人だな」
テリーの低い声と大人っぽい言い方にロックは何故だか胸が高鳴った。悟られないように、なんでもない顔をする。腹の下がムズムズする。窓の方に視線を移すと、鈍い空の色の中で雪の白が先ほどよりも眩しく見えた。
ロックは話題を変えた。
「ねぇ、テリーが初めて雪を見たのはいつなの?」
「ん、いつだったかな」
テリーは顎に手を当て、記憶の糸を辿るように天井を見上げた。
「俺もサウスタウンを出るまでは見たことなかったな」
「大人になってから見たの?」
「いや、ジェフの葬儀が———」
と言いかけて、ハッと口を噤む。ロックもテリーの心情を察したのか、それ以上何も聞かずに俯いた。ジェフはテリーの父親だ。血は繋がっていないが、テリーがとても尊敬している人だ。そしてロックも知っている。そのジェフを殺したのは……
束の間の沈黙の後、テリーは視線を落とすロックの白く柔らかな頬に触れた。そしてゆっくりと上を向かせる。ロックも促されるまま素直に応じた。赤いキャップの隙間から見えるテリーの碧眼はなだらかな弧を描いていて今まで見た笑顔の中でもとびきり優しかった。その顔を見るだけでロックはなんだか泣きそうになる。
「ロック」
「…うん」
「前にフェアバンクスに行った時があってな」
テリーは静かに口を開いた。
「…フェアバンクス?」
「オーロラが見えるところだ」
「オーロラ?」
その単語にロックの瞳に少しだけ明るさが戻った。テリーは微笑む。
「オーロラって知ってるか?」
「夜に見える虹みたいな光でしょ」
フェアバンクスはアラスカ州の中央部に位置する都市である。雄大な大自然に雪深い土地。スキーや犬ぞりなども楽しめ、アクティビティが盛んなスポットだ。手付かずの自然も多く、ホッキョクギツネやホッキョクグマなんかも生息している———ふと、ロックはテリーとホッキョクグマが戦ったらどちらが強いのだろうと思ったが、今はとりあえず頭の隅に追いやった。
「そこには温泉があるんだ」
「温泉?」
「ああ、雪の中でな、皆で風呂に浸かるんだ。最高だぜ」
「雪の中にお風呂があるの?」
「不思議だよな」
ロックはコクリと頷いた。
「周りは一面雪で、入るまではとんでもなく寒いんだが、その分、温泉に入るとこれがまた気持ちよくてな」
テリーは大袈裟に身震いする真似をした。ロックは雪の中を裸で歩いた経験はないが、テリーが雪の中で裸でバスタブに駆け込んでいるのを想像してつい笑ってしまった。
「アンディやジョーに聞いた話だと日本にはたくさんあるらしいぞ」
「でも、知らない人とお風呂に入るのちょっと嫌だなぁ」
少しませたロックの物言いにテリーは声を上げて笑った。
「実際入ってみたらそんなに悪くないと思うぜ。なんせ皆裸だからな」
「えー、そうかなぁ」
疑わしそうにするロックにテリーは親指を立ててグッドサインを見せる。それに応えるようにロックも白い歯を見せた。
「オーロラが出るまで、皆でそこで温まって待つんだ」
「ふうん」
「いつか行ってみるか、お前も」
冗談ではなさそうな口ぶりだ。きっと行きたいと言ったら用事を済ませてすぐにでも連れて行ってくれるだろう。ロックは少し照れ臭そうにする。控えめに鼻の下を擦った。
「テリーが一緒なら、いいよ」
その言葉にテリーは満足そうな笑みを浮かべ、ロックの小さな体を抱き寄せる。ロックはテリーの生暖かい息が耳に当たるのがくすぐったくて、つい身を捩らせた。思い切り捻ったのでコートの中のシャツがずり上がってしまって、お腹が出てしまった。なんだかおかしくなってロックは小さな体を揺すって笑った。それを見てテリーも大きく口を開けて笑っていた。列車が空いていて良かった。混んでいたらきっと他の乗客に注意されてしまったことだろう。
お互いに腹が痛くなるまで笑うと、テリーはすっかり乱れてしまったロックのプラチナブロンドを大きくて分厚い手で優しく撫でつけた。
「…この先、きっとお前と、いろんな景色を見ていくんだろうな」
「でも、テリーは今までいろんなもの見てきたでしょ」
「まぁな」
「でもそう言うことじゃないんだ」
テリーが首を横に振る。
「え?」
「修行の中であちこち見て回ったし、その中でいろんな奴らと戦った」
「……」
「世界中の素晴らしい景色も見たし、美味いもんも食ったが…」
「きっとこれからお前と見ていくものはもっと違うものになると思うぜ」
「どうして?」
テリーの言わんとしていることが要領を得ずに、ロックは少し困った顔をした。テリーは優しく微笑むと何かを感じ入るように目を伏せた。髪色と同じ色をしたしなやかなまつ毛が空色の瞳を覆い隠すと、深い影を落とす。
「今までは…」
「復讐が俺の生きる理由だったからな」
復讐———その言葉の響きと搾り出すようなテリーの声にロックはどきりとした。それが何を意味しているのかもよく知っていた。ギースが死んだあの日、テリーに挑み、拳を交わしたときのことを思い出す。傷はとっくに癒えたはずなのに、胸の辺りがやけに痛んだ。
テリーは復讐を果たした。ロックと出会って、一年ほど経った頃だ。相手は母と自分を見捨てた男、テリーの養父を殺害した悪人、憎い奴———そして、自分の実の父親である男。
「あいつは…!」
言いかけてロックはやめた。テリーの表情が少し曇ったように見えたのだ。テリーもあの男のことを憎んでいるはずなのに、許せないはずなのに、それなのに何故だろう。ロックがギースを恨み続けることをテリーは決して良しとはしなかった。
テリーは単語の一つ一つを自分に言い聞かせるように丁寧に言葉を続ける。
「強くなれば、復讐を果たせば、それだけでいいと思っていた」
「でもそれだけじゃきっとダメなんだろう」
「…強くなったのに?」
「ああ」
「それだけじゃ生きてはいけないんだ。人は、きっとな」
ロックはテリーのように強くなりたい。もっと強ければ———あの日、母を救うことが出来たかもしれないと、思わない日はなかった。そしたらギースにあんな仕打ちをされることもなかったかもしれない。ロックにはテリーの言葉の真意は今はまだわからなかった。
戸惑い、揺れるロックの赤い瞳を優しく受け入れながらテリーはロックの桃の実のような艶やかな頬を撫でる。
「まぁ、お前との旅が楽しみってことだ」
「テリー…」
「さぁ、まずはホットドックだな!」
「マスタードをたっぷりかけてもらおうぜ」
しんみりした空気を吹き飛ばすようにテリーはカラッと笑った。太陽のような笑顔にロックもつられて微笑む。
「ピリッとしたやつがいい」
「ペッパーも多め」
「ああ」
「でもピクルスは甘酸っぱくて」
「そうだな」
まだ見ぬ新しいホットドッグに想像を膨らますロックをテリーが抱き締めた。母とは違う力強い腕の中は、でも同じように温かい。
ロックはテリーに抱かれながら、先ほどの言葉の意味を考えていた。憎しみはテリーを強くしてくれたけれど、それだけではいけないって、どういうことなんだろう。もう泣いたりしたくない。強くなっても涙は出るのだろうか。伝説の狼も泣きたい夜があるのだろうか。
テリーの腕の力と体温を感じながらロックは日に日に細く、弱っていく母の体を思い出す。やっぱり強くなりたい
「テリー」
「なんだ?」
「眠くなっちゃった」
ロックは少しだけお芝居をすると、コートのフードを頭からすっぽりと被った。テリーの腕から抜け出すと、座席に転がり込む。体を丸め、ギュッと目を瞑った。そのままの勢いで小さく鼻を啜る。チュンと微かに音がした。フードのおかげできっとテリーは気付いていないだろう。籠った空気の中で頬を濡らしながら、ロックは思う。まだ強くはなれないみたいだ、悔しいけれど。
テリーは隣の席に戻ると、海老のように丸まるロックに自身の赤いジャケットを上からかけてやる。そして、フードに包まれたロックの頭を節々が目立つがっしりした手のひらで優しく撫でた。
ああ、あったかい。テリーの匂いがする。ロックは熱い瞼を静かに閉じた。ナッツのような暖かみのある香りにレザーの乾いた香り。世界で一番安心する香りに包まれて、なんだか本当に眠くなってきたような気がする。
「おやすみ、ロック」
遠くからテリーの声が聞こえた。アムトラックは鉄の軋む音をさせながら、その大きな車体を左右に揺らし、スピードを上げて、シカゴへ走る。
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