実り

ほんのひととき、主従逆転を楽しむ
二人なりの自由と執着の着地点を知る話

実り

 私のつま先にこうべを垂れる雑渡様の動作は、恭しく品があった。
 芸能事に通じ、時折私も連れて能や舞を観にいかれることがある。供をする以上学がなくてはならないと、その歴史、文化、細部に至るまで読んだり聞いたりしたつもりだったが、雑渡様はそれをはるかに凌ぐ深い造詣ぞうけいの持ち主であった。
 だからこその立ち振る舞いだろうと思うと、彼ほどの高貴がひざまずいている相手が私なのだという事実に怯える。普段は見えない後頭部が丸出しのまま、それを気にもせず私に晒していることに、己の眼差しの奥が品位のかけらもない欲を湧かせてしまい、恥じた。その恥じらいを雑渡様はおそらくわかって、あえてこんなやりとりを所望された。
 私はもしかしたら「ひどい」と小さく口に出したかもしれない。雑渡様がこちらを見ているから。下から上を覗くように見るこの人の視線など、私は今まで数えるほどしか見たことがない。横坐りに座ってこちらを見上げたときだとか、私を腰に跨らせて喘がせるときだとか。またこうして思考がぐらつき、覚束おぼつかなくなる。
 今、求められているのは──ぬるい遊びだ。平素の雑渡様と変わらない調子で、「私とお前の立場を入れ替えてみよう、なんでもお前の言うことを聞くよ」と笑って告げられた。
 しかしなんでも言うことを聞く、というのは実は常時叶えられている。私がどんなに願いを隠そうと、雑渡様はたちまちそれを暴いて「陣左はこうしてほしいんだろう?」と簡単に割り出してくれる。あるいは補佐としての助言、部下としての発言、全てを噛み砕きながら受け入れてくださるのだ。
「そうではなくて、高坂様。私はあなたの心底からの望みを知りたいのです」
 一方的にそわそわしてしまうような、聞き慣れない口調で、雑渡様は私に追い討ちをかけた。夜のような静けさと隙のなさで、私に問いを続ける。
「あなたが望むものは」
 つま先から頭を上げ、私の手を取り指先に額をつける。
「なんでも、叶えたいと」
 そういうことなのだと笑う雑渡様のその言葉は、かつて私が十三のころから伝えていたそのままだった。
 逆襲されている。私は逆襲されているのだ。雑渡様の笑いは、嘲笑ではなくほほえみだ。かつての高坂少年がそこにいるような錯覚は、彼の見せる幻影か、私の網膜がおかしくなったのか。
「ざっ、とさま」
 不出来な演者だ、私は。役になりきって彼を呼べない。それでも雑渡様は気にせず、「はい」と仰る。
「それは、私の──部下の、いえ、主人としての願い、か」
「私を飼うなら、当然でしょう」
 それくらいのことは朝飯前だというように彼は言う。誇らしげなどではなく、淡々と。
 飼う、という獰猛な単語に、私はごくりと唾を飲んだ。
「それでは、その首輪を私にかけろと言えば、かけるのか」
 私の目尻がきゅっとすぼみ、相手を捉えたころ、雑渡様はただ一つの瞳を大きく開いてこちらをじっと見つめていた。
……なぜ、と問うても?」
 至極真っ当な問いに、私は気圧されそうになりながら面と向かって答えた。
「主こそ、その国に囚われ、飼われているのかもしれない」
 普段、あまり自分の見解を話すことはなかった。雑渡様は落ち着いて、私の話に耳を傾ける。
「であれば、首輪をつけるのは私の方だ。私はそんなもの無しに、自由に生きるお前を見たい」
 かつてその身が業火に焼かれるまえ、当時の強い先輩たちに比肩する能力を持ちながら飄々と、鍛錬を抜け出し私と野山をめぐったころの。山本さんが探しにくるまで夕暮れを愛でながら、タソガレドキの明日を話す横顔を。今も目に焼きついているのは、その夕焼け色の輝きを灯した瞳の先だ。私を映し、世界を映し、この清い目を持つ人が私の主なのだと痺れるように感じたころの。
 父の威厳を思い出す。あの凜とした背を今だけは借りたように、私は筋を伸ばした。が、すぐに申し訳なくなる。
「けれどもし、こんな私を許すなら、その自由な心も欲しい──これ以上はご勘弁を、雑渡様」
 私はついに勇気をくじき、うつむいた。雑渡様が大いに満足した顔をされているのが気配でわかる。この方はおおよそ不機嫌になることが少ないが、機嫌がすこぶる良いときは新緑のような穏やかな気を放つのだ。それでいて、夜露の香りが舞うような。澄み渡った空気を感じ取りながら、私はただひたすらその爽やかさと相対した場所で降参の合図を送るしかなく。
「なんだ、もうやめてしまうの」
「息が苦しく詰まるようになります……あなたに無体を働いているようで」
「真面目なんだから」
 そっと気配を解いた雑渡様は、いつもの変わらない姿を見せてくれる。立ち上がって私を見下ろした。その方が安心してしまう私は、許しを得るために口を開く。
「触れてもいいですか」
……? もちろん。許可など取らなくていいよ、どうしたの」
「あの、あなたが」
 苦しい息の下から、私は言葉を発する。
「あまりに完璧に演じられて、まるで本当に付き従っているようで、その……めまいが、しました」
「めまい、ねぇ」
 雑渡様が私の手を取る。触れてもいいということだろう。そのうちその手を包帯の上へ滑らせた。私の指先が、そういうふうに最初からできている造形物のように、勝手に動いて彼の頬をなぞる。
「殿は、すごいお人ですね」
 雑渡様が、え、と心底不思議がる声を発した。
「なんで今殿が出てくるの」
「あのような雰囲気のある雑渡様を、常に従えていらっしゃるのでしょう」
「うーん……もっと失礼な感じだと思うよ」
 不遜ふそん、っていうのかな。と彼は悪びれなく言ってのける。私は少しおののいたものの、息を吐いて笑うことができた。
「陣左は、主人になっても私に心を砕いてくれていたね」
「部下に心配りをするのは当然なのだと、常日頃教わっております」
 誰にとは問われず、雑渡様はふむと頷く。
「どの部下の自由も、望んでくれる主人なの?」
「それは難しいです。そうしてしまうと、尊奈門のように学園へ飛び出す者まで面倒を見切れるかどうか」
「はは、そうだよね。厳しさもときには必要か」
「決して組頭が甘やかしていらっしゃると言いたいわけでは」
「わかってるよ。ただね陣左、知っているかい」
 それは諭すような言い方というより、どこかずっと虚空に向けて雑渡様が考えてらしたことを、吐き出すような言葉だった。
「その自由は、限りなく広大に見えて実は制限付きだ。殿や、組頭という主が、お前の言うように首輪をし、柱に繋がれているからこそ成り立つ」
 雑渡様の言わんとすることがまだ計れない。私は慎重に次を待つ。
「人は自由なようでいて、実はさまざまな制約の中で生きている。お前の自由なんて、特にだ──なのに、私は当たりまえにお前がそばにいると思ってしまっている。尊奈門にも、山本にも、他の誰も彼もが私以外の自由を得ているのに、私とお前ときたら、それがないんだよ」
 尊奈門は我が軍がオーマガトキを攻めたとき、土井半助という強敵を見つけた。山本さんは、亡き雑渡様の父君を偲びながら、家族の大事さを伝えてくれる。
 私は高坂の家を離れた。雑渡様には殿がいるが、身内は一人もいない。タソガレドキという土を踏み、そこに根付くことで私たちは生かされる。
「寂しい者同士、って言いたいわけじゃないんだけどね」
「だとしても、その寂しさがあなたと同じであるなら、私は構いません」
……今日はずいぶん口説いてくるね」
 それも私に似たの? と聞かれる。そうであったか、どうだったか。少なくとも私の人生で、こういうような遊びと彩りを与えてくれたのはいつも雑渡様であった。十三歳のころの記憶が、新緑の穏やかな空気と共に蘇る。そういえばあの、名前を初めて呼ばれた折にこの方はこう言っていた。
 ──私も父をうしなった。そしてあとには誰もいない。私についてきたお前だけ。
 寂しさを風で舞い上げ、後に残った地に二人で立っていた。お前だけと言われたことが口説くうちに入るのなら、私はそこからずっと影響を受け続けている。
 私は答えた。
「あなたに似たのだと思います。よもやお忘れになってしまったのですか」
「そういうわけじゃないよ、ただどの言葉だったかなぁって」
「てっきり十三の小僧をもてあそばれたのかと」
「あのね、酔狂でそんなことしないよ」
 久しぶりにこの方をからかうと、少し晴れやかな気持ちになる。雑渡様は相変わらず、「どのときに言ったっけ……?」と思案されていた。どうせ私はいつまでも、この方には敵わないのだ。そうして私について悩んでいる顔つきの真剣さだけで、ずいぶん心が報われる。