某月某日午後。バッキー・バーンズは地上六十五階建ての高層ビルにて、複数の警備員の制止の声と時折発砲される威嚇射撃を背に非常階段の五十九階部分を上へ上へと駆け上がっていた。
事の起こりは数十時間前。サンダーボルツ改めニューアベンジャーズのもとにいくつかの任務が舞い込んだことに始まる。なんでもOXEグループの傘下にあった会社が離脱する際にとある機密研究のデータをちょろまかし、人のふんどしで一山当ててやろうと画策しているらしく、それを阻止したいとのことだった。ミッションは三つ。どれも緊急性が高く優先順位を決めかねるそうで、チームを三つに割って同時進行することになった。
「え、バッキーそれでいいの?」
これは俺が担当する、と資料が入ったタブレットの一つを手に取った途端、エレーナが思わずと言ったように声を上げた。どういうことだ、と視線を返せば彼女は「それって潜入任務でしょ」と答える。
「そういうの、あたしやエイヴァの方が向いてると思うから」
向こうでエイヴァも同じことを言おうと思った、と言わんばかりにバッキーを見ている。なるほど、研究が行われているビルに潜り込んでデータを盗み出すというミッションは、確かにウィドウとしてスパイの英才教育を受けたエレーナや姿を消せるスキルを持つエイヴァにとって得意分野であろう。だが。
「お前たちは、表に出る仕事がしたいんだろう」
バッキーが当然のようにそう返せば、二人は目を丸めて呆気に取られたという顔をする。
「こういうのは、俺も苦手じゃないしな」
「そうだぞエレーナ。バッキーは伝説の暗殺者ウィンター・ソルジャーなんだからな!」
わっと話に入ってきて何故だか得意げに語り大きな笑い声を上げるアレクセイを、エレーナが「パパ!」と嗜める。
「まぁ、そういうことだからこれは俺が一人で行く。後はお前たちで割り振ってくれ」
そんなこんなで仕事の割り振りが決まったのを見届けて、件の企業の研究施設があるこのビルへバッキーは一人潜入した。ラボのあるフロアの見取り図や侵入経路などは、事前によく下調べがされていたので中へ入るのはそう難しくなかった。外から一方通行の秘密の経路を通って四十三階にあるラボへ忍び込み、メモリにデータを書き写し、何食わぬ顔で廊下へ出る。そのままここの社員ですという顔でしれっと外に出られればミッションコンプリート、のはずだった。
「あ、お疲れ様です」
唐突に声をかけられる。ぎこちなく振り返れば、白衣を着た若そうな猫背気味の男が二メートルほど向こうに立ってこちらを見ていた。
「その、ええと、すみません。ウチの会社の人ですよね。まだ入って間もなくて、営業の方の顔と名前まで一致してなくて」
どうやら、ラボから出てきたスーツ姿のバッキーのことを、自社のスタッフだと勘違いしたらしい。バッキーはさっと笑顔を貼り付けて体ごと向き直ると話を合わせる。
「ああ、そう言えば君は新人の……」
「アンディです」
「そう、アンディ。ラボに用事が?」
先程出てきたドアを指し示しながら首を傾げて見せると、アンディはいいえと首を振る。
「これからオフィスに戻るところで。あなた……ええと」
「ジェームズだ」
「ジェームズさん、も戻るところですよね? ご一緒しても」
ここで流石に嫌だと拒否する訳にもいかず。咄嗟のデマカセも浮かばずバッキーはそのままアンディとエレベーターに乗り、本来は降りたかったところを更に上へ上へと向かうことになった。
「それにしてもIDを忘れるなんて、あなたみたいなハンサムにもうっかりなとこがあるんですね」
しばし世間話に興じていたアンディがふと思い出すように言って笑う。警備が厳重なこのオフィスビルでは、エレベーターひとつ動かすにも社員IDが必要だった。
「そりゃあするさ。家の鍵を忘れて、恋人に泣きのメールを入れたこともある」
「あはは。でもそういう感じがモテちゃうんだろうなぁ」
けらけら、と笑い声を上げた彼は、そこで突然はたと固まり、首を傾げる。
「あれ、でもIDを忘れたなら、どうやってラボに」
マズイ。確かにそうだ。先程彼の目の前で、バッキーは特に警備が厳重なはずのラボの扉を堂々と開けて出てきたのだから。
「っ、まさかアンタ」
言い訳を考える間もなくさっと青ざめたアンディが慌ててエレベーターの非常ボタンを押す。それを止めようと手を伸ばすも、一歩間に合わず警備室と繋がってしまった。手刀を落としてアンディを気絶させたが時すでに遅く、エレベーターはガクンと大きな音を立てて止まってしまう。
『どうしました、今警備のものが向かうので状況を』
スピーカーからしきりに無事ですか、もしもしと声がする。恐らく、監視カメラがあるだろうからぐったりと倒れ込んだ男の隣に立っている自分の姿が映っているだろう。このままここにいれば、出口の乏しいエレベーターへと警備員たちが殺到してしまう。
仕方ない、とエレベーター上部の非常口を開け、ケーブルづたいに上の階へたどり着き、膂力に任せて扉を開いた。周りに誰もいないことを確認し、誘導灯を頼りに見つけた非常階段の扉を鍵を握りつぶすようにして壊す。
「あそこだ!」
薄暗い階段に出ると、下から警備員の足音と声がした。反射的に上へと階段を駆け上がる。そうして威嚇射撃と制止の声に追い立てられながら一つ、また一つと階を上がってきた訳だ。やがて行き着いた先にある、やはり鍵のついた非常扉を力任せに突破した。
途端、急な陽光の眩しさに目を眇める。ごうと吹き抜ける風を向かいから受けながら立ち止まることなく屋上フロアを端まで走った。ヘリポートも兼ねているからか転落防止の柵などはない。
「止まれ!」
他に道はないかと戻りかけたバッキーを囲うように、追いついた警備員たちがバラバラと屋上に出てきて散開する。さてどうするか、とバッキーは彼らと対峙しながら考え込んだ。
飛び降りるのは無理だ。パラシュートなしで六十五階建てのビルからフリーフォールを決め込む訳にはいかないし、先程軽く見てみたが掴まれそうなところもない。真っ逆さまに落ちれば流石の超人でも潰れておしまいだ。地上二十階相当の高度六十メートルからダイブするのとは訳が違う。
目の前の警備員たちを突破して非常階段を降りるという手もあるが、六十五階分を降りている途中でまた警備に邪魔されるのが関の山だろう。手こずっている間に警察やら何やらを呼ばれる可能性もある。大体、突破するとなれば今目の前にいる警備員たちは無傷ではすまない。多勢に無勢でそこまで器用に立ち回れる自信はなかった。今回の任務は内密にと言われているし、何より善良な会社に勤めていると思ってただ職務に邁進している彼らを傷つけるのは本意ではない。
と、突然耳につけていたインカムにノイズが走り、思わず顔を顰める。今回は単独任務ではあったが、突然の連絡に備えて一応つけてはいたのだ。一体何だ、とインカムに指先を添えると、もう一度ザッとノイズが走る。そして、微かに届く声。
「大人しくしろ! そのまま、両手を頭の後ろに組んで、膝を」
ハッと顔を上げ空を見上げると、バッキーは突然に踵を返し一直線に走り出した。
「おいっ、動くな……ッ!」
その背中に先頭にいた警備員が銃口を向ける。しかし、ガァンと金属のぶつかる甲高い音と共に照準が逸れ、銃弾はバッキーの足元から少し離れたところで跳ねた。なんだ、どうした、という焦りの声に構わず、バッキーがビルの端に足をかける。
「バッキー!」
呼び声と共に振り返り、咄嗟にメタルアームを翳して目の前に迫っていたそれ受け止める。
正円を描く星条旗色のストライプの中心に、星。
「ぅ、おっ」
いなしきれなかった勢いのまま、ぐらりと体が傾ぐ。足がもつれ、やがて体が宙に浮いた。だがその間も、屋上に降り立ち警備員たちを相手に立ち回る大きな羽根を携えたその姿から目が離せない。
「サ……っ」
ふっとその姿がビルの影に隠れる。いや、バッキーが屋上の高さより下に落ちているのだ。ごうと背中側から強い風が吹く。目まぐるしい速さでスライドしていく視界の端にキラリと何か光った。それは小さな影になり、ぐんぐんとバッキーへと向かってくる。
レッドウィングだ。機械じかけの鳥はそのままバッキーが手に持ったシールドを背負うようにポジションを取った。右手を伸ばしてシールドの持ち手を握ったと同時に、レッドウィングが制動をかけシールドが宙で静止する。その衝撃でガクンと体が揺れ、左手が金属の擦れる嫌な音を立ててシールドから滑り落ちた。バランスを崩しかけ、慌てて右腕に力を入れ片手で懸垂をするようにしてなんとか左手でも持ち手を掴む。
バッキーの体が安定したと見ると、レッドウィングはゆっくりと地上へ向かって降下を始めた。その隣に、滑るようにサムが飛んできて並ぶ。
「どうせ掴むなら、お前の手のほうが良かった」
バッキーがぽつりと呟くと、サムはゴーグルの向こうでちらりとこちらを伺い、ふんとバッキーの要望を跳ねつけた。
「嫌だ。俺の腕が千切れたらどうする」
「お前、俺のこと全身金属だと思ってる?」
そうこうしている内に空の旅は終わり、地に足がつく。高いところから落ちるのはもう何度目だったか分からないが、慣れる気がしない。ほっと安堵の息をついたバッキーの側で、サムも危なげなく地に降り立った。
「議員に復帰したのか」
スーツ姿を揶揄っているのだろう。違う、と憮然としながら自分の体重を支えて負担のかかった肩をぐるりと回して解す。
「潜入用だ。まぁ、選挙活動の時に買ったスーツだが」
「なんか、時間が巻き戻ったみたいだな」
思わずというように零れた言葉に、一瞬言葉をなくす。だが返す言葉を探す前に、「仲間は」とサムが聞いてきた。
「別件で出払ってる。ここには俺だけだ」
それに、ウチのチームに空を飛べるやつはいない。そう続けると彼は肩を竦めるようにしながら笑う。
「まさかサムがここに来てるとは思わなかった」
「ちょっとしたリークがあってな。現着してさてどうするかと思ってたら、ネズミが一匹入ってくのに気づいて」
「ずっと俺をモニターしてたのか? 小狡いな、キャプテン」
「堅実と言ってくれ。こういうのは、お前のほうが上手いだろ」
さて、その技術を認められて喜んでいいのかどうか。複雑な気分に表情を歪めてしまう。しかし、そんな中バッキーのピンチと見て飛び出してきてくれたのかと思うとやはり喜びが勝る。
バッキーはポケットからメモリを取り出して「サム」と呼びかける。そして振り返った彼に向けて、ぽいと放り投げてやった。
「……いいのか?」
まさか簡単にデータを譲られると思っていなかったのか、流石にサムは驚いて目を丸めていた。
「命を救ってもらった礼には安いぐらいだろ」
に、と笑ってそう返すと、彼はなんとも言えない表情を浮かべながら取り出したモバイルにメモリを差した。インカムに向かって何事か喋っている。恐らく、トレスか誰かに声をかけているのだろう。
その横顔をじっと眺める。
「なぁ、サム」
意を決して声をかける。うん、とこちらに視線を向けて一体なんだと態度で聞いてくる。
「時間があったら、この後飲みに行かないか」
再び、サムは目を丸めて呆気にとられたという顔をした。だがすぐに、少し考え込む素振りをして、インカムの向こうに声をかけ、バッキーに視線を戻す。
「お前が《説得》をしてこないなら」
「……分かった」
「向こうに車を停めてあるから、着替えてくる」
店を探しておいてくれ、と言いながらすれ違いざま、バッキーの胸ポケットにすっとメモリが差し込まれる。先程、サムに渡したデータの入ったメモリだ。
「サム?」
「お前も必要なんだろ。コピーは取った。悪用させたら、とっちめにいくから」
そして、ひらひらと手を振りながら歩いていく。バッキーは暫し呆然とその背中を見つめていたが、やがてくるりと踵を返し、やたらと気合の入った顔で店を探すべく街の方へと歩いていった。
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