みずあめ
2025-06-03 19:49:14
3107文字
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久々綾

現パロ

家を出る時にきちんと閉めたはずなのに、部屋の鍵が開いていた。ドアノブを回してそっと扉を開き、隙間から部屋の中を覗く。と、見覚えのある黒い革靴が玄関に置いてあった。視線をその先へ向けるとカバンやらジャケットやらがリビングまで点々と落ちていて、さらにその向こう、玄関から直前上に置いているソファーの肘掛けに黒髪の頭が乗っていた。
……ただいまです」
声をかけても返事はない。革靴の隣にスニーカーを並べ、なんとなく足を音を忍ばせて荷物を拾いながら部屋の中へ進む。ソファーのすぐ横に立って見下ろせばその人はすぅすぅと静かに眠っていた。緩められたネクタイの奥、白い首元を見つめて目を細める。
「久々知先輩」
名前を呼んでも先輩は眠ったままだ。僕は両手に荷物を持ったまま背中を丸め、先輩の額に唇を落とした。四月からずっと仕事が忙しいと言っていてゆっくり会うこともできていなかったから、こうして部屋に二人きりなのはずいぶん久しぶりな気がする。
それなのに、なんで寝てるのかな、この人は。
荷物を床に置いてキッチンのシンクで手を洗い、服を脱いで部屋着のスウェットに着替える。遠慮せず物音を立てているというのに先輩は起きそうになかった。疲れてるだろうから寝かせてあげた方がいいのかも、なんて、優しい心は残念ながら持ち合わせていない。起きて、僕に構ってよ。
「久々知先輩、起きてください。早く起きないと先輩のお豆腐食べちゃいますよ」
「っ! 豆腐!? …………え、あれ、……喜八郎、……おかえり?」
「ただいまです。豆腐は嘘です、おはようございます」
……俺寝てた!?」
「不法侵入のくせに呑気なものですね」
「ご、ごめん、連絡しようと、思ってたんだけど……っ、頭痛い……
「酔ってますか? お酒臭いんですけど」
「酔ってるぅ……ごめん、あいたくて、きちゃ……うっ」
「トイレはあちらですよ」
ごめん、と呻くように言って、久々知先輩は口を押さえながらトイレへ駆け込んだ。先輩のいなくなったソファーに腰掛けてテーブルの上に置かれたコンビニの袋の中を覗くと、僕の好きなショートケーキが入っていた。あーあ、どうしようもない酔っ払いのくせに。それだけで全てを許してしまいそうになる。
「きはちろー……
「はい。大丈夫ですか?」
「うん、ごめん……。連絡ちゃんとしなかったことも、ごめんな?」
「あぁ、それは別に」
……本当に気にしてない?」
「いつでも来ていいと思っているから鍵を渡してるんですよ」
……お風呂入ってくる」
「え?」
「ぎゅーってしたいけど、俺、今臭いから」
……いってらっしゃい」
「あはは、そこでそのままで良いって言わないのが喜八郎だよな。すぐ出るから寝ないで待ってて。あ、その袋のやつ食べていいよ」
「ありがとうございます」
顔色はあまり良くないけれど、吐いたおかげか酔いはずいぶん醒めたみたいだった。ふらふらとお風呂場へ向かった先輩を見送り、僕は袋からケーキを取り出して箱を開ける。ふわりと広がる甘い香りに口角が緩んだ。僕が好きなこのケーキは、最寄駅から僕の家の間にはないコンビニの商品だった。酔っているのにわざわざ遠回りして僕の好きなものを買ってきたのだろうか。連絡もせずに人の家のソファーで寝こけていたくせに、おかしなところで気を使う人だ。
僕がケーキを食べている間にすぐにお風呂から出てきた先輩は、濡れた髪もそのままで「喜八郎〜」と甘えた声を出して僕にくっついてきた。やっぱり酔ってるな、この人。押し付けられる髪に服が湿っていくのを感じながらその頭を雑に撫でた。
「久々知先輩、ちゃんと髪乾かして。風邪引きますよ」
「喜八郎があったかいから大丈夫」
「僕は体温低めです。あとケーキを食べるのに邪魔だから腕は触らないでください」
「うわ、喜八郎の冷たいところすら久しぶりで可愛く思える。だめだな、もっといっぱい会わないと」
……仕事忙しいの、終わったんですか?」
「一旦一番ヤバかったやつが片付いたけど、まだしばらくは忙しい。でもそろそろ息抜きしないとって今日はみんなで飲み会だったんだ」
「お疲れ様です」
「喜八郎は? 最近の喜八郎のこと全部教えて」
「何にもないですよ。いつも通りバイトしたり出かけたりふらふらしてます」
「バイトって前聞いたところから変わってないの?」
「あー、前話した時って僕何してました?」
「児童館のお手伝い」
「それもまだ時々やってますね。今のメインは、カフェのホールで」
「え、行きたい」
「先輩の会社の近くなんですよ」
「え!? 早く教えてよ! どこ?」
ソファーの上で溶けるようにだらしなく座っていた先輩はパッと体を起こして僕のことを大きな瞳で見つめた。返事をしないままケーキを一口分フォークに乗せて差し出せば、先輩は何も言わず口を開ける。先輩がそれをパクッと食べて咀嚼している間に僕はスマホを操作して地図アプリで今のバイト先のカフェを表示して見せた。真面目な顔で画面をじっと見て、すぐに視線が僕に戻ってくる。
「明日行く」
「明日は休みです」
「明後日は?」
「お昼から夜まで」
「じゃあ昼と夜行く」
「ふ。変な人だと思われちゃいますよ。仕事が早く終わりそうなら夜だけ来てください。一緒にご飯食べて帰りましょう」
……喜八郎〜」
情けない声で僕の名前を呼び、先輩は僕のことをぎゅうっとキツく抱き締めた。うざったい、めんどくさいって、いつもならそう思うけど、僕だって久々知先輩に会うのが久しぶり過ぎて、そんなところすら可愛く思えてしまう。ほんと、もっといっぱい会わないとだめかも。
「先輩って今、会社の近くに住んでるんですよね?」
「うん、去年近くに引っ越したよ。何回か来たことあるよな?」
「広くて綺麗でしたよね。この部屋が狭過ぎるんですけど」
「喜八郎にくっついてられるから好きだよ、この部屋」
「広かったら遠くにいるんですか?」
「広くても近くにいるけどさ。ふふ、また今度泊まりにおいで」
「泊まりっていうか、住んでいいですか?」
……え?」
「バイト先もそっちの方が近いし、二人でも十分暮らせる広さだし、なにより久々知先輩が帰ってくる場所ですし」
…………俺の聞き間違いじゃなければ、同棲しようって、そう言ってる?」
「はい。お邪魔じゃなければ」
「邪魔じゃない! 全然邪魔じゃないし、俺も喜八郎と一緒にいたい! ……いいの?」
「先輩こそ、いいんですか?」
「俺が嫌だって言うわけないだろう?」
「そうですかね。だって一緒に住むんですよ? 僕、あんまり家事とか得意じゃないの分かってるでしょう。たぶんいっぱい迷惑かけます」
「いいよ、迷惑かけてよ。喜八郎が一緒にいてくれるならそれでいいから」
……本当にいい?」
「本当にいい。喜八郎と一緒にいたい。いっぱい迷惑かけていいよ、絶対嫌いにならないから。でも、ごめん、俺ももしかしたら喜八郎に迷惑かけるかも。仕事忙しくて朝も夜もバタバタしてるし、疲れて帰ったらそのまま寝ちゃうこともあるし」
「許しません」
「えっ」
「僕が家にいるんですよ? いってきますとただいまをちゃんと言って、ソファーじゃなくてベッドで一緒に寝てください」
……抱きしめていい?」
「今以上にですか?」
笑って言えば先輩は腕の力をぎゅうっと強くして耳元で「だいすき」と呟いた。わがままを言ったのに喜ぶなんて、相変わらず久々知先輩は僕に甘い。でも酔ってふらふらの先輩も可愛く思えてしまうから、僕だって同じなのかな。