どうだろうか、と緊張しきった声での簡単な説明と共に差し出された資料にアルハイゼンは一応目を通す。タイトルは本宅の台所と浴室の修繕及び改築の提案で、彼女の説明と乖離はない。
なるほど、とアルハイゼンはひとまず納得することにした。台所と浴室はカーヴェがこの家で長らく不満を訴えていた個所であり、どうもこの様子だとついに我慢ができなくなってしまったらしい。
細々としたところを確認しても自身では判断しきれない部分もあるため、ざっと眺める程度の事しかできないと判断しつつもアルハイゼンは数枚の資料をぺらぺらと捲った。それだけでもこの意匠はただのカーヴェの趣味だろうと一目で分かるものがちらほらと含まれていて、彼女が自身のために設計をしたのが窺える。
「僕も君と同じくらい使うんだから、かかる費用は折半しよう」
最後のページに記された概算の見積もりに視線を落とした瞬間、カーヴェが意を決したように告げてきた。総額は折半してもそれなりの額だったので、思わずカーヴェの様子を窺いたくなって顔を上げてしまう。少なくとも月々の家賃の支払いに困窮する彼女がぽんと出せる額とはアルハイゼンには思えない。
「大丈夫だ。このお金はサングマハベイ様にも相談して調整して用意したから。僕の作業分は抜いていて相場より少ないくらいだから、他所で見積もりを取り直す必要なんてない。まあ、代わりに高めの資材を使っているところがあるけど、君がここに長く暮らしたいなら飲んでくれた方が良い部分だって僕は考えてる」
「……どうやら俺は君の不満を甘く見ていたらしい」
作業台の高さであるとか、排気の問題であるとかの彼女の不満をアルハイゼンは以前から度々聞いていた。カーヴェの言う通り、台所の作業台の高さはアルハイゼンにもカーヴェにも合っていなかったし、風呂の後に水切りをしなければ湿気が籠もり続けてすぐにカビが生えてしまう。
それ以外の指摘箇所についても、言われてみれば不便だと納得してしまうものばかりだった。そこに加えて配管の部分が怪しくなっている所があるらしく、いい加減我慢の限界が来たのだろう。彼女の動機に怪しい所は見つからないように感じられた。
とはいえ、もう短いとは言えなくなってきてはいるものの、カーヴェにとってこの家は仮の住まいでしかないはずだ。少なくとも、アルハイゼンが彼女を家に上げた時、彼女にとってここはそういう所になるはずだった。
生活基盤を安定させて、一つ仕事を片づければカーヴェの懐は曲がりなりにも温もっただろう。その費用で他所の賃貸を探し、この家を後にする算段を彼女も立てていたに違いなかった。アルハイゼンの推測を証明するように彼女は不動産屋から間取り図を良く持ち帰ってきていたし、アルハイゼンに意見を求めてきたこともあったくらいだ。
けれど、カーヴェは多数あった候補の中からどれも選べなかったらしい。それが費用の問題だったのか、条件によるものか、はたまたある種の自信の喪失がそうさせたのか。カーヴェが新生活に身を投じ損ねた理由をアルハイゼンは知る由もない。
とにかく、頻度が減って来ていたそれは例の学院祭を境に綺麗さっぱりなくなってしまった。まったくなくなってしまったのかまでは分からなかったが、この家を出る準備をしている素振りをカーヴェは見せなくなったのだ。あの出来事が自分達の関係を和らげたのは間違いなく、延いてはカーヴェも今の生活を見直す機会になっていたのかもしれない。
良い変化ばかりだったと言い切ってしまいたかったが、少しばかり都合が悪い部分があるのもアルハイゼンは否定できなかった。彼女を酒場で見つけてこの家に連れてくる際に、アルハイゼンは一つの誓いを立てたのだ。彼女がこの家を出るまで決して自身の思いを告げることも、気取られることもするまいと。
異性が同じ家で暮らすのであれば必須要件であるだろうから、当時の自分の判断が誤っていたとは思わない。とはいえ、長らく恋煩いをしている相手が四六時中私的な空間にいるというのはなかなかに厳しいものなのだ。それを補って余りあるリターンはあるのだけれど、だからといってこの懊悩が掻き消えるものでもあるまい。
その日頃の鬱憤をごまかすためにも、彼女が新しい住み処を見つけここを離れるその時には長年抱えた気持ちを伝えてしまおうと思っていたのだ。少なくとも今の彼女であれば答えはともかく、驚きこそすれ強い拒否感を示すことはもはやないだろうとアルハイゼンは期待交じりに考えている。
まん丸になったまなこに一拍遅れた嵐が渦巻き、そんな話は聞いていないと非難してくる彼女の感情の爆発を思い、アルハイゼンは一度目を伏せる。この生活を愛おしみながらも、いつか来るだろうその瞬間を待望もしていると言えるだろう。
それなのに、彼女は自分の身銭を切ってこの家を育てていくつもりになったらしい。少なくともこの折半に損がなかったと思えるくらい時間が経つまでは、カーヴェはこの家から離れないのではなかろうか。
その、金額を思えば決して短くはないだろうこれからを、カーヴェはアルハイゼンと過ごして良いと言っている。それはもちろん歓迎するべき事だと、アルハイゼンも理解していた。アルハイゼンだってこの日々を手放したいとは思っていない。
けれど同時にその日々は自身の思いに蓋をして、口を噤み続けてやっと成立するものなのだ。それは眩暈がするほど幸福で、無視しきれない疼痛を引き起こす日常でもある。
それでも。
「……駄目かな」
おずおずとアルハイゼンの意向を探るようにカーヴェが視線を寄せてくる。概要を掴んだだけなので、カーヴェの見栄えを気にした筆跡が示す内容はまだ半分も頭に入っていない。けれど、建築において彼女の判断であるならば、おおよそ間違いはないのだろう。
* * * *
「やったぞメラック!」
自室に戻るまではある程度制御できていたつもりだったが、扉を閉めた瞬間に膨れ上がる気持ちを抑えきれなくなってしまった。作業机の上で待ってくれていたメラックを抱き上げて踵を軸にしてぐるりと一周回ると、メラックがカーヴェの声に反応して機嫌の良さそうな声を上げてくれる。ここのところずっとつっかえていた問題が解決したからか、万年凝っている肩も気持ち軽い気がした。
この家は研究施設を無理やり住居に転用したせいか、元々ちょっと間取りが怪しい。間取りが怪しければ当然他の細々としたところも妙なのだが、その中でも一番変だったところがようやく解消できるのだ。
元々ろくな水回りもなかった建物に強引に台所と風呂場を拵えたのだから仕方がないと言えば仕方ないのかもしれないが、よくもまあこんな家を妙論派の星に寄越そうとしていたものである。もしも自分達の関係が良好なまま共同で所有する運びになっていたら、カーヴェはアルハイゼンが引っ越すのを止めて家を更地にして水道管の引き直しから行っていただろう。今となっては愛嬌で済ませてやって良いところもあるが、そもそも出会わなければ良かった部分などいくらでもある。
けれど、一番大事なのはそこではないのだ。勢いを残したままもう半分回転して、カーヴェはベッドに仰向けになって倒れ込んだ。ぎしぎしと文句を言いながら弾むコイルベッドの感覚が心地いい。
「アルハイゼンが僕のお金を使ってこの家を直していいって言ってくれたんだ」
台所と風呂場も重大事ではあったものの、それを越える喜びをカーヴェに与えるものではなかった。少々悩んだ気配があったのは否めないが、アルハイゼンは最終的にこの家の改装のためにカーヴェの懐を痛めるのを受け入れてくれたわけである。
それはとどのつまり、この家の所有権を主張するような行為を彼が看過してくれたようなものだった。ただの居候の類が家の修繕費を持つなどありえないと、アルハイゼンも思わなかったはずがないだろう。
それでも、彼はカーヴェのわがままを許してくれた。それが口元を緩ませてしまうほどに嬉しい。
不満があるなら出て行けばいい。アルハイゼンがカーヴェと口論になって早々に切り上げてしまいたいか、旗色が悪くなった時に彼が使う天下の宝刀である。多用されないが故に抜群の効果を発揮するそれがカーヴェを騙される事以外に使われた事は今まで一度もなかった。だから、派手な口論の機会がほとんどなくなった今では耳にすることもなくなっている。
ただ、よしんば不満がなかったとしても、いつまでもずっといていいはずもないだろう。彼が主張する通り、この家の所有権はカーヴェが自ら手放したのだから。
だから、自分の身の上が落ち着いたらここを出なければならないと思っていたし、実際に準備だって進めてはいたのだ。しかし、アルハイゼンの家の立地が恐ろしく良いのが仇になって芳しい結果にはならなかった。
教令院にほど近いこの家は当然ながらスメールシティのど真ん中にある。建設業は工事となれば話は変わってくるが、設計までのフェーズであれば都市部に仕事が集中することが多い。そのため、彼の家に身を置くようになってから打ち合わせの移動時間がぐっと少なくなって、今更この時間を増やすにはどうしても抵抗が生まれてしまう。
その上、住宅街でないのもあって周囲に家がないせいで家の中で模型の調整をしていても、クレームは一切もらったことがなかった。いや、家の中からは発生しているのだけれど、内と外のどちらか一方となると内になるのは自然の摂理だとカーヴェは思う。
教令院への通勤通学の道に面している関係で朝と夕方は多少騒がしく感じることもあるが、時間が過ぎた途端に一気に穏やかになるメリハリの効き具合は好ましい。職員達の仕事終わりより少し早く解放された学生達の声を聞きながら、夕食の準備を始めるのもカーヴェは嫌いではなかった。
例えばこの家よりも道の起伏が楽だったり、バザールに近かったりする家はいくらでもある。けれど、カーヴェが心地よく感じている要素を全て満たした賃貸など、早々見つかるはずがなかったのだ。もちろん妥協をすればそれらしいものは見つかったが、この家で暮らせば暮らすほど引っかかりを覚えるようになってしまう。
そうこうするうちにカーヴェの意欲はどんどん薄れて行って、ここ半年は不動産屋にすら足を運んでいなかった。よくないことだと重々承知はしているものの、一気に気持ちが軽くなったまま暮らせばこの家での生活の良さばかりが目に付くようになっていく。
つまるところカーヴェはこの家を、アルハイゼンとの生活を好ましく思っているのだ。そう、軽やかな気分がカーヴェに否定しがたくなってしまった事実を伝えてくる。
振り返ってみて、この家で暮らしていた全ての時間が自分の気持ちを柔らかくしたわけではないことくらいカーヴェにだって分かっている。けれど、これからはずっとそうなるなんて確証のない確信がいつの間にか心のうちに宿ってしまっていた。
君が必要とするならそれで構わない。カーヴェの用意した提案書をテーブルに戻しながら、アルハイゼンは少し気分を緩めようとするように微かに息を吐いてからそう口にした。カーヴェの提案を受けることが単なる家の修繕に留まらないことくらい、彼も分かっていたのかもしれない。もしそうなのだとしたら、もっと嬉しい。
必要だよ、とカーヴェは先ほどアルハイゼンに告げた言葉を繰り返した。それから、彼に伝えられなかった言葉をゆっくり思考の海に漂わせる。
「……これからもあいつと暮らし続けてもいいか知るために、僕には必要だったんだ」
腕の中で静かに収まってカーヴェを窺っているらしいメラックを撫でてやりながら、一つ一つ組み上げた思いを自分の部屋の空気に溶かす。まるで主人の声の調子に合わせるように密やかなメラックの相槌を聞きながら、カーヴェはゆっくりと瞼を落とした。
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