区役所の自動ドアが開くと涼しい空気が吹き出してきて、ほっと息がこぼれた。梅雨入り前の晴天で、外はずいぶん蒸し暑い。じっとりと額に張り付いた前髪を手で払ってから、一之倉は区役所の案内板を見上げた。
「あっちらしい」
一之倉よりも早く、松本が目的の部署を見つけて指さした。そのまま松本に手を引かれて、総合受付を過ぎ、区民課も素通りしてずんずんと進む。平日の昼下がりだというのにそのあたりは案外にぎわっていて、手を繋いで歩く男ふたりにはぶしつけな視線が突き刺さった。
「ここだ」
男女共同参画課、という小さな看板がかかったカウンターの前で足を止める。カウンターの中、パソコンやら分厚いファイルやらと睨み合っている職員たちは、こちらに気づいていないようだった。たぶん、あまり来客のない部署なのだろう。人が少ないぶん、受付や区民課のあたりよりもひんやりしている気さえする。
「あの」
一番手前のデスクに座っていた女性に、松本が声をかける。顔を上げた女性は、一拍の間をおいてからガタッと椅子から立ち上がった。
「あ、もしかしてご予約の松本様、一之倉様ですか」
「はい」
「お待ちしてました」
女性の声を聞いて、他の職員も幾人か視線を上げた。松本の顔と一之倉の顔を見比べて、おや、と首をかしげる男性もいる。松本の顔に見覚えがあるのかもしれない。松本がプロバスケ選手を引退し、そのラストプレーがスポーツニュースで取り上げられたのはほんの二週間前だ。
「お持ちいただいた書類を確認させてください」
「あっはい」
目の前の女性に声をかけられて、一之倉は繋いでいた手を慌てて離し、ビジネスバッグを開いた。取り出した茶封筒に、汗がにじむ。ジメジメした空気のせいでも、松本と手を繋いでいたせいでもない。たぶん人生で一番、緊張している。
女性はこちらの緊張なんてお構い無しに、キラキラのアイシャドウで縁取られた目を戸籍謄本にさっとすべらせた。
「はい、結構です。では宣誓書にご記入いただきますので、こちらへどうぞ」
女性ともう一人、年嵩の男性職員がカウンターから出てきて、階段を登る。一之倉はもう一度松本と手をつなぎ直して、そのあとに続いた。松本の手にも汗がにじんでいる。
案内された先は、どう見ても会議室だった。ずいぶんこじんまりしているから、相談室とか、そういう役目の部屋かもしれない。とにかく、華やかさもお目出度さもない、事務的な部屋だ。
青白いLEDに照らされた部屋に足を踏み入れると、いっそのこと肌寒いような気がした。
「はい、ではこちらにお掛けください。まずはこちらの確認書を」
女性の方の職員が、クリアファイルからA4の紙をぺらりと机に乗せた。その手の爪に、パールが光っている。公務員のわりに派手なネイルだな、という考えが一瞬頭をよぎって、慌てて取り消した。年齢的にジジイになるのは仕方ないが、考えまでジジイになるのは嫌だ。
松本が先にボールペンを握った。住所、氏名、電話番号、それにチェックマークをいくつか。一之倉も同じように記入する。
「それで、こちらが宣誓書です」
パートナーシップ宣誓書は、どう見ても普通のコピー用紙だ。そこにまた、名前や住所を記入していく。ハンコも持ってきたけれど、どうやら出番はないらしい。
松本、一之倉が記入し終わると、まず女性職員が記入事項を確認し、それから男性職員が目を通す。これまでひとことも喋らないこの男性は必要なのかと訝しんでいたけれど、たぶん立会人とか証人のようなものなのだろう。
「はい、問題ありません」
「おめでとうございます。これでおふたりにパートナーシップが認められました」
いつの間にかこわばっていた肩から、ふっと力が抜ける。松本のほうへ視線を向けると、松本も目尻にシワを寄せてこちらを見ていた。
一之倉はもう一度、机に乗せられた宣誓書を眺める。
「これで、こいつが死にそうなときに真っ先に俺に連絡してもらえますか?」
「多くの病院で、配偶者と同じ対応をされるようになっています」
「じゃあ、死にそうなときは対応してくれる病院に運んでもらえそうなところで倒れろよ」
一之倉が松本の肩を叩くと、松本ではなくて女性職員が顔を曇らせた。
「……すみません」
深々と頭を下げた女性の髪が、肩口で揺れる。自然にカールしているように見せるためにあれこれテクニックを駆使しているのだろう、ツヤのある髪だ。
「あ、すみません、別に責めたわけじゃないんです」
一之倉は女性に手を差し出そうとしたけれど、彼女はそれを待たずにがばっと顔を上げた。思わず手を引っ込めた一之倉に「すみません」ともう一度頭を下げてから、クリアファイルから茶封筒を取り出す。逆さまに振られた封筒からは揃いのカードケースがふたつ、滑り出てきた。
「あの、これ、保険証とパートナーシップ証書と緊急連絡先を一緒に入れられるケースです。良かったら、お持ちになってください」
「……ありがとうございます」
今度は一之倉と松本が頭を下げて、それを受け取った。彼女の左手の薬指には、銀色の指輪がはまっている。長い年月を共にしてきたのだろう、小キズのある、鈍い輝きの指輪だ。
「あ、パートナーシップ宣誓書と一緒に記念写真撮ります? ね、撮りましょ!」
女性はぱっと笑顔を作って、立ち上がった。書類をしっかりクリアファイルにしまってから、てきぱきと机を壁に寄せる。
椅子に座ったままそれをぽかんと見ていた一之倉と松本に、これまでほとんど口を開かなかった男性職員が宣誓書を手渡してくれた。
「彼女ね、おふたりが宣誓の予約の電話くださった日の翌日に美容室行って、その次の日に爪をアレして、今日の昼休憩には化粧直しまでしてたんですよ。いつもはいかにも公務員って感じの堅い人なんだけどね」
そう言われて、一之倉は改めて女性の頭から足の先まで目を走らせた。栗色の髪、パールの光る爪、爽やかな半袖のブラウス、ふわりと広がったスカート、八センチはありそうなヒール。
「お祝いだから、せめて晴れやかな格好でお出迎えしたいって」
そうだ、この部屋に入ったときにはもう、明かりが点いていた。エアコンが効いていて、椅子も机もセッティングされていた。自分たちは、祝福されていた。
「あー! 待って、まだ泣かないでください! 写真の後で思う存分! ね!」
女性の悲鳴と一之倉の涙が、同時にこぼれた。
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