哃、と鳴りながら降り注ぐ温かな湯に冬人は打たれていた。隣では水樹も同じように湯に打たれているのだが、彼はふとした瞬間に冬人へ話しかけようとして、見事に口へ湯が入って咳き込んでいる。
ここで「大丈夫?」と声をかけようものなら己も同じ道を辿るので、冬人は慌てながらも無言で水樹の腕を引き、一緒に湯から遠ざかる。素直に従った水樹は冬人の前でけほけほと咳き込み、息苦しさもあってか顔を赤くしていた。
「けほ、あ゙ー……喉がいがらっぽくなっちゃった……」
「水飲む? 一旦上がろうか」
「大丈夫です。僕はこんなところで挫けるほど柔じゃありませんよ……まあ、打たせ湯は初心者だったのでね……」
かぽん、と誰かが桶を置いた音がする。
ここは銭湯であった。頭にスーパーがつく系統の銭湯だ。大浴場は温泉の引かれた一般的なものとジャグジー、変わり湯に寝湯があり、サウナの隣にいまふたりが入っていた打たせ湯がある。小さいながら露天風呂もあり、休日ということもあってか賑わいはそこそこ。立ち仕事である冬人と水樹は偶にはひとつ癒されようと訪れたわけである。
ふうふうと息を整えた水樹であるが、それはそれとして続けて打たせ湯は考えものらしく、冬人の小指をちょいと握って「あちらも気になりませんか?」と変わり湯のほうを指す。
ふうわりと香るのはラベンダー。分かりやすい香りをしているがきつく感じないのは香料を上手く調節しているからだろう。
だが、水色はド紫である。
タオルを浸したらそのまま染色できそうなほどにド紫である。礼節として反しているのでそんなことはしないけれど。
冬人はいささか勇気がいるなあ、と思いながら水樹を見遣った。晶晶とした榛色の目がじっと真っ直ぐに見つめ返してくる。
「うん、いいよ」
少しばかり色味が派手な変わり湯に浸かることくらいなにとあらむ。
「やった。ちょっとね……ひとりで入るには勇気がいるなって思ったんですよね」
「あはは、そっか。俺もね、そう思ったよ」
「ふたりで来て良かったね」
ふんふんとご機嫌に、しかし湯に滑らないように慎重に。軽い足取りで変わり湯へ向かう水樹に小指を引かれ、冬人はド紫の湯に浸かる。
実際に浸かってみても香りはきつく感じなかった。水樹も「優雅な心地……」と頭にタオルを乗せてじっくりと目を閉じている。気に入ったようなので良かったな、と思う冬人はそういえばと訪ったとき、見かけた入り口の売店を思い出した。
「ここ、入浴剤も扱っていたけど見てみる?」
「え、この温泉を自宅でも楽しめるんですか?」
「……湯の花あったかは分からないけど」
湯の花さえ入れれば温泉になるのかも、浅学なる身では分からないけども。
「絶対に見て行こ! あ、そういえば温泉といえば珈琲牛乳ですが、ここなんとソフトクリームも扱っていてですね」
「両方選べばいいんじゃない?」
うんうんと悩ましい顔をしていた水樹が乙女のように両手の指先で口元を隠す。
「そ、そんな贅沢が……?」
「っふふ、そうだね。ありだと思うよ。せっかく体を労りに来たんだから、口だって喜ばせていいと思う」
「冬人さん…………天才の方ですね?」
「そんなにかなあ」
「そんなにです。ノーベル水樹賞を授与いたします」
多分、ここに紙切れがあれば水樹はメダルを折っていただろう。それくらいの重々しさがあった。
湯上がりの楽しみもできて体がほこほこになってきた頃、水樹がぐっと両腕を天井へ伸ばした。やはり日頃の疲れがあるのだろう。彼の肩からはばき、ぼき、と骨の入る音がする。
「冬人さん」
「ん?」
「締めの露天行かない?」
「いいけど、のぼせてない?」
「僕はこのためにじっくり調整してきました。日永水樹、いけます」
「ふふ、じゃあ行こうか。うん、結構熱いね」
「……冬人さんは大丈夫?」
言ってはみたものの冬人のこともしっかり心配する水樹に、冬人はタオル越しに彼の頭をぽんと撫でる。
「全然平気」
「……そっか! じゃあ行きましょう。露天だと少しは涼しいよね」
にぱっと笑う水樹の過剰に心配しないところは、冬人の好きな彼の部分の一つだ。相手に気を遣わせないというのは大人になっても、大人になったからこそ必要で、そして難しい。冬人はこれで幾つも失敗してきた。
露天風呂へ続くドアを開けた水樹が「わ、涼しい!」と声を上げて振り返る。
「梅雨だけど今日は晴れてるね!」
「うん、帰る頃には暑くなってるかもね」
「夏はあっという間だろうなあ」
外に出れば広がる青空。生憎と街中にあるスーパー銭湯なので周囲には覆いがあり、見られたとしても生活感のある街並みばかりであろうが、見上げる空の晴れ晴れしさは見事なものだった。
岩風呂となっている湯にも空の青さは反射して、先ほどまで浸かっていたラベンダー風呂もあって目に優しい。ちゃぷりと浸かった湯もぬるめで心地良かった。
「遠くに行かなくてもさ、こうやって温泉に入れるのってすごい贅沢だよね」
「そうだね……一人だったら来ないかもしれないし、水樹くんが誘ってくれて良かった」
「ポスティングの効果が発揮された瞬間ですよ」
そも、スーパー銭湯を知ったのは水樹が持ってきてくれたチラシがあってのことである。
ピンポンと態々インターホンを鳴らした水樹にあらどうしたのかしらと思ってドアを開ければ、まるで裁判の判定を知らせる紙のようにチラシを持つ水樹がいたのだ。思い出した冬人はくつくつと喉の奥で笑う。
「きみがいるとなんでも楽しいな」
「僕も! 冬人さんといるとなんでもできちゃうし、なんにもなくても楽しいなって思う」
嬉しい言葉をもらってしまった。好きなひとに言ってもらえてこんなに名誉な言葉もないだろう。
「……今度は秘湯巡りでもしてみようか」
「賛成!」
「わっ、ぷ」
「あ、ごめんっ」
賛成と同時に両手を上げた水樹。勢いのまま跳ねた湯が冬人の顔面に入った。
慌ててタオルをあててくれる水樹にふと思いつき、冬人は軽く湯をデコピンで弾いた。
ぴっと水樹の顔にかかる湯。彼は「ぎゃっ」と声を上げて顔を押さえる。
ここで湯の掛け合いをするほど周囲が見えていないわけでもこどもでもないが、冬人はくしゃくしゃになった水樹の顔に声を上げて笑ってしまった。
「あ、あとで覚えていてくださいよ……冬人さんのソフトクリームのひと口大は僕がいただきます」
「ふた口でもいいよ」
「冬人さんはどこかの大名なの?」
「あはは」
大真面目な顔で水樹が言うものだから、冬人はますます笑ってしまう。今度は水樹も気を悪くした様子はなく、一緒になって笑う声が水面に僅かな波紋を作った。
湯のなかから見上げる空は湯気で烟った青色。季節が進めばますます白んで眩しくなるだろう。
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