elly_5U
2025-06-02 20:18:02
5027文字
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懐玉・玉折 総集編映画の感想

映画の感想を雑多に話してます。順番めちゃくちゃで長い。読みにくい。しかも最後の方は映画の感想じゃなくなってる。だんだん何言ってるか分からなくなってきてるし。
かなりお暇なときにどうぞ。

見に行ったのは6月2日です。
(6月18日に2回目行ったので19日に少しだけ追記しました。気づいた誤字脱字も直しました。)


◯ さんぽのさしすは良かったんだけど、ネンズのさんぽも欲しかったな。悠仁が「五条先生が俺たちくらいの頃ってどんな感じだったんだろうな〜」って3人で話しててその後映画が始まるとか。(ネンズに飢えています)


◯5話分のアニメがまとまった一本の映画になり、すごくフラットになって見やすく、物語世界に没入できた。
TV版は好きだけど湿度高め&キラキラしすぎで苦手に感じる部分も多かったけれど、映画は二期の監督要素が薄まったように感じ個人的には見やすかった。
原作の懐玉・玉折は、湿度は高く重いけれどどこかカラリと乾いた印象だったので、下々先生の蔵出しラフ画のドライな感じや今回の映画を見て、TV版がああいう作風になるとは下々先生ご自身も少々予想外だったのでは?と思ってしまった。
TV版は原作から離れていく印象だったけれど、映画は逆に原作に近づいていくような、そんな風に感じた。(この辺は大いに個々人の好みがあると思う)


◯一部のシーンが白黒に変更されていたけど、単に演出を変えたのか映倫的に何かひっかかったのか……?私は白黒はちょっと残念だった。


◯セリフの撮り直しや追加カットがあるというポストも見かけたけど、私は分からなかった……ありましたっけ?どうなんでしょう。削られたシーンもあったかもしれないけど、私は気づけてない。
(6/19追記↓)
全体的に悟が細いけど、特に5話はいくらなんでも細すぎるので修正してもらいたかった。ここは何度見ても違和感ある。


◯BGMはアレンジされていたり逆に削られていたり、全体的にだいぶ変わった印象。私は映画の方が好み。
セリフの撮り直しはなかったと思うけど、BGMが変わるとセリフの印象が違ってくるので面白いなと思った。
特に5話の新宿での場面はBGMががらりと変わり、TV版より悟の戸惑いと怒りがシンプルに伝わってきて良かった。(あそこは私にとっては本当にずっと解釈違いだったので……) ただ映画館の音が大きいので、BGMで肝心な傑のセリフがちょっと聞こえにくくなっててそこは少し残念。


◯最後にうたた寝をする悟が目覚める直前、BGMが削られ、貴重な悟の寝息?が聴けるので必聴w 悟ほんとに寝てる!って思った。(ネンズと同じ感想w)
私は全部の悟の中で、あの目覚めた時にアイマスクの片側をめくり生徒3人を見て笑みを浮かべる悟が大大大大大好きなので、大きな画面で見られて本当に良かった。本当に本当に良かった。
映画はTV版と同じく青のすみかで始まるけど、冒頭の眠りに落ちる悟の身体が映画館だとより大きく感じてそこも良かった。


◯青のすみかアコースティックVer. は、ずっと映画を見に行かないつもりで情報をシャットアウトしていたので映画館で初聴き。オリジナルをもっと静かにスローテンポで歌うのかなと想像していたので思っていたのとは違ったけど、これはこれで素敵。
オリジナルは "今" を生きる感じ、青春を駆け抜けていく疾走感、アコースティックVer. はあの頃を懐かしく追憶しているような……そんな感じ。
アコースティックVer. の後に燈が流れたのは良かった。あの曲も好きだし、燈が流れることによって懐玉・玉折の物語が終わったと、自分の頭と感覚がぱちりと切り替わるのを感じられるので。


◯九十九は傑の背中を押してしまった存在としてずっと怒りを向けてたけど、今回映画で見て、言っていることはまともだし配慮がないのはそうだけど、彼女のせいとは言い難い……全てはあまりにもタイミングが悪すぎたんだと、そう思った。
九十九は、原作もTV版も短い尺(19ページまたは25分程度の放送)の中でぱっと出てきてサッと去って行くので「いきなり出てきてコイツ何言いやがる」くらいに思っていたけど、ひとまとまりの話として見たら前よりも怒りも違和感も減った。ここはかなり印象が変わった。

(6/19追記↓)
とはいえ、やはり九十九はタイミングが悪すぎる。彼女が来なければ傑と灰原の会話は続いたはずで、もしかすると傑は苦しい胸の内を灰原に吐露できたかもしれない。
灰原の「自分にできることを精一杯頑張るのは気持ちがいいです」の「自分にできること」は「非術師を守ること」だけど、傑はあの時あれをどういう気持ちで聞いただろう。
離反する時に「後は自分にできることを精一杯やるさ」と言ったけど、これは灰原の台詞「自分にできることを精一杯やるのは気持ちがいいです」と同じなのが辛い。灰原とは真逆の「できること」を選んでしまった。
また、TVだと5話冒頭の傑が明らかに顔色が悪くやつれていて、こんなになるまでなぜ気づかない?不自然でしょ?と思ったけど、現実の時間の流れだと一年かけて徐々にやつれていったわけで、様子がおかしいと思いつつそこまで追い詰められていたなんて案外気づかない……なんてことも、なくはないだろうと思った。これも映画として一まとまりで見たからこそ感じたことの一つかも。


◯ 悟の担任が夜蛾先生で良かったと思った。
蔵出しラフ画の元服式悟を見て、五条家の六眼無下限持ちの呪専入学なんて呪術界では騒ぎになっただろうし、たとえ年下でも夜蛾先生にしてみれば家柄も術師としても既に自分より格上なわけで、そういう少年を特別扱いしないで教育してたのは教育者としてすごくまともな人物だな、と。


◯ 理子に対しては、傑は「普通の14歳の女の子」として、悟は「自分と同じように生まれながらの運命に縛られる者」として寄り添ったんじゃと思ってて、その上で二人の出した答えが「(理子が拒めば) 同化はなし!!」で一致したのが大好きなんだけど、直前までそれぞれ違う考え方だけど同じ思いで理子を守ろうとしていたのに、任務の失敗により二人がすれ違っていくのが、あらためてひしひしと辛すぎる。
理子の死は、悟は自分が甚爾にやられたせい、傑は目の前にいるのに彼女を守れなかったせいだと思ってて(たぶん)、お互い自分が悪いと思ってすれ違ってる。
このへん通して見ることで、よりやりきれなさを強く感じた。


◯ 理子の制服が冬服だしTV版の沖縄で咲いている花の種類から、星漿体任務は5月末ころだと思ってたけど、映画で歌姫と冥さんの任務が6月6日だと分かり、傑の「春だしね」がますます謎になった。
平成20(2008)年卒業もおかしくて、呪専が4年制なら卒業は平成21年の春のはずでは。看板はちゃんと年度表記になってるけど。
恵(小1)を迎えに行ったのは2009年4月以降になるけど、悟がまだ制服着てるのも不思議。
呪術廻戦は日時をはっきりさせることでかえって時系列が謎になるけど、今回も本当にそれ。間違えてしまったのではなくわざとおかしな時系列にしてる気がする。
(6/19追記↓)
ここは訂正します。
ED卒業式、絵の看板は「平成21年度」で、その前に画面に「平成20年春」みたいのが出た気がしたんですが、勘違いでした。存在しない記憶……。わざとずらしてた気がしたのですがそんなことはなかったです。
ただ、ここ以外も結局色々おかしく、呪術廻戦の時系列は永遠に謎。


◯エンディングの話。
EDの追加カットは時系列が変だと感じるものがあるし、あんな普通の学生生活が送れたとも思えないし、存在しない記憶なのかもしれない。
でも、悟のガラケーの画像フォルダにある写真を遡って見返してところなんだろうか、もう最初の一枚(卒業式)の段階で無理だった。泣かずにはいられない。
画質悪めの写真のノスタルジー、ブレブレの写真や連写、変顔、自撮り……悟と傑がふざけ合ったり至近距離からの写真があったり、こんなに二人は近い距離で過ごしていたのかと思ったら、傑が味わった苦しみが急に押し寄せてきた。
傑は一般家庭出身だから稀有な術式を持っていても呪術界の外にいる時は自分の力に悩んだだろうし、呪専は彼にとって初めて息のしやすい世界だったのではないかと。そして悟に出会い、「最強の二人の片翼」として舞い上がっていた部分もあったと思うし、そのことに知らず知らずのうちに重きを置きすぎていたのだと思う。輝かしい日々を送ったからこそ絶望もまた深い。
私は傑も好きだけど「なぜ好きか」と問われれば、正直「悟が大切に思ってるから」が一番の理由だったけれど、EDの傑を見て彼の青春と苦悩に思いを馳せた。
傑がいる写真よりいない写真に傑の存在を感じてしまった。そして、傑が去ったあと悟は変わろうとしたけど、硝子はずっと変わらないでいることを選んだんだと……写真を見ていてあらためてそれを感じた。
(6/19追記↓)
ナナミンがわりと子どもっぽく笑ったり変な顔したり、あれは撮影者が灰原なんだろうなと想像。灰原がいればナナミンも笑えた。
出番がほぼないにも関わらず、灰原の存在感の大きさよ……。傑もナナミンも「灰原がいたら」と思ってしまう。
それと、OPもだけどEDにも夜蛾先生が登場してるのが嬉しい。彼もまたみんなの青春の一部。五条先生も同じようにネンズの青春の一部であったのだと、そう思いたい。

「EDは腐が喜びそうなカットがたくさん加わった」というポストも見かけ、見に行く前はひるんでたけど全然そういう感じではなく、硝子、七海、灰原、伊地知、それに歌姫や冥さん、夜蛾先生も加わった青春群像だった。みんなの青春。

原作にはないあのEDを本物の悟の青春として見ていいならば、私の中で235話までの悟の解像度が上がった。それに「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ 何人たりともね」という言葉に説得力と重みが出た。呪術高専の生徒はいつも死と隣り合わせでその青春は困難なものだと思う。それでも悟は生徒たちにもそれを与えたかったし、守りたかったのだろうと……そう思った。

(6/19追記↓)
ポストもしたけど、劇場で泣いていた10代後半くらいの男性の涙は、私の涙とはまた別ものだったのだと思う。その男性はさしすゆけ達自分と同世代への共感の涙だと思うし、私の涙は写真のノスタルジーに対するものが大きかった。
また、色々な人が指摘しているようにEDはやはり私的な写真を元にトレスしたものだろうか。どれも偶然撮れたような写真で、「演出された絵」ではなく「記録された記憶」に見える。そのリアリティが見た人の心に直接触れて響いてくるのだろう、と。


アニメを原作と地続きの正史として見るのか、アニメはあくまでも監督やスタッフの読解に基づく再構築(ある種の二次創作)として見るのか、ここは悩む方が多いのではと思う。
自分の好きなように見ればいいのだとは思うけど、二期からの呪術廻戦はそのバランスが分からなくなり私は混乱した。
(特にアニメの硝子は原作とぜんぜん違う人に見えて(解釈違い)、さらに下々先生の蔵出しラフ画を見て(私の思う硝子はこちら)、今も困惑している。みなさんどう折り合いをつけているのだろう?)



236話とその先は私にとっていまだに非常に苦しいものだし、悟と傑が(そして七海が)苦悩しながら歩み続けた人生が丸ごと否定されたように感じている。
私は悟が空港から戻って来ることが呪術廻戦という物語に希望と解決をもたらし、彼らの苦難に満ちた人生が報われるのだと、そう思っていた。悟が先に逝った者たちとのひとときの再会を経て帰還し、悟にとって重要な人々(彼が育てた今の仲間たちや歌姫や伊地知)と共に新しい未来を歩むところを見たかった。
あの呪専時代は悟にとって紛れもなく宝物だけれど、自分の心を殺して生きていたとか後ろ向きな気持ちのものではないと思っている。悟があの美しい宝物を胸に抱いて先生になってくれたことに心から感謝している。輝かしい思い出をときどき取り出して大切に愛でることはあっても、また胸にしまって前を向いて歩いていたと思っている。

原作はいまだに咀嚼できず混乱した気持ちのままだけど、映画は映画として、五条悟の礎の物語として噛み締めてきた。
見に行って良かったです。