花筵シヂマ
2025-06-02 17:43:56
4666文字
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海霧

黒水くんと白水くんに取り合われる父の話
(なお父の妄想)

じっとりと汗ばむような日が連日続いた。
 朝から晩まで蒸し暑く、扇風機一台では古い部屋は快適にはならない。
 年々、夏というのは過ごしにくくなるなとゲゲ郎は団扇を仰ぎながらふうとため息を吐きだした。
 

  実家を出て、下宿屋のねこ屋を間借りして暮らし始めた人間のおとこ、水木と共にかつて人間より先に栄華を誇った幽霊族の皇族のおとこゲゲ郎はまだ乳幼児期の息子を連れて転がり込んでいた。
 このおとこ、水木との仲は断つことができぬほど深く結びついており、人間嫌いのゲゲ郎もこの水木でだけには心を赦していた。
 朝から晩まで働き詰めの水木の代わりにゲゲ郎は慣れない家事をして共に二人三脚で幼い息子を育てていた。その甲斐もあり、愛息は小学生ほどに成長し、家を出ては独り立ちの練習をしていた。子育てが一区切りすると寂しいもので、水木が天寿を全うするまでは共に余生を楽しんでもいいかもしれないとまで思っていた。
 白髪だった髪も少しずつ黒く戻った水木の髪は再び白髪交じりになり、眦に笑うと皺が刻まれるようになった。
「お前とこうやって穏やかな日常っていうのも悪くはないな」
 そう嗤う水木が、いつか傍らから去ってしまうと言う現実がゲゲ郎には恐ろしかった。

 奥底に宿ったそんな恐怖心が、ゲゲ郎に幻覚を見せ始めたのかもしれない。
 慌ただしく扇で風を送り、簾をめくった。
「ゲゲ郎」
 空は茜色に染まり、どこかで蜩が鳴いている。気が早いアキアカネが空を気ままに飛んでいる。
早く帰ってくると聞いていたが、もう帰ってきたのかと振り向いたゲゲ郎は妙な違和感を覚えた。水木だが、水木でないような存在がそこにいる。
 眉も髪も白い水木が薄笑いを浮かべて戸口に立っている。着ているのは浴衣だ。
 寝る前にしか見かけないその様子や、やけに白い髪に顎を撫でながら思案した。染め粉が落ちたにしては、あまりにも綺麗に落ちすぎている。
 まじまじと顔を眺めていると、急に甘えるようにゲゲ郎の胸にしな垂れてくるではないか。こんなふるまいは未だかつて水木がしたことなどない。
 やはり物の怪の類かと全身に力を入れた。
「俺は物の怪じゃないぞ」
 長い睫毛が上下し、濃紺の双眸が緩む。
「俺はお前の知っている水木そのものさ」
「本物の水木はどうした」
 唸るように言えば、ふと戸口を指さされる。
 そこにはいつも通りの白髪交じりに目元に小皺が刻まれた水木がスーツ姿で立っていた。その表情は明らかに動揺している。
「なんだこいつは」
 水木自身も知らぬ存在なのだろう。
 だが襲い掛かるでもなく、ただゲゲ郎の腕を強く抱きしめる白髪の水木は妖艶な笑みを濃くしている。
「俺はお前だ。お前が捨てたかった感情だよ」
 それに何かを察したのか、水木は視線を斜に下げた。
 出て行くでもなく、スーツ姿の水木は卓袱台の前に座り、乱暴に燐寸を擦った。
 そして灯った火に煙草を潜らせている。その手は微かに震えている。
「隠さないのか?」
 白髪の水木がそう言えば、黒髪の水木は肘をついて顔を曇らせた。
「そいつは確かに俺らしい」
 ゲゲ郎は腕に絡んだ白髪水木を外して水木の傍に身を寄せた。白髪の水木は肘をついてゲゲ郎が置いた団扇を手に取っている。
「そうさ、俺はお前。お前が捨てた感情だ」
 白髪の水木は喉を鳴らし、水木の言葉尻を奪う。
「お前がゲゲ郎に抱いていた捨てきれない感情と欲情さ」
 そんな目で見られているとは露も知らなかった。動揺するゲゲ郎を見、水木は白髪の水木の腕を引いた。
「ここにはしばらく一人で住んでくれ。こいつは俺が始末する」
「物騒だな。どうやって始末するんだ?」
 からからと笑う白髪の水木はどこか、何もかもが緩く見える。肩からずれ落ちた浴衣、緩んだ口元、剥き出しの腿、若々しさでハリのある四肢。今の水木は持っていないものだ。かつてもこのように無防備だったことは一度足りとしてない。
「こいつは言わば、欲求不満の俺だ。適当にあてがえばいい」
「酷い言い方だなぁ」
 これにはさすがにゲゲ郎の良心が咎めた。
 水木が、知らぬ人間にだらしなく股を開くところなどみたくはない。
「それはあまりよくはないじゃろう。そもそも、何の類か分からぬのに普通の人に番わせるのは」
「優しいなぁゲゲ郎は」
 べったりと飴みたいにゲゲ郎に甘える白髪の水木に、初老の水木の口角が引きつる。
「はっ、勝手にしろ。俺はしばらく会社に泊まる」
 ジャケットを鷲掴み苛立ちながら階段を降りて行く水木を追おうとしたが、白髪の水木がそれを引きとどめる。
「ありがとう、ゲゲ郎。お前とちゃんと話したかったから嬉しい」
 その眼の青がいつもよりも薄く感じる。
 幼いといっても、出会ったころの水木と同じ年齢である。
 水木が灰皿に押し付けて消していった煙草を拾い、唇をつけた白髪の水木はやけに遠い目で外をじっと見つめている。
 「本当はこうやって、出てくることなく消えようと思ってたんだ」
 それはまるで、寝入ったと見せかけて布団を頭から被り、内緒話をする子供のような声だった。
「でも、消えられなかった。お前のことがいっとう、好きで、好きで、その思いが枯れ切らなかった」
無垢なような色をしていた眸が突然、歪んだ。
「だってお前も同じ思いだろう」
 白髪の水木の指先が胡坐をかいたゲゲ郎の腿を滑っていく。
 そしてその悪戯な指は太腿を撫でまわし、官能な息を吐いた唇がやけに目につく。
「少しぐらいは俺を良いと思っているなら、俺の心残りを払拭させてくれよ」
 白髪の水木が目を閉じるとその無防備な横顔に心の臓がひやりとした。ゲゲ郎は視線を意味もなく部屋の隅々まで走らせていた。
 灯りのない部屋は暗闇に浸食されていく。
 震える唇を押し付けると、呆気なく、枯れていたはずの欲望が燃え上がってしまった。若い肉体を裸に剥き、そのからだを貪り食った。
 奥底に沈んでいた欲望を注ぎ込むことすら躊躇わなかった。いずれ、この水木は消えるので構わないだろうとさえ思っていたのだ。


 一夜明けて、熱い肉体が触れてきた温度でゲゲ郎は目を開けて飛び起きた。白髪の水木が眠そうに起き上がり、肘をついているのだ。
「悔いはなくなったのではないのか?」
「俺の心残りはそんな簡単には無くならないぜ」
 何ということだろう。
 頭を抱えたゲゲ郎を差し置いて、まるで図ったように襖が開いた。苛立った様子の水木が布団で寝転ぶ白い髪の水木を睨みつけ、荒々しく舌を打つ。
「ち、違うのじゃ」
 なぜか妻の不在に不貞を働いたようになってしまい、ゲゲ郎は焦った。
 しかしこの水木も、結局は水木なのだから不貞ではないはずだと急に言い訳じみたことを思った。
「全く、余計につけあがるぞこいつは」
 ゲゲ郎の隣に胡坐をかいた水木は、眉間の皺を益々、濃くした。
「こいつはな、付け入る隙があると思っている。そしたら俺はこいつに乗っ取られるかもしれん。目を覚ませゲゲ郎、これはな、都合のいい幻覚だ」
「しかしだな、そうはいっても」
「お前には奥さんがいるだろう。やはり殺しておくべきだったか」
 水木は物騒なことを言いながら、鞄の中に手を入れた。
 そして取り出された包丁に、ゲゲ郎は慌てて水木の手首を押さえた。
「己の半身を殺してはならぬ。何があるかわからぬぞ!」
「構わん。いらん感情だ」
「いかん!そうじゃ水木、儂は別に厭うておらぬぞ。儂はの、………儂は、どちらの水木も愛おしいのじゃ………!」
 自分でも何を言っているのだと焦るが、この状況で水木が白髪の水木を刺せば互いに死ぬことだけは避けたかった。
 しかし水木はなおも、包丁を振り上げようとしてくる。あまりに物凄い力なので、ゲゲ郎も尻餅をついて転んでしまった。
 頭をどこかにぶつけたのか、鋭い痛みが頭部を走る。

 
 ———急に、頭の中の靄が晴れたように意識が明瞭になっていく。
 唸り声をあげて首を振れば、先ほどまでいたねこ屋の二階ではない場所にゲゲ郎はいた。
 おや、と首を左右に振り、そして何かが自分の真下で暴れているような感覚がある。静かに見下ろすと、黒と白の髪が混じった水木が首を振って怯えたようにこちらを見ている。その口には猿ぐつわがされており、見れば両手は後ろ手で縛られている。誰がこんなことをと思うが、そんな水木を組み敷いているのはほかでもないゲゲ郎であった。
 シャツの釦は外されており、はだけた胸が暗闇の中でもよくわかる。ズボンはまだ乱れていない。
 徐々に明瞭になっていく意識の中で、数刻前、この家を訪れた時のことを思いだした。
 確かここは、ねこ屋の二階ではなく、見知らぬ一軒家で、出迎えてくれた水木が
なぜかゲゲ郎を知らないと言うので信じられずに話をしようとした。だが水木は拒んだ。
 なぜ拒まれたのかは分からない。
 数刻前まで、ゲゲ郎は白髪の水木と契ったことを、白髪交じりの水木に責められていたはずだった。それなのに水木はねこ屋にはおらず、この一軒家に一人でいる。
 ———もしかすると水木はねこ屋を出て行ってしまったのかもしれない。あの時に頭をぶつけてしまったので、ゲゲ郎の記憶が曖昧なだけなのだ。
「ああ、思い出したぞ。そのように儂の気を引かなくても良い。あのお主と交わったのが厭なのであれば、お主のことも抱いてやろう」
 猿ぐつわを外してやれば、水木の震えた声が聞こえた。それはひどく小さく、弱弱しい。
「あ、あなたは、誰ですか………
 水木の言っている意味が分からない。
 誰もかれも無い。数十年ずっと一緒にいたではないか。
 そう言えば、益々、水木の表情はこわばっていく。
「あ、あなたなんか知りません……!僕はここで一人で子育てをしているんです……ッ」
 一人で子育てだと。
 それは誰の子なのだ。
 ゲゲ郎を愛してその身を半に分けるほど未練があるくせに、他へ足を開いたというのだろうか。思わずその頸部に手が引っ掛かった。しかし力は籠めない。
 触れただけだ。脈の速さを掌に感じて、命を握っている事実に少しばかり興奮した。
 水木の青ざめた肌に、黒い点が落ちていく。
 それは己の鼻から垂れた興奮であった。
「儂を愛しておるくせにどこの人間と交わったんじゃ」
 水木の唇が、まだなおも何かを言う。
 しかしそれが聞こえる前に、また再びゲゲ郎の意識は霞に攫われて行った。
 
 
 冷たい布地がゲゲ郎の額に触れる。
 瞼を震わせて押し上げると、心配そうにゲゲ郎を覗き込む白髪交じりの水木がいた。
「悪い。どうかしてた。大丈夫か?」
 水木の手を取り、その掌に頬を寄せると困ったように水木が眉を寄せた。
「変な夢をみておった。お主が儂を、知らぬと言う夢」
「はは、そんな訳ないだろう。俺がお前を忘れるわけない」
 視線を動かせば白髪の水木はいない。出かけてもらった、と水木は言った。
「あいつがいいか?俺じゃなくて」
 それはまるで子供の嫉妬のようだった。少しばかり尖らせた唇が可愛らしい。
 寄せて口づければ、水木の眦から涙が零れだす。
「言うたであろう、どちらのお主も愛しておるよ」
 水木は躊躇いなくゲゲ郎に抱きついて来た。
 まるで都合の良い夢のように、ゲゲ郎はこの水木のからだも、貪り食った。