初めて甚兵衛様のお顔を見た時、嗚呼、私はきっとこの世で一番可哀想なのだと思ってしまった。涼やかな目からは感情が読み取れず、私の事を拒絶しているように見えたから。分かっていた事だったけれど、安泰に同盟関係を続けるためのこの縁談に、私という存在に、甚兵衛様が何とも、思っていないのは明らかなように思われた。
「ふ、ふつつかものではございますが、どうか末永く、よろしくお願いいたします……」
私の挨拶の声は震えていた。多分甚兵衛様も気付かれていたと思う。でも何も言われなかった。たった一言「下がって良い」と言われただけだった。心がきゅう、と痛くなって涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。きっと此処に私の居場所は無い。でもくにに帰っても、私の居場所は無い。
私の母は、とても身分の低い娘だった。でも、その麗しい見目で私の父に取り入り、私が生まれた。父と母がいた時はとても幸せだった。でも二人が相次いで流行病で死に、私にとっての異母兄が家督を継いでからは、私はずっと一人だった。
誰にも顧みられず、ずっと一人だった。唯一付けられた侍女も私とは必要以上に口を利いてくれなかった。異母兄に命じられて、と困ったような顔をする彼女を見たら声を掛ける事などできなかった。私は、とても寂しいまま、大人になった。
そして大人になった私は「同盟を強固にするため」という大義名分の下、タソガレドキに嫁ぐ事になった。見送りは、誰もいなかった。
泣いても詮無い事なのに、一人になったら涙が止まらなかった。父母に会いたくて仕方なかった。井戸に身を投げれば、或いは。それはきっとくにの人たちへの意趣返しにも思った。私が死ねば、もしかしたらくにの人たちは困るかも知れない。そう思った。夜の庭は風が強くて、髪がさらさらと舞った。少し寒い。井戸を覗き込む。暗くて冷たそうな、底の見えない穴だった。嗚呼、もう少しで足が離れそう。
「……何をしておる」
「!」
声がして振り返る。甚兵衛様が私を見詰めていた。見られた。胸が大きく跳ねた。何を言えば見逃されるのか分からなくて、俯いたら足音が近付いて来るのが聞こえた。私の爪先の近くに甚兵衛様の爪先が入って来るのが見えた。骨張った手が私の頤を持ち上げる。涼やかな目が私を見ている。
「死のうとしたな。タソガレドキに、儂に嫁ぐは、それ程の絶望か?」
「え、あ、ちが、ち、がいます……、ちがう、のです……。井戸の底を、見ていた、だけ、で」
訳の分からない言い訳を口にしながら、事実を突き付けられて、改めて、私の身の上がまざまざと明らかになって涙が滲む。寂しかった。とても。甚兵衛様が大きく息を吐いた。それは困っているような。嗚呼、とても寂しい。
「戻るぞ」
大きな手が差し出される。その手を取るのを迷ったら無理やり取られた。少し痛いくらいに握られたその手が強く引かれて、俯いてただ、歩く。これから、何が起こるのだろう。甚兵衛様はどうして、此処にいらっしゃるのだろう。何も分からなかった。
「……めそめそするでない」
宛てがわれた私の室に着いて、二人で入室した。甚兵衛様は私が泣いているのを見て、困惑したような顔をされた、ように見えた。座らされて、大きな手が躊躇いがちに伸びてきて目許が強く擦られる。少し、痛い。
「もうしわけ、ご、ざいません。どうか、どう、か……、おゆるしください……」
戦好きの殿だと聞いた。もしかしたら、酷く怒られるかも知れない。無体を強いられたらどうしよう。怖くて、そう思ったら余計に涙が溢れて止められない。
「……っ、余計に泣く奴があるか」
甚兵衛様の声が困っているように聞こえる。私の事で、困ってくださるのだと思った。今まで、私の事でこれ程困ってくださった方を、私は知らなかった。手を煩わせては叱られる。くにに累が及ぶかも知れない。
「もう、しわけ、ございません。どうか、どうか、お叱りはわたくしだけに、」
祈るように首を垂れる私に甚兵衛様は何も言わなかった。でも気配が近付いて来る気がした。怖い、寂しい、助けて。誰か、助けて。誰も助けてくれないのは、知っていたけれど。
甚兵衛様の指が私の頬に添わされた感覚があった。ゆっくりと顔を上向けられて、甚兵衛様の顔を再び見た。眉を寄せたその顔は、読み取るのが難しかった。怪訝、面倒、困惑、それはどんな感情なのだろう。乾燥した手が私の頬を撫でる。少し強い力に堪らず目を閉じて、それからもう一度目を開いて甚兵衛様の顔を見た。今見たその顔は、とても分かりやすかった。その表情は怪訝でも面倒でも困惑でもない。
それは、憐憫のような気がした。もしかしたら、その感情は下等なものに対する憐れみだったのかも知れない。でも、私にとっては、長い間ずっと欲しかった気持ちで、それが私を、私の心を溶かすには十分な温度を持っていたと思う。
ぎこちない手が髪に滑るのに気付いて初めて、私は甚兵衛様の腕の中で静かに泣き濡れている事に気付いた。甚兵衛様の上等な着物の袖が濡れているのが見えた。嗚呼、どうしよう、こんな、なんで、だって。本当は甚兵衛様がどうでも良い私の許を訪れた理由を僅かにでも知っている気がした。
私は妻になるための教育を碌に受けていない。それが始まるより先に父母が死んでしまったから、私にはそれ以上の教育は独学だった。だから、嫁いだ後の事を知らない。どうやって妻として振る舞えば良いのか、私が妻として何をすれば良いのか。世継ぎの作り方も、曖昧にしか知らない。何もかも知らない世界の事だった。でも、ちゃんとしないと、また一人になってしまう。死ぬのが許されないのなら、それだけは嫌だった。
「ど、うか、ど、か……、おそばにおいて、ください……。なん、でもします。いたくても、くるしくても、」
「おい、儂はお前に一体どう見えておるのだ」
不本意そうな顔が私を覗き込む。でもその顔は怒っているようには見えなかった。指先がまた、眦を擦った。あまりに擦られたせいか、涙が滲む度にそこが痛む。
「わ、わたくしの、背の君です。だから、だからどうか、末長く、よろしくお願いいたします、」
静かな室に私の声だけが響く。甚兵衛様の目が、ゆっくりと細まる。呆れたような顔は、笑みのように見えた。胸がぎゅうと痛む。もしかして、一人ではなくなるかも知れない。どうしてだろう、今まで一度も期待した事は無かったのに、何故だかそこが暖かくなる気がしていた。これを人は、期待と言うのだろうか。
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