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彼女が働く時間と、自分が働く時間は基本的には異なっている。彼女はカフェの時間帯で、自分はバー経営の時間帯にウェイターとして働いているからだ。
けれどもこうして、時折勤務時間が重なることがある。月に数回、カフェタイムにピアニストとして呼ばれる時には彼女の働きぶりを目にすることが多いのだ。くるくると店内を動く彼女は、このカフェの看板娘と言っても差し支えない。彼女に会いに来ているのであろう客も、数人心当たりを挙げられるほどだから。
高校生の時分から働き出した”職場での“彼女との付き合い2-3年足らずだが、しかして従兄妹の関係なので単純な知り合いとしては自分が日本に来た十数年前まで遡る。
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投薬治療をメインとしていた自分とは違い、外科手術も化学治療も放射線治療も行っていた白良榠という少女は、いつも顔色が悪く真っ白で、けれど周りを心配させまいと必死にそれを取り繕う子供だった。その感情に覚えのある自分が、「闘病仲間」としてそのうち話し合ったり感情を吐露し合ったりする仲になったのは、そう可笑しな流れではなかったのだ。6-7歳ほど歳上なのもあって、兄のように慕われるようになるのに時間は掛からなかった。
頭の回転も速く、学校に殆ど行ったことがないにも関わらず知識の習得速度には舌を巻いた記憶がある。暇潰しになのか、学校から宿題で出された計算ドリルをサクサク範囲外まで進めていたのは未だに記憶に新しい。教科書を見ながら自習で知識を重ね学んでいく姿に、興味と時間があれば案外人は何処ででも学べるのだなと感心した記憶がある。日本人が皆そういうタイプではないのだと知ったのは、案外それから後のことだった。……自分は何だかんだ学校に行っていたけれど、通っていた学校も海外の子たちが集まるところだったので。彼女の社会経験の薄さは幼少期には分かり易い類いであったが、今ではだいぶその穴も追いついたように思う。今はこうして、アルバイトもしているくらいなのだから。
「おうちに来るの、久々だ」
「そうかな?…確かに。まあ、全然変わってないけど。」
「ほんと?ほんとだ。ベニー、久々だね、私のこと覚えてる?」
家に入ってきた榠がしゃがみ込み、ベンジャミンに挨拶をする。懐かしくなって、ベンジャミンを愛称で呼ぶ彼女の少しだけ低い位置にある丸い頭蓋を撫でた。サラサラの髪は、自分とよく似た肌触りだ。毛は生えそろっており、手術や化学療法のせいで脱毛に泣いていたのはもう何年も前のことなのに安堵の息を吐く。以前彼女が手術の為に、何度かそこを開いたことがあることは知っていた。その際に、一部の髪を後頭部に沿って丸く髪が刈り取られ号泣していたのをあやした記憶は、未だに鮮明だ。脱毛が酷かったときなんて、静かにぽろぽろ泣くものだからこっちが慌ててしまったのを覚えている。それでも大人の前では涙を隠すことが多かったのだから、彼女の我慢強さみたいなものは筋金入りだと個人的には思っていた。
確か彼女の身体を蝕んでいた腫瘍の場所は脳神経が複雑に絡む場所で、完全な摘出は外科では難しく……化学療法での縮小を狙いながらずっと続けていたその成果が実り、彼女には不可能かと思われた「寛解」に奇跡的に至ったのだそうだ。
人間の治癒力はまだまだ未知で、特に子どもはその余力があったのだろうと口々に喜ばれたのだと。自分はそう聞いていた。彼女の親から涙ぐみながら語られた、奇跡の治療のお話。
最近退院してきた彼女は、最近は最低限の体力づくりに忙しい。少し歩くだけで倦怠感に包まれ息が上がる彼女の身体は、病気の所為ではなくあまりにも運動経験の無いが故に退院して直ぐに通常と同じようには学校に通えないと判断されたらしい。午前中だけで帰宅する期間を過ごす彼女は、自宅に帰っても親がまだ帰っていないとのことで従兄であるこちらの家に帰宅している。
昔は家族で遊びに来ていたこの家にも、治療が重なるようになってからは足が遠のいていたように思う。久々にやってきた彼女のことをそれでもベンジャミンは覚えていたようで、すんすんと鼻を彼女に近付けてから身体をするりとすり寄せていた。動物アレルギーは彼女には無いので、その点は純粋に羨ましい。
取り留めのない話から始まり、初めて通うことになった学校というものの話をする。これからも継続して飲むことになった薬の話をお互いにしたりだとか、あとはこちらが自分が初めて学校に通うことになった時の笑い話だとか。彼女は学力的には何も問題はない、どころか、きっと成績争いでは上位に食い込むだろう。けれども掃除だとか給食だとか図書室の使い方だとか体育館だとか__そういう"学校で過ごしてきたならば知っているであろう常識"を彼女は知らない。
中庭からの光を受けながら、窓辺のソファと膝の上のベンジャミンを撫でつつ彼女はふと、口を開く。暫く黙っていた上でぽつり、と零れだしたそれは、一度零れだせば留まることなく口を滑るように溢れ出ているようだった。
「あのね、お兄ちゃん」
「私ね、奇跡ってあるんだねって言われたの」
「皆とってもとっても、喜んでくれた……」
きっとずっと考えていたことなのだろう。
重い気持ちをどうにか吐き出すかのように彼女はいう。嬉しいこと、のはずなのに、それだけではない迷いや重さのある発言にミモザの瞳が瞬く。
「でも、」
少女は笑う。なぜだか泣きそうな顔で。
「私ね、何故だかとっても、嬉しくなかったの」
不思議そうにでもなく、叫ぶのを抑えるような顔で。
ぐるぐると渦巻く何かを押し込めるように、眉間に少しだけ皺を寄せて俯いた彼女は、それでも言葉を続けて嘆く。
「ずっと誰にも言えたことはないのだけれど、あれからなぜだか、悲しい気持ちになるの」
「どうしてなのかなあ」「なんでなのかなあ」
「こんなこと思っちゃ、ダメなのに」
自分の感情を否定する彼女の顔は悲痛で、けれどどこにも理由が無いからただそれを受け止めて首を傾げているらしかった。
「なのにどうしてこんなに、こんなに苦しいのかなあ」
目の前で笑う彼女の目尻が静かに潤む。涙を流して喜びそうなところを、眉尻を下げ、ふるふると唇を震わせて。その涙声になんだか少しだけ揺らいだ気持ちになったミモザは、そっと柔らかなハンカチを彼女に差し出した。ソファに座る彼女の前、床に膝をついて、下から彼女を掬い上げるように見上げて雫を拭う。
「……そっか。榠にとっては、嬉しいだけじゃなかったんだね。教えてくれて、ありがとう」
「気持ちを否定する必要なんて、ないでしょう。榠がそれを感じたってことが真実なんだから、それを間違ってるだなんて思わなくたって良い」
現在19歳のミモザの脳内に浮かんだ理由は、「病も自身のアイデンティティだと考えていた節が無自覚にあったのかもしれない」というそれだった。それを失った喪失感のようなものを、感じているのかと。小さくすすり泣く彼女がハンカチを受け取ったのを見て、そうしてミモザは立ち上がる。あたたかなココア、よりは彼女も又レモネードが好きだったっけ。ただ自分とは違って、さっぱりした成分よりも甘みが多めの方が好きだった。
作り置きをしている原液にガムシロップを注いでお湯でくるくると割るその作り方は、彼女の両親が営むカフェでのレモネードの作り方だ。自身もウェイターをすることがあるから知っている。冷えたレモネードをそっと持ってきて彼女に差し出せば、ほんの少しの躊躇われるような動作の後に彼女の白く細い手にマグカップが抱えられた。
「……私、変なのかなって、思ってたの」
「おかしくなっちゃったのかなって……」
ひと口レモネードを喉へ流した彼女から、静かな言葉が続く。その様子を見ながら、腫瘍が消えたのだと大騒ぎになった時に病院へと会いに行った時のことを思い出す。周囲の騒ぎについて行けないように心許ない顔をしていた彼女は、その実周囲との隔絶を感じて孤独を感じていたのだろうか。
うろ、うろと低い高さで視線を彷徨わせる彼女は、必死に何かを探していたようなそんな気がする。あんな表情は見たことがないと、そう思った。
「ママとパパが必死に祈ってたことが叶ってくれて。もう緊急での手術も、大嫌いなお薬の点滴も、吐き気止めもなんにも必要ないんだってわかって、初めて確かな言葉で退院できるよって言われて。その時は確かに嬉しかったのに」
「そう」
「なんだか、わたしさみしくて」
「さみしい?」
「…………私、いま淋しいって言った?」
「……うん。もしかして、寒いって思った?腫瘍熱ってのがあるから、違いを感じてそう思うのもあるかもしれないけど」
「ん〜ん、……さみしいって、思ったんだと思う」
首を傾げながら彼女が言う。言語化に少し齟齬が生じたのかと思ったが、彼女は少し考えてから確かに首を振った。
寂しいと思ったのだと、無意識のうちに口からそれが溢れたらしい。彼女の視線が動く。その動きはやっぱり、あの時病院で見かけたのと同じように彼女より幾分か低い辺りで彷徨いている。
「ずっと一緒に居たものが、無くなっちゃったみたいな?」
「……そう、なのかも。あの夏の記憶も、曖昧だし、そうなのかな」
ミモザという青年は結構現実主義者である。だから、直前までは腫瘍を失ったことに起因すると判断していた喪失感を、ここで"記憶を失ったことに由来する"と判断した。事実、種類によっては記憶というものが生命活動に影響することをミモザは自身で証明している。いよいよ榠の死を覚悟した両親が初めて外出させた夏が、あの夏だったのだ。きっと、とってもとっても楽しかったのだろう。宝物になったに違いない。だからこそ尚更、榠の年齢では心が追いつかなかったのかもしれない。
成長途中の赤ん坊が、高熱を出して眠って数日後、いきなり話し出すとかハイハイをするだとかの話も小児科ではよく聞いていた。人の脳というものは、身体の急激な変化に影響を受けるのだろう、記憶の喪失もその一環なら頷ける。
「そうだ……夢を、見てたのかなって思ったんだっけ……」
「そうかもね。もしかしたら、とっても楽しかった夏の記憶が消えたから、それだけ悲しかったのかも。又は……」
ふと思い付いた言説。結果は同じだけれど、少女の気持ち的にはこちらの方が受け止めやすいかもしれない。
「夏休みにおじいちゃんとおばあちゃんの家で、座敷童子に逢って遊んでもらったりしてたのかもね。」
榠は、考え込んだり思い返す時に目を伏せる動きをすることはよくあった。けれど、あの時や今みたいに彼女よりも少しだけ下辺りで視線を彷徨かせる動作を今までは見たことがなかったのだ。夏の間に、周囲に初めて見るものばかりで興味が出るようになったが故にそんな動きも出るようになったのかもしれないが……自分よりも少し視線の低い小さな存在、例えば座敷童子だったりに出会って仲良くなったと考えた方が少しは夢があるだろう。座敷童子は、家の住人に幸運を運んでくれるらしいし……トトロでも良かったが、それにしては視線が高い。
当たらずも遠からずの考察をしたミモザがそう言ったところで、揺れる黄色の水面に向けられていた榠の視線が、ゆっくりとあげられる。
「ざしき、わらし」
キョトン、という顔をしていた榠の顔に、じわ、と何かが広がる。もしかすると、何かが彼女の中で腑に落ちたかもしれなかった。少しだけそれに安心して、言葉を続ける。
「そう、なのかな。夢みたいに記憶が消えたから寂しいんじゃなくて、誰かの記憶が消えたから、寂しいのかな」
「もしかしたら、だけどね。なんてことない記憶だの方が勿論多いかもしれないけれど、時には命を繋いでくれるようなものだってあるんだよ。だから、榠の場合は……病気を治す為の材料か何かにする為に、記憶を持っていっちゃったりしたのかもね」
「……お兄ちゃんも、もしかして、そうなの?」
思わず舌を巻く。彼女の聡さというのを、時々じんわりと感じるのはこういう時だった。大人の顔色を窺う期間が自分よりも長かったこともあって、榠は偶にこちらをドキリとさせるようなことを言い当てる。
「……そうだよ。その記憶のお陰で、俺もいま生きてる」
「それのお陰で未だに苦手なものだってあるんだけど。それでも、命を繋いでくれた記憶だから、俺は大事にしてる」
少しだけ眉尻を下げてミモザが笑う。肯定した。大切な記憶だ、機械の自分に対して「生きようとしろ」なんて必死に言う人間が出てくる、数奇な夢の記憶。7年前に見たその夢は、間違いなく今の自分がここに生きて存在している理由だった。
「そうなんだ。どんな記憶なの?」
「ええ……俺がロボットになる夢。」
「?それで、どうして苦手なものができるの」
「んー……最後に俺、焼かれて死んじゃうんだ。ロボットだから死、じゃないけど」
「……痛そう。じゃあ、いまは人間だから、だったら生きたい!って思うようになったの?」
なんてことのない、第三者視点の質問。彼女にここまで話しているのは、心を開いている相手だからということもあるが、多少なりともかつての自分を見ている気持ちになるからだろうか。
「違うよ。……幸せになれって、言ってくれた人がそこに出てきたから。生きることを諦めるようなことを、するなって」
「…………そっか。もしそうなら、覚えてられてるのが羨ましいな」
色々と気になって言葉を続けようとしていた榠が、口を開いて、しかしそのまま何も言わずに閉じた。その言葉を零したミモザの顔が、なんだかとても眩しくて尊いものを思い出すような、そんな顔をしていたから。
思わず、榠が自身の左手首の小さな痣を撫でる。彼女すらも意図していないその動きは、まるで何かを手繰り寄せようとするようなそれだった。チリリ、と手首が熱を持ったような感傷が胸を打つ。
「ううん。榠は忘れてないよ。だって、寂しいんでしょう」
「覚えてなくても、心が覚えてるんだよ。だからきっと、そこにある」
少しでも彼女の気持ちが軽くなればとそう願いながら、ミモザはゆっくりと言葉を重ねる。もし自分と同じなら、きっと罪悪感で耐えられないだろうなと、そんなことを考えていたから。
ぽろ、と一筋だけ榠の頬に水分が伝った。
榠の腫瘍が消失してから、初めての夏が終わろうとしていた。
▣自分だけが抱えていた記憶のあった青年と、自分だけが記憶を零れ落としてしまっていた少女の話。
▣その記憶で命を繋いだ青年と、その記憶で相手の命を引き上げた少女の話。
夏に隠れた赤、のあとの榠の状況整理のために書いたSSでした。キャラクターの整合性を取るためにちょうど良かったので……
・Mimosa
→生まれた時から体が弱く成人は出来ないと言われており、幼少期は苦しい治療に前向きでなかった。心はやKPCとして記憶を思い出した9歳から、夢の中で出会った男からいのちを粗末にするなと言われた記憶を胸に抱えてて支えとして生きてきており、治療に前向きになったことで現状まで生き延びてきている。命の恩人。20歳過ぎた頃、桜の木の下で夢の中で会った男に出会い、驚愕。実在する人間だと思っていなかったので。何が何でもその恩を返す気概と信仰に近い何かを抱えている。
→AND/HAND後から、手首に丸く赤い跡がある。
→ミモザ・ノア・シェイファーがフルネーム。両親以外はノアと呼ぶ人の方が圧倒的に多い(そもそもノア・シェイファーと名乗る)。
・榠
→2-3歳の時に脳髄の奥に腫瘍が見つかり、難病と診断された。正直いつ死んでもおかしくなかった。10歳時点で余命1年以内と言われており、どうにか出来ないかとセカンドオピニオンを求めて両親が全国を飛んでいた。一時的に預けられた祖父母の家で過ごした夏を越えて家に帰ると、腫瘍が綺麗に姿を消していた。誰も想定していなかった奇跡であった。しかしその夏の記憶がひどく曖昧で、喪失感を覚えている。
→夏に隠れた赤の後から、手首に彼岸花の形をした赤い痣がある。
※2人は従兄妹の関係。
親族に神話的事象にいのちを与えられる者が生まれやすく、同時に探索者であることから逃れられない一家。
尚、花の名前を持つ一族となるともう少し範囲が広がります。こちらは魔術師の素質のある一家、という広めの枠組み。
全員もれなく、愛がデカいし重い。押し付けるようなことはしないのが良識があるといえるか。
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