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那須野
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寿月
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遠い海鳴り
【寿月】CP未満*合宿所にて、齋藤コーチ+越知さん。
額に貼った湿布のメンソールの香りが、嗅覚をすっと通り抜けていく。ちいさく鼻を鳴らし、机上に並んだモニターをしばらく眺めたあと、齋藤至は差し向かいの椅子に静かに座した長身に軽く向き直った。
長い前髪に隠れた切れ長の目が、ちらと額に向けられる気配を感じ、肩を竦めて苦笑する。
「いやぁ、さっきもまた頭をぶつけてしまいまして。困ったものです」
「
……
」
「越知くんにはまた改めて生活のコツを聞きたいところではあるんですが
……
後もつかえていますからね」
メンタルコーチとしての業務のひとつ
――
選手へのヒアリングも、二百余名が参加する日本ユース代表合宿ほどの規模ともなれば目を行き届かせるだけでもひと仕事だ。スケジュールの合間を縫うように、手短に、そして的確にこなしていかなくてはならない。目の前に座る彼もまた、今日の面談予定者のうちの一人だった。
越知月光。現在一軍のバッジを手にしている多くの面々と同様、高校一年生の時分からこの合宿に参加している彼は、最高学年となったいま、大きな転換点に立っている。
物怖じもせず先を促す雄弁な沈黙に頷いて、ボールペンのペン先を戯れに泳がせながら、用意していた質問を投げかける。
「最近の毛利くんはどうですか? 少しずつ息が合ってきたように見えますが。 実際、勝率も上がっていますしね」
「
……
悪くない。 共通の目標ができたからだろう」
「目標?」
「
…………
」
「ああ、いえ、無理にとは言いませんよ。キミ達が上手くやれているならそれで良いんです」
続けた言葉は嘘ではない。『上手くやれている』にもいくつかの定義があるが、ひとまず今回はこのまま静観すべきと考えていた。
本人が口を噤む以上何を目的と定めたか知る由もないものの、ダブルスとしてようやく歯車が噛み合い始めたばかりなのは事実だ。諸々のデータは彼らが日本ユースダブルスの超新星となり得る可能性を十二分に示唆しているけれども、そこにあるのはあくまでも可能性である。現実になるか、可能性のままで終わるかは、今後の彼ら自身にかかっている。
「他に、何か気がかりなことはありませんか」
踏み込まずに一歩引く対価として、別の何かを得られる場合も往々にしてある。何気ない調子で水を向ければ、寡黙に結ばれていることの多い彼の口元が静かに開いた。
「何故、」
「ハイ?」
「何故、毛利を俺と組ませた」
そうして投げかけられたのは彼らしいいたく端的な問いだった。
首を傾げて一考する。その件に関しては、ペアを発表した直後の面談で既に一度答えている。
サボタージュ癖があるため。当時はそれ以上深入りするそぶりは見せなかったが、心境の変化があったということだろう。「以前答えたはずですが」と、のらりくらり躱すふりをしてみせると、返答を探す間を置くための小さな嘆息が聞こえた。
「
……
質問を変える。『何故それが毛利のサボり癖の改善になると考えたのか』だ」
「ちなみにキミ自身はどう考えているんです?」
「
……
、」
質問に質問で返しても、さすがに三度目の合宿ともなるとこちらの人柄(というよりも仕事の方法だろうか)についてもある程度理解している分の余裕が見受けられる。手札を差し替え会話を一歩先へ進めた越知が、淡々と言葉を接いでいった。「
……
以前は」
「指導や監視を任されたのだと思った。だが」
「いまは違う、と」
沈黙が応える。
なるほど。緩衝材代わりの副詞を置いて、ゆるく息を吐く。画面を埋めるように表示した二人分のデータ、数値やグラフが示す推移に、目を細めた。「そうですねぇ
……
」
「
……
このところ、彼と話をする機会も増えたでしょう。関東大会でキミに惨敗したあと、毛利くんが何をしたか、聞きましたか?」
「聞いていない」
「そうですか。
……
いやぁ、ボクも先日聞いてビックリしたんですけどね。
――
いわゆる基礎トレーニング、だそうですよ」
ぴくり、と、越知の纏う空気がかすかに揺れた。
目を瞠りこそしなかったものの、対戦相手に精神的重圧を掛けるまでのポーカーフェイスを武器にしている彼の反応としては大きすぎるほどだろう。提示した事実を即座に解した様子に満足して、揚々と言葉を重ねる。
「突出したパワーも、スピードも、決め球になるようなショットもない。 ただ、たった数ヶ月、体に基礎を叩き込み直しただけで、1セットも落とさず新人戦を優勝してしまったんですよ、彼。
……
怖いですねぇ」
そしてこの合宿所に来て以降も、彼のポテンシャルは右肩上がりに伸びている。
テニスとスポーツ科学漬けの環境下で与えられるすべてをスポンジのように吸い込み続け、一軍のバッジに辿り着いた。それが何を意味するか、越知ならば十二分に理解できるはずだった。
「ですがそれがどんなに特異なことか、彼は気付いていない。『とにかく必死にやったらできた』くらいのもので」
「
…………
」
「おそらく、自分の才能そのものにはあまり興味を持てないんでしょう。 『やればできてしまう』から。
……
彼の原動力は、それよりも外側にあります」
「
……
外側」
「そう。 つまり、」
すいと手のひらを持ち上げて、指先を向ける代わりに彼自身を指し示す。
「個人戦よりも団体戦、シングルスよりもダブルス。 パートナーの強みを活かすことで、彼自身の才能もさらに開花する。 技術・性格適性からみても、毛利くんは天性のダブルスプレイヤーですよ」
「
…………
」
「
……
さて、そしてここからが本題ですが」
椅子の背凭れに軽く身を預ける。
何故、毛利寿三郎と越知月光をペアに据えたのか。
越知の言う通り、サボタージュ癖の改善を踏まえた指導や監視が主たる目的ではない。その程度の干渉が有効な範囲の問題など、U-17合宿へ参加した時点で
既に解決しているからだ
。
「この合宿所にいるのは、もちろん優秀な選手ばかりです。 毛利くんなら誰と組んでもある程度の結果は出せるでしょう。
……
ただ、その中で唯一、キミだけが持っている『条件』がある」
「
……
」
「言うなればキミは、彼にとって『過去のサボタージュの結果の象徴』なんです。 忘れられない敗北、取り戻せない時間、周囲との遅れ
――
テニスが楽しくなればなるほど、必ず焦りが出てきます」
「
…………
それを、乗り越えさせるためか」
「いやぁ、はは、別に乗り越えなくても構いませんよ。 感情をキチンとコントロールできるようになれば、それで」
理解はしたが納得はしていない、といった様子で、しばらく越知が黙り込む。けれどもそれ以上は何も続けず、最終的には首肯がひとつ返ってきた。
「納得してもらえたようで何よりです」
気付けば毛利の話ばかりでヒアリングが終わろうとしているが、越知がこの時間をダブルスパートナーのために充てる判断を下した事実は特筆すべきだ。
――
やはり、この二人のあいだで何かが変わろうとしているということだろう。聞き取りの概要を記録データに打ち込むためにキーボードへ指先を滑らせながら、ゆるく笑み、そして言った。
「キミもよく知っていると思いますが、テニスはメンタルのスポーツですからね」