その日は大雨警報が出ていて、一応気を付けていたつもりだったのだが、学校からボーダーまでの道のりで、いまだかつてない勢いでつるんと見事に転んでしまった。
転んだ際、受け身を取る余裕もなく、あ、やべぇ、と思った瞬間には手が伸びた。自分の身体を守ろうとする咄嗟の動きはなかなか制御が利かないもので、手を伸ばしたら危ない事くらいわかっていたはずだったのだが。
伸ばした腕は、伸ばしきれず、鞄を持っていた側に身体は傾いで、そのまま肘でアスファルトをしたたかに打ち付けた。
今でも、ゴンッという鈍い音と衝撃は忘れられそうもない。
生身の身体に受ける衝撃はなかなかのものだった。
荒船はしばらく動けず、大雨の中、傘も放り投げられ、鞄も濡れるに任せて地面に放り投げたまま、しばらく肘を抱えて痛みにのたうち回ったのだった。
いち早くその場に居合わせたのは、たまたま狙撃手の訓練の為に本部に向かっていた太一だった。
大丈夫っすか荒船さぁん! という大声が痛みに悶える耳に騒がしかったが、そう騒ぎつつ助っ人を呼んで救急車が来ると、あっという間に病院に担ぎ込まれたのだった。
そして検査の結果、奇跡的に骨折ではなく打撲という結果だったものの、だいぶしたたかに打ち付けたのでしばらく腕は固定される事となったのだった。
「なんか野球選手みたいだな
……」
「最初に心配しろ」
「心配はもうしたし
……」
数日が経過して、荒船はそんな状態でボーダーまで来ていた。
荒船が病院に運ばれたその大雨の日、村上は太一から一番に電話で報告を受けた。近くにいれば駆け付けたかったものの、近くにいなかった村上は、本部にいるだろう親友たちに連絡しまくって、荒船が病院に搬送されるまでを電話越しに見守った。
「全治三週間だろ?」
「
……おう」
「骨折に近いって聞いた」
「
……」
生身の身体で怪我をしても、トリオン体になれば通常通りに動くこと自体は出来る。荒船のこの惨状に、現在の荒船隊は防衛任務も個別のものに切り替わっており、隊員がそれぞれ別のスケジュールになっている。今日は半崎と穂刈がそれぞれ別のチームと連携を組む形で防衛任務に就いていた。
荒船隊の二人が任務に出るので、加賀美はその二人の援護として出ているので、実質この隊室は今、荒船と村上の二人きりだった。
「穂刈から、食事し辛そうだって聞いたんだけど」
「
……それでのこのこ来たのかよ。対策済みってとこまでは言わなかったのか、穂刈は」
「言ってたよ。片手で食べられるものを食べてるって」
「だろ」
「だけど片手で食べるものの封を開ける時がしんどそうだとか
…」
「
……」
片腕が使えない状況というのは、本当に不便で。
利き手だろうが反対だろうが、とにかく身体はどこの部分をとっても不必要な場所などなくて、どこかが悪くなるとあちこちに影響が出る。
実際、荒船もこの腕を使えない状況をしんどく感じてはいる。
「だから?」
「食べさせてやろうかなと思って」
そう言って取り出したのは、荒船の好物のお好み焼きだった。近くのスーパーで買える総菜のプラケースに入っているそれ。
怪我をしてから、お好み焼き屋に行くのも足が遠のいていた荒船の目は、たとえそれが冷えた総菜のお好み焼きでも魅力的に映ったのだろう。
目が輝くとはこういう事か、と感心したくなるほど表情が緩むのを見て、村上も自然と笑顔になってしまった。
「いい笑顔だなぁ」
「うるっせぇな。
……第一それくらい、一人で食べられる
…」
確かに、食べようと思えば食べられるだろう。だがお好み焼きは、ある程度切り分けたりする動作が出てくる食べ物だ。普段両手が使える、力を乗せることが出来る状態ならともかく、そうでない今では、おそらく苦戦する事がわかる内容である。
「まぁそうかもしれないけど」
「なんだよ」
「俺が食べさせたいんだ。つきあってくれるだろ?」
そう言って笑う村上は、それは良い笑顔だった。
心底、嬉しそうに見える。
「
……仕方ねぇな
……。いや、でも言っておくけどな、切り分けてくれりゃいいんだからな?」
「え? 何?」
「
……おい」
「切り分けるだけだったら誰でも出来るだろ」
「
……そうだよ」
「俺は、荒船と俺だからやれる事がやりたい」
「
……おい」
村上は、相変わらず良い笑顔だ。
その笑顔が脅迫めいて見えるのは、一種不思議な状況だった。
荒船と村上にしか出来ない事。
他の親友たちと違うこと。
それはもちろん、彼らが恋人同士であるという事で。
「大体ここ、隊室だぞ」
「わかってるよ」
「
……あんま変なことすんなよ」
「変なことなんてしないよ。食べさせてやるだけだって」
「
……おう
……」
荒船は、そこでようやく観念したようだった。
ウキウキとした足取りで温めなおして戻ってくれば、荒船は逃げずに待ってくれていた。すっかり諦めたのだろう荒船は、もはや恥ずかしそうにもしていない。
「お、やっぱあっためると匂いが違うな」
「このソースの匂いがね」
「これどこで買ってきた? 駅前か?」
「いや、ここから一番近いスーパー」
「へぇ」
他愛もない雑談を繰り広げつつ。
村上の手が、ごくごく普通にお好み焼きを切り分ける。温めなおしたばかりだからか、切り口から一瞬見えた湯気がまた、食欲をそそる。
「じゃあ、荒船。はい、あーん」
「おまえ、わざとだろ
……」
人生において、「あーん」なんて言う日が来るとは思っていなかった。しかしそれがしたいがために、わざわざ本部まで来たのだ。しかも穂刈や半崎、そして加賀美という、荒船隊の面子がそれぞれいない日を狙って。
「食べないのか?」
「
……食う」
拗ねたような表情で、荒船は村上が差し出すお好み焼きのひとかけらを頬張る。
「あっつ!」
「あ、ごめん」
「ばぁか、これがいいんだろ」
熱い、と口の中に入れたものの表面温度に騒いでしまったが、荒船はそれでも楽しそうに見える。
自分の差し出したものを食べてくれる姿に、村上はだんだん頬が赤くなっていった。
自分のしている事に我に返ってしまったか、そもそもこういった事に耐性がないのか。
かたや荒船は、久しぶりに食べたお好み焼きの味にすっかり心奪われているようだった。
「
……荒船」
「なんだよ」
「
……なんか、えっと
…」
「
……言い出したのおまえだぞ、鋼」
「わかってるよ。ただ、えっと、想像以上だったっていうか
…」
自分が荒船に食べさせる、という行為が、何だかひどく煽情的に見えてしまったのだ。
完全にどうかしている。そういわれればそうなのだけど、とにかくそう思ってしまったのだから仕方がない。
「
……ど、どうしよう」
村上は自分の今おかれている状況にただただ困惑していた。そうしたのは自分なのだが、とにかく。
「こっちに寄れよ、鋼」
「え、うん」
困惑している村上に対し、荒船は冷静だった。
近くに寄るように指示されて、テーブルをはさまず真横に座る。
「最後の一口、くれよ」
荒船はそう言うと、口をあけた。
瞼を閉じたその姿は完全にキス待ちに見えて、村上は歯を食いしばった。
なんでこんな事になってるんだっけ、そもそも自分のせいか、と走馬灯のように振り返る。
村上は、割りばしで最後の一口をつまんで。
そのまま口にお好み焼きを突っ込むべきなのはわかっているし、ここで立ち止まる理由はないのだ。本来。
ただただ、荒船に対して欲情している自分に自己嫌悪を覚えつつ。
村上は、軽く触れるだけ、いたずらのように口づけた。そのまま、何か言われるより先に、荒船の口に最後のお好み焼きを押し付ける。
「
……サンキューな」
「ごめん
……」
「そこで謝ってんのは、ここが隊室だからって事だよな?」
「え?」
「俺は別に嫌だとか言ってねぇからな」
「
……そうか」
「そうだよ」
とはいえ。
「でもこれ以上は禁止な。まだそこまで回復してねぇ」
「そうだな」
何の話してるんだろうな、と村上は気恥ずかしさに頭をかいた。
荒船が怪我をしたと聞いた時は心配したし、今だってしている。だというのに、こういう時に相手の状況を考えないで先走りたくなるのは出来るだけ抑えたい。
抑えたいのだが。
村上は、ただただ困惑するばかりだった。
「
……どこまで好きになるのかな
…」
ぼそりと呟いた言葉は、荒船には聞こえなかったのだろう。反応はなかった。
が、しばらくしてふと荒船の耳元を見れば、真っ赤になっていて。
「
……どうかしてるな、俺たち」
ぼやいた言葉に今度こそ荒船が反応したのだった。
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ひむり
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