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史加
2025-06-01 19:47:39
7251文字
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原神(鍾タル)
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懐抱
鍾タル/赤子を抱くタルタリヤと鍾離の話
※ワードパレット06 曖昧・聞こえないふり・ふわり お借りしました
この世に産まれたばかりの、自分よりもうんと小さい命に触れるのは決しておそろしいことではない。
まだやわらかい頭はちょっとした弾みで形を変えてしまうおそれがあるから、座っていない首の後ろを常に支えて。赤子の身体をぴったりと自分に密着させて、この身体を盾に、あるいは真綿にするように抱き上げる。幼い時分に教わったやり方は、すっかり成長してタルタリヤという名を戴いた今でも身に染みついたままだ。
赤子は腕の中ですやすやと眠っている。白くきめ細かな肌からは甘いミルクのにおいがした。米の詰まった袋よりも軽いのに、数字だけでは量れぬ重みをずっしりと腕に伝えてくる身体は、きっとすぐに大きく育っていくのだろう。
しかしまあ、血の繋がりも何もない初対面の人間に抱かれても泣き声ひとつ上げずに熟睡しているだなんて、立派なものだ。そんなことを思いながらタルタリヤが無垢な寝顔を見つめていると、何やら煩わしい視線を感じた。
「慣れているな」
声音はいつもと同じで平淡なものだ。けれどその石珀は意外なものを見る目をしている。
失礼な、とは思わなかった。むしろ当然だろうと思う。二十年ちょっとしか生きておらず、女の影とは縁の遠い世界にいる執行官が、産まれたばかりの赤子を抱くのに慣れているのだ。よく眠っているこの子を起こすような真似さえしないのであれば勝手に見ていればいいし、好きに言えばいい。別に減るものでもない。この男の一言一句に振り回されて感情を荒立てる時代は、タルタリヤの中ではもうとっくに過ぎ去っている。
かと言って、無視を決め込むという選択肢もなかった。こんな状況になった原因は微妙に離れた距離に立つ男、鍾離にあるからだ。
「産まれて間もない弟や妹の面倒を見ていたこともあるからね。粉ミルクの与え方も、おむつの替え方も、離乳食の作り方も全部知ってるよ」
ひそめた声でそう返すと、そうか、と鍾離は感心したように頷いた。そう珍しいことでも、想像もつかないことでもないだろうに、今日は妙に感情を見せる。決してはっきりとした喜怒哀楽ではなく、布越しに曖昧に色が透けて見える程度のものだけど、だからこそ引っ掛かって仕方ない。
父母に兄姉、妹、弟という家族構成が示すように、タルタリヤの家は子宝に恵まれていた。ひとりが自立するのを待たずに次の家族が産まれたり、ようやく一人手が離れたと思ったらまた新たな家族の面倒を見なければならなかったりと忙しなくて、人の手も金も時間もうんと必要だった。だからタルタリヤがまだ右も左も分からぬ子どもだった頃は兄や姉が面倒を見てくれたこともあったし、ある程度働ける年齢になった彼らが父共々外に出るようになってからは、タルタリヤが母を手伝って妹や弟の面倒を見ていた。産まれたばかりの命を腕に抱き、守るための方法は、家族で助け合って生きていくために必要に迫られて身につけたものだった。
昔話をよくする男とそれなりに長く付き合っているせいか、どうにも鍾離の前だとタルタリヤもつい昔の話をしてしまいがちである。とはいえこの程度なら知られて困ることでもない。まあいいかと深く考えずに指先でそっと赤子の頬を撫でてみる。ふっくらとした頬肉はふわふわでなめらかだ。つん、と軽くつついても安心しきってタルタリヤにすべてを委ねている。弟や妹は割とよく泣いてぐずっていたよなぁと、懐かしさは募るばかりだった。
「で、鍾離先生。本当に抱っこしなくていいのかい? 取引先の子なんだろう、俺よりもあんたが抱いてやったほうが喜ばれると思うけど?」
郷愁を胸の奥に仕舞い込んで、タルタリヤは傍観を決め込もうとしている男へ問いかける。黄金は静かに逸らされて、壁に飾られている藍色の織物へと向けられた。
霓裳花から採れる繊維で紡いだ糸を染料で染め、手織機を使って一枚一枚丁寧に織られた布が積み置かれているここは、往生堂が代々懇意にしている織物屋である。故人やその家族から指定がない限り、挽章や喪章、遺体に着せる装束など、葬儀で必要となる掛物や衣類はこの店のものを使っている、というのが鍾離の話だ。ここ半年ほど発注や商品の引き取りは客卿である鍾離の仕事となっていて、今日は店主とその妻の間に一人息子が産まれたと聞き、注文した商品を受け取りに行くついでに祝いの品を届けにきたところだった。
タルタリヤはというと、野暮用で外回りに出た帰りに、この店の前を通りかかったに過ぎない人間だ。店先で何やら困っている様子の鍾離の背中を見つけ、いつものようにまたモラでも忘れたのかと思って声をかけたのだが、そうではなかった。ちょうど妻を休ませていて子の面倒を見ながら店番をしているという店主に、商品を用意する間子どもを抱いていてほしいと頼まれ、この男にしてはらしくもなく返答に困っていたのである。注文の品は店の奥にあり、まだ梱包が終わっていないため、残りの作業をする間赤子を誰かに見ていてもらいたいと訴える店主と、どうにも煮え切らない様子の鍾離を見かねて、通りすがりの第三者であるタルタリヤが子どもを抱いてやることになった。そうして今に至っている。
「まさかとは思うけど、抱っこの仕方がわからないとか? だったら教えてあげるけど」
問いかけても、鍾離はいや、と首を横に振る。想像通りの回答だ。だってこの男が赤子の抱き方を知らないはずがない。でなければタルタリヤが赤子を抱く姿を見て「慣れている」なんて感想をこぼす訳がないからだ。
相手の所作に誤りがなく、慣れたものであるかどうかは、そのやり方を知る者でなければ判断出来ない。それに民から厚く信奉されているこの神が、六千年もの歳月を生きていて一度たりとも赤子を抱いたことがないとは思えなかった。スネージナヤですら、タルタリヤが産まれるよりももっと前の時代では氷神が産まれたばかりの子どもを腕に抱き、額に口付けを落として祝福を授けていたという話があるのだ。これほど人々に支持されている神が、民に我が子を抱いてほしいと懇願されたことがないだなんて有り得ないだろう。
店主が戻ってくる気配はまだない。妻と交代で休みながら赤子の面倒を見ているとはいえ、店も開いて仕事をしながらとなると気苦労は絶えず、疲れも溜まっているだろう。子を預かる際、特に急ぎの用事はないからゆっくりでいいと伝えたときの、店主のどこか気の緩んだ顔が脳裡を過ぎる。タルタリヤの所属を知らない訳でもないだろうに浮かべられたあの表情を思うと、やはり鍾離がこの子を抱いてやるべきだという気持ちが込み上げてきた。
「俺みたいな悪党の腕の中でも全然目を覚まさない大物だから、仏頂面をした先生が抱いたところで泣き出したりもしないよ、多分。それに元々お祝いしに来たんだろう? だったら祝福してあげるためにも、抱いてあげたっていいんじゃないか?」
ひととして、ひとの産まれを祝うのは当然のことだ。日頃から世話になっている相手が授かった命であるならなおのことである。それに店主も、自分が面倒な頼みごとをしているのは百も承知の上で、それでも我が子が鍾離の腕に抱かれることを期待しているようだった。別にあの店主は鍾離の正体を知っている訳ではなく、ただの取引先の人間で、この璃月港では有名な知識人と認識した上での頼みである。それを無碍に扱うのは、そのほうが凡人らしくないと言えるのではないだろうか。
いくら商売とはいえ、夫妻があまり無理の出来ない状況下にあると知りながら往生堂の都合で注文をしたことで相手に負担をかけてもいる訳だし。手間賃を支払うという点でも小一時間くらい赤子の面倒をみてやったって罰は当たらないだろう。
タルタリヤの青い目は鍾離をじとりと見据える。その真っ直ぐな視線に耐えかねたのか。
「
……
祝福は呪いへと転ずることもあるんだ」
赤子のためにと声を潜めるタルタリヤよりも更に小さな声量で、苦々しさを帯びる言葉が落とされた。
ずしり、と腕に伝わる重みが増した気がする。黄金の中に揺らぎはないが、遠い過去に味わった苦渋を反芻するように眉間にしわが寄るのが見えた。
追求するべきではないと、タルタリヤはすぐに思った。これは人間が安易に触れていいものではないと本能が警鐘を鳴らしている。六千年という途方もない時間の中で魔神が経験したことなど、人間の理解の範疇に収まるはずがない。生存を第一とするのなら、開きかかったパンドラの箱なんて見て見ぬふりをするべきだ。
だが同時に、それでは面白くないとも思う。馬鹿馬鹿しい、とも。過去に捕らわれ続けるのなんてそれこそ長命種の専売特許みたいなものだからだ。
人間だって過去に捕らわれ、過ぎた苦痛を引きずる瞬間はある。けれど生涯をそれに費やし切れるほど人生は長くない。だから過去を忘れたり、折り合いをつけたり、人の手を借りたりしながらも前を向き、今を歩んで未来を切り開く。そんな人間の秘める可能性を合格と見なして神の座を降り、凡人を名乗りだした張本人が後ろを向いていてどうするというのか。
それは怒りというよりは、あわれみに近い感情だった。神という生き物としての生き方があんまりにも身に染み付いてしまっている男のことをかわいそうだと詰る趣味はなく、どちらかというと、もったいないな、と思う程度のものだけれど。タルタリヤは静かに嘆息して、伏せられた黄金を覗き込むように見つめ直した。
「それはどうだろうね。この子は兵器である俺が抱いていてもこんなに無防備に眠っている立派な子だ。凡人が抱いてやったところで悪い夢を見たりはしないだろうし、仮に悪い夢を見たとしても今の世界ならそれが現実になることを良しとはしないさ。
……
あんたが俺を手のひらの上で躍らせてまで確かめたものって、そういうものじゃないの」
最後はわざとらしく、ほんの少しの憎まれ口を叩いてやる。これでも鍾離が怖気づくようなら、しょうがないから今日このいっときだけは弟や妹以外の童話の夢も守ってやるしかないだろう。
丸く見開かれて満月のようになった目が、ぱち、と緩慢に瞬きをする。この男も虚をつかれたような表情をすることがあるのかと、タルタリヤは他人事のように思った。だが眉間にしわを寄せた表情や、こちらの気を削ぐような曖昧な表情をしているよりはずっといい。
美しい金色のひとみがタルタリヤをじっと見つめた後、おそるおそるといったふうに赤子へと向けられた。さすが六千年も生きているだけあって、普通の人間よりもよっぽど前へと踏み出す決断をするのが早い。あるいは本当は、心の底では望んでいたのかもしれないし、信じたいのかもしれない。どちらにせよタルタリヤは口元を緩めて、赤子を抱いたまま鍾離の元へと歩み寄る。
「ほら、鍾離先生」
覚悟を決めた男が広げた腕に赤子の身体を託した。たくましい両腕が首の後ろと背中、お尻を迷いなく支えたのを確かめて、タルタリヤは自分の腕を離す。己の身体と赤子の間に隙間が生まれぬようしっかりと抱き寄せる鍾離は、想像通りに慣れていた。
抱かれ心地が変わっても赤子はぐっすりと眠ったままだ。まろい頬の輪郭をなぞるように指先で撫でた鍾離が、ふわりと安心したように、嬉しそうに笑う。
ああ、やっぱり自分で抱きたかったんじゃないか。そりゃそうだろう、だって何千年もの間心血を注ぎ、大事に守ってきた国にうまれた、この世にまたとない命だ。自らの目で見極めて人の手に委ねた、新たな時代を歩んでいく尊い存在だ。この男が愛おしく思わない訳がない。
タルタリヤにはあまり想像もつかないことだけれど、祝福が呪いへと転じた時代は確かにあったのだろう。この男が赤子を抱くことを自らに良しとしてはいけないと、そう判断しなければならなかった旧き時代が。
けれどそれは彼が「神」だった時代だ。彼が「凡人」となった今の時代では、彼が捧げる祝福など、他の人間が捧げるものと何ら変わらない。だからおそれる必要なんてない。兵器が赤子を抱いているほうがよっぽどおそろしいだろう。そんなことにも気付けないくらいおそろしいことがかつてあったというのなら、これから凡人として生きる彼にはそんなおそろしいことが起こらなければいいとタルタリヤはひそやかに祈る。今だけは氷の神を敬い忠誠を捧ぐ兵器ではなく、異国に親しき者を持つ青年として。
鍾離はしばしの間赤子を抱いたまま、健やかな寝顔を見つめて微笑んでいた。しかし不意に黄金のひとみを丸くして、それからやや困ったようにタルタリヤを見つめてくる。
「公子殿」
「何かな」
「
……
おむつの替え方を教えてもらえるだろうか」
かすかに鼻を衝くにおいがして、まあそれを神様にやらせる国民はいないかと、タルタリヤは内心笑いながらも頷いた。
かつて、神が子に生誕の祝福を与えることを不平等と見なした者がいた。
いくら子を望み、伴侶と愛を確かめ合っても新たな命を授かることの出来ぬ者にとって、子宝に恵まれ、神から祝福を賜ることの出来る人間は妬ましいものだったのだろう。嫉妬は憎悪へ、憎悪は殺意へと変貌した。恩寵を与えた子が無残にも人の手で殺されるのを、若き日の神は止めてやることが出来なかった。気付いたときにはかつて自らの腕で確かめた約三千グラムの重みは儚くなり、神に祝福を望んだ者は神を非難する言葉を泣き叫んでいた。
かつて、神より生誕の祝福を与えられた子を特別と見なした者がいた。
尊き命が産まれたことを祝い、幸福を祈って授けただけの口付けに、それ以上の意味はない。しかしその子は神に愛されし特別な存在として祀り上げられ、長く続く干ばつを鎮めるための生贄として奉じられた。ただの人間に過ぎない命が身に余り過ぎる価値を勝手に押し付けられ、無意味な犠牲になったことを、若き日の神はある悪鬼と対峙したときに知った。ひとつの村を滅ぼした悪鬼は、幼き子どもの魂が神への憎しみゆえに変質したものだった。
身を削り、血を流し、持ち得る力の全てを尽くして仲間と共に築いた国に住む人々は、みな我が子のように愛おしい。産まれる命のひとつひとつに祝福を与え、多幸を願ってやりたい。しかし神は、神であるからこそそれをすることが時に不公平を生み、不幸を招くことを知った。祝福として授けたはずのものが呪いへと変わり、悲劇を生むことをおそろしく思った。
人々の安寧を守るためには、公平かつ公正な秩序が必要だ。神の愛もまた公平かつ公正でなければならない。
だからどれほど民に乞われようとも、岩神モラクスは赤子を抱き、祝福の口付けを与えることをしなくなった。
産まれたばかりの命がどれほど愛おしくても。愛おしいからこそ、その重みと温もりを自らの手で確かめる幸福を享受することを、禁じなければならなかったのだ。
パンドラの箱から目を逸らさないと決めたのはタルタリヤだ。
だから暮れなずむ空の下、注文の品を抱えて歩く鍾離が昔話を始めても、聞こえないふりはしなかった。
とはいえあくまで第三者の経験、それも「歴史」というものにカテゴライズされる話を聞いたところで、残念ながら胸を痛めてやることは出来ない。義理も人情もわからないから、へえそうだったんだね、とただの事実として受け止めるのが関の山である。
だが、自分と鍾離はそれでいいのだろう、とも思っている。互いの立場を考えるのなら、踏み込み過ぎて良いことはない。それに少なくとも今日鍾離は過去から抜け出して、彼の望むように赤子を抱くことが出来たし、ついでにおむつも替えることが出来た。覚束ない手つきで汚れたおむつを替えて、赤子の尻を拭き清めてやる鍾離の姿といったら、今までに見てきた中でも相当に凡人らしかったように思う。さすがにおむつを替えている途中で赤子も目を覚まして泣き出してしまい、再び大人しく眠ってくれるまでにはそれなりの時間を費やした。鍾離とかわるがわる赤子を抱っこして寝かしつけるのに奮闘したのはきっといい思い出になるだろう。
「今日は良い経験が出来た。礼を言おう」
幸福の余韻に浸っているのか、やわらかな表情をした鍾離が唐突に言う。
「大げさだなぁ」
からりと笑ってタルタリヤは茜色に染まる空を見上げた。
こんなふうに燃える空の下で、だれかが俯き、唇を噛み締めて身を引き裂くような痛みに堪えていた日が、いつかの時代にはあったのだろう。人間は愚かで理不尽であることを証明する痛みを、神は無数に知っている。そしてそれと同じくらい、人間は愚かなだけの生き物ではないことも知っていて、彼らの秘める可能性と希望を信じ続けてきた。
途方もない話だ。やっぱりタルタリヤには上手く想像出来ない。けれど想像出来ないから、身勝手に鍾離の背中を叩いて押してやることが出来る。
――
今まで信じていたんだろう、人間の美しい側面ってやつを。だったら今後も信じていればいい。だいたい凡人を名乗るのなら、あなた自身にもその可能性ってやつは秘められている。
だからおそれる必要なんてない。これからは知人の子どもを好きなだけ抱っこして、おむつを替えて、粉ミルクや離乳食と一緒に愛情と祝福を与えてやればいいんだ。
「公子殿は良い父になれそうだな」
よっぽどうれしかったのか、浮ついた声が馬鹿なことを言う。
「そりゃどうも。誰かさんのせいで父親になる機会は一生なさそうだけどね」
調子に乗るなと思って下世話な言葉を返すと、鍾離はきょとりとしたあと、破顔した。
失言だったと気付いても後の祭りだ。案外浮かれているのはタルタリヤのほうなのかもしれなかった。
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