桐子
2025-06-01 14:48:12
1991文字
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まっさら⑤


……愛人?」

「そうじゃ」
男は水木の手を握ったまま、まっすぐにこちらを見つめている。その目にからかいの色はない。本気で言っているのだろう。
「あんた、男が好きなんですか?」
水木は、自分が女のように抱かれたことを思い出し、気まずくなって視線を逸らした。すると男は、「いいや」と首を横に振った。
「男を抱くのは初めてじゃったが、存外よかったぞ」
……っ!」
かあ、と顔に熱が集まるのを感じた。初めてだったなんて聞いていないし知りたくもなかった。しかし、その反応を見て男はおかしそうに笑った。
「こんな店で働いているというのに、おぬしはずいぶんうぶじゃのう」
「うるせえ!」
握られたままになっていた手を振りほどき、目の前の男を睨みつけた。が、彼はそんな様子の水木を気にすることもなく言った。
「これでは足りんというなら、2倍出す」
この分厚い封筒の2倍なんて、想像もできない。だが、一月にこれだけ稼げれば生活は格段に楽になるだろう。母への仕送りも増やせる。
……どうして俺なんですか。あんたなら、男も女も選び放題でしょう?」
現に、ここに勤めるホステスたちは、競うように男の目に留まろうとしている。水木みたいな男でなくてもいいはずだ。
「おぬしがおれば、いくら服を汚しても綺麗にしてくれるじゃろう」
「専門の業者に頼んだ方がいいと思いますが」
愛人の意味を分かっているのだろうか。服を洗うならクリーニング屋に頼めばいい。それだけでこんな大金をぽんと出せるなんて、金持ちの考えることはよくわからない。水木が返事に迷っていると、男は手を懐に戻し、すうっと立ち上がった。
「1週間後、また来る。返事はその時でよい」
男は「着物の件、感謝する」と言い残すと、VIPルームを後にした。残された水木は、男が出て行った扉をしばらく見つめていたが、やがて大きなため息をついた。
金は喉から手が出るほど欲しい。だが、男に抱かれて金をもらうなんて、男としてのプライドが許さなかった。あの時は無事だったが、今度は尻も使われるだろう。何が悲しくて童貞の前に処女を散らさなくてはならないのか。
それに、あの男が本気で自分を愛人として囲うつもりとは思えない。きっと、暇つぶしにからかっているだけだ。そうに違いない。
――――だが、男の申し出を断ったら、店は辞めなければならないだろう。オーナーである男の機嫌を損ねることになるのだから当然だ。やっと仕事にも慣れてきたし、給料が破格なのに、また新しい仕事を見つけなければならないのが憂鬱だった。
なにもかもあの男のせいだ。余計なことしなきゃよかったと後悔してももう遅い。
封筒をポケットにねじこみ、水木は再びフロアへと戻った。




だが、絶対に断ろうという水木の意思は、その1週間の間に揺らいでしまった。
「どうかしましたか?」
ファミレスのバイトが終わり、疲れ切って帰ってくると、水木の部屋の前に大屋と若い男が立っていた。男はしょんぼりと肩を落とし、今にも泣き出しそうな顔をしている。彼は水木の顔を見るなり頭を下げた。
「この度は本当にすみません!」
嫌な予感がした。三階建てのアパートの二階が水木の部屋で、彼はその上に住んでいる大学生だという。
「洗濯機の排水がうまくいかなくて、帰ったら床がびしょびしょで。もしかして下の階まで水が漏れているかもって」
それを聞いて、水木は慌てて部屋の鍵を開けた。案の定、水木の部屋はひどい有様になっていた。天井から落ちてきた水滴で、布団や家電がびしょぬれだ。
「これはひどいですね……
大屋が苦笑しながら言う。若い男はぺこぺこと頭を下げて何度も謝罪してきたが、欲しいのは謝罪ではなく、家財道具を買い換える費用だった。
「すいませんけど、天井裏と床の修繕はこっちが保険で直すんで、あとは当事者同士で」
面倒事に巻き込まれたくないのか、大家はそう言い残すとそそくさと行ってしまった。大学生は、必ず費用は弁償するが、今すぐに金を用意するのは無理だと青い顔をして言った。
「おれ、大学も奨学金で通ってて。親にはここの家賃だけ仕送りしてもらってるんです。本当にすみません。なるべく早くお返しします」
あまり裕福ではないのだろう。そもそも、金があれば水木もこの学生も、家賃の安さだけがとりえのこのアパートになど住んでいない。どのくらいの額になるか計算してから請求することにして、水木は大学生を帰した。
……
ベッドも床もびしょ濡れで、今夜はここで休めそうにない。通帳や貴重品と当座の着替えをリュックサックに詰め、水木は部屋を出た。勤め先のファミレスの近くに二十四時間営業のネットカフェがある。しばらくそこで過ごすしかなさそうだ。
父親が死んでから、どうもついていない。水木はため息をつくと、来た道を引き返した。