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きなこ湯
2025-05-31 22:39:12
3844文字
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星のしるべを見上げて
親友√のリソルと主人公。学園エピソードのネタバレを含みます。
主人公は人間こども・姉・一人称「わたし」で書いています。
リソルは手に取った一枚のテスト用紙をじろりと見下ろして、静かにため息を吐いた。こんなもののために多少のリスクをとって夜の職員室へ忍び込んだことが心の底から馬鹿らしく思えてくる。バツ印と赤字のみっちり書き込まれたこの答案用紙では、どうやっても赤点と追試は免れないだろう。この調子で進級試験を受けたならまず間違いなく落第だ。わざわざ自分が小細工に手を回すまでもない。
魔族の長い寿命と時間感覚からすれば、アストルティアでの二年など文字通り瞬く間だ。けれど、無為に時間を過ごせと強いられるのは癪だった。つまらない日常ならば、せめて退屈を紛らわす存在を手元に置いておくべきだろう。そう考えてのたくらみだった。
アスフェルド学園は特殊な環境下にあり、リソルの保有する魔族としての能力を本領発揮することは難しい。ゆえに、ある程度は学園の規則に沿う必要が生じる。いくら学園生活の規則が煩わしく馬鹿馬鹿しいと思っていても、試験や通常授業をすべてボイコットすることはできなかった。己に課された役目を踏まえても、学園に置いた籍を失うことは任務の失敗を意味する。
少なくともあと二年はこの学園の生徒として窮屈な日々を過ごさなければならない。であれば、リソルが気に入っているあの人間を先に卒業させるなど許していいわけがない。普段からぽかんと間抜けなカオで何を考えているのかよくわからない人間だが、犬のような気性は使い走りにちょうどよかったし、何より普段顔色の変わらない人間がリソルの振りかざす無理難題に目を白黒させている姿は面白かった。
リソルのたくらみを知ればあの人間は迷惑だと不満をこぼすだろう。しかし、たかだか一、二年だ。むしろ、それだけの短い時間で済むだけマシだろう。属する国や浴びて育った魔瘴の差はあれど、魔界の民の心は往々にして執念深く、穏健派陣営に身を置くリソルとてそれは例外ではない。むしろ、自分の価値観は一般的に言えば重いほうだろうと自覚もあった。
毒気の抜かれる間抜けなカオを思い浮かべる。リソルが人畜無害な下僕に抱くのはあくまで愛着、誰にでも尻尾を振る犬に対して可愛いなと思うくらいなものだ。
「
……
そうに決まってる」
「なにが?」
リソルはぎょっとして肩をすくめて振り返った。足音どころか気配ひとつしなかったはずだが、確かに背後から声をかけられたからだ。懐かしい暗闇に慣れた目はすぐさまその正体を探る
――
探らずとも、人影はひとつしかなかった。
リソルの視線よりわずかに低いところに、しらあいの瞳がある。
想定外に思わず絶句し、渇いたクチの中で困惑をかみ砕いて、リソルはどうにか声を落として訊ねた。
「
……
、センパイ
……
?」
しらあいの瞳が不思議そうに瞬いた後、その人間は率直にうなずいた。
リソルの記憶する姿とはずいぶん異なる出で立ちだ。視線の高さはこの人間のほうが高かったはずで、ゆるく波打つ真珠色の髪は結わずに背中のほうへ流しているはずで、同学年のミランやフランジュと同じくらいの背格好のはずだった。それが今は、比較的小柄な体躯のリソルすら見上げてくる子どもの姿である。
それでもリソルは紛れもなくあの人間だと直感した。どういうわけか背格好こそ違うものの、リソルに向ける眼差しの率直さや、人畜無害そうな雰囲気は少しも変わらない。リソルが魔族ゆえによりハッキリとわかる、魂のカタチがあの人間と少しも変わらないのだ。
その人間は静かにリソルの近くへと歩み寄り、少しだけ背伸びをして手元を覗き込んだ。酷い点数を叩き出している自分の答案用紙を何とも言えない目で見降ろして、それからリソルの顔を見上げる。
「
……
は? いや、オレが小細工したわけじゃないし。元からこのひっどい点数だったから。もしかしてアンタ、下僕の分際でオレのこと疑ってるの?」
自分のやろうとしていたことを棚に上げて捲し立てると、覇気のない眉がますます頼りなさそうに垂れ下がった。その表情に、やはり間違いないと思う。これはリソルの気に入ったあの人間と同一人物で、むしろこちらがほんとうの姿なのだろう。
そう思えば納得いくところもあった。いくらリソルが実力ある高等魔族とはいえ、アストルティアでも有数の名門学園にある職員室のカギを破るにはそこそこ苦労した。少なくとも、学園内に敷かれる独自の規則に縛られたままでは難しい
――
たとえば、外の世界で思う存分操れる魔力をそのまま行使することはできずとも、限定的に魔力を開放できるようなれば。そう考え、目には見えない規則を破って侵入した。それゆえの術が、どういうわけか普段は正体を隠しているらしいこの人間にも適応されたのだろう。
しかし当人はリソルの目に自分がどう映っているか気にする素振りはなく、ジロジロと自分を見定める視線に対しても能天気に首を傾げている。
「
……
ハァ。なんだかバカらしくなってきた。ていうかアンタ、一体なんの用事があって来たのさ」
アスフェルド学園に所属する生徒のほとんどは、同じ敷地内にある寮で生活している。生徒として潜入しているリソルとて例外ではない。しかし、目の前にいる奇妙な転校生はその数少ない例外だった。学園外部からの通いで在席しており、出席日数も最低限のギリギリだ。それはそうと、この転校生が編入してきた直後の学園の様子では、出席日数はおろかロクに単位も取れない状況だったが。
フウキによる懸命な解放活動により、学園は少しずつ本来の学び舎の姿を取り戻しつつあった。そのさなか、リソルたちは通常授業も受けながら生活しているが、この人間の姿を見かけるのは放課後が多い。その点については、同じクラスのミランも「必修科目にはそれなりに出席しているようだけど」と言葉尻を濁している。
こんな時間に、生徒どころか教師の目すら忍んで、一体何が目的なのか。学外からの通い、著しく悪い出席率、それから姿や立場を偽っていること。これらの特殊な事情がまったくの無関係だとは思えなかった。
彼女はわずかに眉尻を下げて苦笑した。愛想に欠けるところがあるのは生来の気質なのだろう。口元の笑みはやや不格好で、見慣れぬ姿であるのに見覚えがあって妙な気分になる。
結局リソルの問いに答えることはなく、彼女は「用事は済んだ」と言わんばかりにくるりと背を向けた。リソルよりも小さなその背中に、思わず声を飛ばす。
「この点数じゃ、来年はオレと同学年だろうね?」
職員室の入口で足を止めて、振り返る。
灯りの足りない屋内は薄暗い。しかしリソルにとっては馴染みある色合いだった。静かな暗闇に包まれ、紫ランプで手元を照らす。魔族にとってはその程度がちょうどいい。
目の前にいる人間は、ほの暗い薄闇の中でも足取りを迷わせていなかった。
「
……
そーだよ。アンタ、留年すれすれじゃん。この調子じゃ、来年はオレの先輩じゃなくて同級生になってるんじゃない?」
しらあいの瞳がリソルをじっと見返し、ゆっくりと瞬く。やはりワンテンポ遅れて、「それは困る」と平淡な声がつぶやく。
「困る? ハハ。退屈しなさそうでいいじゃん」
リソルは先を行く人間へ歩み寄り、それから追い越した。職員室から出て、振り返る。職員室の内側にいるその人間は、まだ子どもの形をしている。やがてリソルの後を追って扉を超えた彼女は、リソルの視点よりも少しだけ高い場所から世界を見ていた。
――
やはり、こちらが学園での仮の姿なのだ。
リソルには生徒としての寮室がある。通いである彼女はどうするのだろうと不思議に思っていると、迷いのない足取りで校舎を抜けて外に出た。その背中を追いかける形で歩くと、彼女はグランゼドーラと往復する発着場の手前の門で立ち止まった。当然、この時間に船は出ていない。であれば外部との移動手段は自ずと絞られる。アストルティアでは、魔界のアビスジュエルと似たような効力を持つ、青い鉱石が移動手段として普及していた。
ちらり、とこちらを振り返った眼差しには躊躇うような色が混じっており、そのわかりやすさにリソルは思わず苦笑した。
「いーよ。誰にも言わないから」
その代わり、とリソルは一歩踏み込む。
「
――
今日のことは、オレとアンタ、ふたりの秘密ね。わかった?」
釈然としない表情で「ひみつ」と鸚鵡返しに繰り返す。「そう、秘密」リソルは低い声で念を押した。今夜の出来事は秘密にしてもらわなければならない。万が一、生徒の籍を失うようなことはあってはならないし、この人間も巻き添えを喰らったらリソルのたくらみは本末転倒だ。
それに。もはや本能に近い、魔族としての執念が囁く。この人間を縛る手綱を、自分も一本くらいは握っていた方がいい。誰かの執着や束縛を嫌う、自由の星の下に生まれたような人間であることは、短い時間でもなんとなく察せられるものがあった。そもそも囲ってすらいないのに逃げられるなど、どうして見逃すことができるだろう。
相変わらず何も考えていないのか、大人しい顔の人間はわかったと素直に頷く。
学園から見上げる夜空に、青白い光の軌跡が残る。ルーラストーンを使っていずこかへ消えた人間を見上げ
――
あれは転移の魔法であるから、直接空を跳んでいるわけではないけれど
――
夜空に煌めく眩しい星の光に、リソルは目を細めた。
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