きなこ湯
2025-05-31 22:30:08
5813文字
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ポップキャンディーの記憶

解呪が間に合わない√の特待生と不二魁斗の話。
何もかも捏造かつ、ビターエンドです。


 魁斗は扉の前で深呼吸を繰り返して、強張った手のひらを何度か開閉した。指先まで緊張に冷えきっている。きっと病棟廊下のクーラーが効きすぎているせいだ。窓の外に見える景色は真夏の直線的な日差しに酷く眩しい。そのぶん建物や樹木の影が濃くハッキリと映し出されており、魁斗は何となく視線を逸らした。
 もう一度だけ深呼吸して、

――特待生ちゃん、いいかな? おれなんだけど……

 と、病室の扉をノックする。
 しばらく置いて、扉越しに「大丈夫です」と声が返ってくる。まだ元気そうな普段通りの声に聞こえた。緊張がわずかに緩み、ほっと息を吐く。

「お、お邪魔しま~す……
「来てくれてありがとうございます」

 病院着姿は何度見ても見慣れない。ほっそりとした腕から伸びる何本もの管も。魁斗とルーカスと、よく三人で過ごしていた頃の彼女も健康的にすらりとしていたが、今はずいぶん痛々しく痩せていた。ただ、それでも見舞いにくる魁斗たちを出迎える彼女の表情は変わらず、むしろこちらが慰められていた。
 ――のだが。ベッドに座る特待生を見て、魁斗は思わず絶句した。
 入り口で立ち止まったまま硬直する魁斗の顔を見返して、特待生はわずかにまぶたを伏せた。朝焼けのような色の瞳がよく見える。表情こそ穏やかなものに変わりはなかったが、些細な仕草に悲痛な色が滲んでいる。
 棒立ちだった魁斗はハッと我に返り、自らの行いを後悔した。

――っ、特待生ちゃ」
「いいんです。びっくりしますよね。私も、事前に伝えておけばよかったな」痩せた手のひらはスマホを握っている。「でも、その。すみません、……うまく言葉が見つからなくて」

 うつむいた特待生に、魁斗はどうにか明るい声を絞り出して首を横に振った。完全に間違えた対応を取り返すように、ずんずんと大股でベッドサイドへ近寄る。いつものパイプ椅子に座り、できるだけまっすぐ特待生の顔を見返した。

……ごめん。きみは悪くない。悪いわけないよ」

 特待生は顔を上げ、上目遣いで魁斗をちらりと見た。

「ありがとうございます。……やっぱり、自分でも、まだ気持ちの折り合いがついていないみたいです。必要なことだとわかっているんですけど。……すみません」

 ふたたび視線を手元に落とす。繊細なまつ毛がわずかに震えていた。魁斗はそれを長くてきれいだなと新鮮に思ってから、こんな時に考えることじゃないと己の邪念に苦い罪悪感を覚えた。
 特待生と言えば、目元の隠れがちな長めの前髪の印象が強い。それゆえに、その眼差しが遮るものなく露わになっている姿は新鮮だった。ニット帽を被った姿は、投薬の影響で毛髪の抜けた闘病中の入院患者そのものだったが、魁斗の目には変わらず可憐で可愛らしい女の子に少しも変わりはなかった。
 魁斗の心がどうであれ、特待生にとってつらい現実であることは揺らがないだろう。もしも魁斗と特待生の立場が逆だったなら、それがどんなに誠実な慰めな言葉だとしても、わが身の惨めさを助長させるばかりだろうと簡単に想像できる。その上、特待生にとっては置かれた現状も対症療法でしかなく、その先にはますます過酷な現実が待ち構えている。
 八月に入り、〈キクロス〉の呪いはいまだ解ける気配を見せない。
 それらしき怪異の捕獲事例もなく、彼女の脳にこびりついた記憶を消し去る手段もなく、DA附属病院の隔離部屋でひとり、己が怪異となり果てるまでの時間をどうにか延ばそうと様々な治療が試されていた。

「これ。私、最初はどうしてもいやだったんですけど」

 ふと、重い空気の中で特待生がそう切り出す。

「私が覚えている〈キクロス〉の姿や数少ない文献資料では、頭部に花の生えた怪異なんです。だから、呪いの進行状況を把握するために必要だって、説明を受けて」
「うん……
「頭部に花が咲いている以上、目に見える予兆があるとすれば頭皮の部分だろうって話になって、いろいろと検査をしたんです。そっ、そうしたら、頭皮の、わたしの皮膚の下に、ね――根っこがあって」
……!」
……だ、大丈夫です。あの、すぐに手術で除去してもらって、今は……ないはずなんです。だから、まだ大丈夫なんですけど」

 ――ぜんぜん大丈夫には見えない。
 ――つらいよね、無理して話さなくていいんだよ。
 喉の奥まで言葉が迫り、結局形にならない。どんな慰めの言葉も、いま彼女が直面している現実にはどうしようもなく無力に思えた。魁斗は膝の上で拳を握り、唇を噛む。――悔しい。気の利いた慰めの言葉ひとつ思いつかない自分の薄情さが、必ず呪いを解いて助けてみせると宣言できない自分の弱さが、中途半端な気遣いしかできない自分勝手な偽善が、何もかもが悔しくて仕方がなかった。
 いま彼女のそばにいたのがルーカスだったなら、自分よりもっとうまい言葉をかけられただろう。もしくは無根拠でも力強く「必ず助ける」と訴えたかもしれない。魁斗にはそのどちらも難しかった。当のルーカスは日夜手当たり次第に怪異事件の調査へと赴いている。今もなお、諦めていない証拠だった。
 魁斗は同行を希望しなかった。直接言葉にしたことはないが、それはつまり、魁斗の心が諦めに傾いていることを意味していた。
 もちろん特待生の呪いは解けてほしい。突然DAまで拉致され、自由を制限され、監査役の仕事を任され、危険に身を投じることになった彼女の身の上を心の底から可哀想だと思っている。真面目な彼女がほんの時折こぼした愚痴は、似たような庶民派の感性を持つ魁斗の心によく響いていた。そんな彼女がどうにか助かってほしいと願う気持ちは、今までずっと変わっていない。
 だが、もう八月だ。
 タイムリミットは目前に迫っている。時の流れをせき止めたり、巻き戻すことは、どんなに超人的な存在にも不可能だ。動かせない現実を目の前に見上げて、これを覆せないと弱音が声を上げることだって、ごく普通の人間らしい感性だろうと思ってしまう。



「どうせ怪異になるなら、魁斗くんがお菓子をあげた、あの怪異だったらよかったな」

 ふと、特待生がぽつりとつぶやいた。
 魁斗が顔を上げると、彼女は病室の窓から外を眺めていた。DAの本校舎から離れた景観は綺麗とは言い難い。遠くに校舎の影が見える程度で、炎天下の屋外には蜃気楼が揺れていた。

「あの怪異……?」
「はい。びっくりするけど怖いものじゃないって、魁斗くんが説明してくれた、あの怪異」

 懐かしい記憶がぼんやりと戻ってくる。彼女の右手に指輪の嵌まっていなかった頃の話だ。ロミオの取り立てから逃げる魁斗、そうとは知らずテーラーの蛇を被って逃亡しようと企んでいた特待生、それから相手の言い分を言葉通りに受け取ってしまうルーカスの三人。それぞれの思惑が錯綜し、騒がしく過ごしたあの短い時間。
 魁斗は特待生のことを優しくて素敵な女の子だと思っているが、その実、彼女が存外に頑固なことも知っている。思えば出会った当初から、納得できない自分への扱いに反抗して逃げ出そうとしていた。穏当な見た目通りの優等生ではないことを、魁斗は知っている。その頑固さの裏に、降りかかる理不尽に嘆く無力さがあることも。
 ――人間に戻りたい。どんな奇跡も、不思議な能力も要らないから、ごく当たり前の普通がほしい。
 今も魁斗はそう願っている。呪いの恐怖に苦しむ彼女の心も、限りなくそれに近しいものだっただろう。だから、魁斗は特待生を自分の仲間だと思った。突然与えられた人外の矜持なんてあるはずもなく、力ある者としての責務なんて身に覚えがなくて、それでもこうするしかなかったから、これまで必死に、現実を騙しだまし生きてきたのに。

 どうして。
 どうして、おれたちがこんな目に遭わなきゃならない。
 どうして、何も悪くない彼女が苦しまなきゃならない。
 弱さゆえに悪魔の手を取ったおれ以上に、彼女の抱える苦しみは理不尽だ。おれにはまだ時間がある。いつかは人間に戻れるかもしれない。けれど特待生ちゃんは、

……いやだなあ」

 すすり泣く声が無機質な病室に響く。

「私、〈キクロス〉なんかになりたくない。誰かを傷つける怪異になんて、なりたくない……

 ――己が死ぬことより、己が害悪に変質することを恐れるような、こんなにも優しくて強い人が、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ。
 魁斗は膝の上で拳を握った。強くつよく、弓を扱うために短く切った爪が手のひらに食い込んで痛いくらいに。

「きっと……、きっと、大丈夫だよ」

 気が付くと、魁斗はそう口走っていた。

「おれ、特待生ちゃんのオーラが見える。今も綺麗だ。きみのオーラは……きみの心は、ほかのどんなやつより穏やかで、本当に綺麗なんだ。だから、だからきっと、悪い怪異なんかになったり、絶対しない」

 気休めの言葉だ。魁斗の目に映る特待生のオーラは、出会った頃と何ひとつ変わらない。けれど、だからと言って呪いが発症しない根拠にはならないだろう。
 けれど、魁斗は信じている。人の心は些細なことで簡単に様相を変えるが、特待生のオータがいつまでも安らかで心地いいのは、この人の持つ目には見えない強さの証拠だ。

「だから……だからきっと、」
「ありがとうございます」

 魁斗の声を遮って、特待生は顔を上げた。
 夏の日差しを背景に微笑む彼女の眼差しは、いつも通りに柔らかくて。

「魁斗くんがそう言ってくれて、嬉しいです」
……、うん……

 彼女なりの強がりだ。それがわからないほど愚鈍ではない。微笑んだ口元はわずかに震えているし、朝焼け色をした目の奥には隠し切れない恐怖がある。それでも、彼女はまっすぐに魁斗を見上げた。魁斗の顔を見返して、でき得る限り毅然と強がっている。その気遣いを無碍にはできず、魁斗は静かに唇の裏を噛んだ。
 沈黙が続く。これ以上、自分がかけられる言葉も見つからない。魁斗は「また来るね」と念を押して立ち上がった。
 扉の前まで来たとことで、背後から「魁斗くん」と呼びかけられる。

「ありがとうございます。魁斗くんに励ましてもらって、勇気が出ました」
「え、あ、そ……そう⁉ おれなんかでよかったら、いつでも話聞くからさ……

 夏の日差しが、強く照り付けている。
 窓の外は冗談みたいに明るくて、冷房の効いた部屋の中は涼しいはずなのに、太陽の熱波で植物園みたいだなんて思ってしまう。
 特待生は涼しげな、けれども決して消えない光を灯した瞳で、まっすぐに魁斗を見つめている。

……おれ、絶対また来るから」

 無意識のうちにそうつぶやいた。特待生はわずかに瞼を伏せる。それから、いつも通りに柔らかく微笑んだ。

「ありがとうございます。――私、魁斗くんに会えて本当によかった」

 それが、魁斗が最後に見た特待生の笑顔だった。


     ✦


「おまえたちは暢気でいいよなー……

 足元で蠢く黒い怪異を見下ろしながら、魁斗はため息交じりに独り言ちた。撒いてやったキャンディの破片を咀嚼しているのか、うごうごと上下左右に揺れている。怪異のすべてがこんな風に無害なら、魁斗が任務に怯えることも、特待生があんな目に遭う必要もなかっただろう。そこまで無意識に連想して、胸がぐっと苦しくなる。肋骨の隙間に詰め物をされたような不快感は、彼女が亡くなってから半年経っても消え去らない。
 特待生、グール寮生の監査役であった彼女は、タイムリミットの九月を待たずしてこの世を去った。
 自らの決断でその命を絶ったと言う。伝播性の呪いが未然に防がれてよかったと安堵する声を、惜しいサンプルを失ったと非情に嘆く声を耳にするたび、魁斗は憤慨を通り過ぎて酷い無力感に苛まれる。安堵の嘆息には本能的に共感する部分があり、研究者の嘆きには自分たちを人間扱いしない野蛮な言葉に神経が逆撫でされる。しかし、今更どうすることもできないのが現実だ。
 彼女の去った後も当然生活は続く。世界が一変することはなく、DAが示したのは無味乾燥なお悔やみの言葉と事後処理のみ。彼女の家族には〈病気〉・〈事故〉と説明されたらしく、DA絡み以外で関係のない魁斗が葬式に参列することも許されなかった。
 ルーカスは己の実力不足だったと強く悔やみ、磴は貼り付けたような人の好い表情の裏で嘆息することが増えた。どんな手を使ったかわからないが、冠氷は葬式に顔を出したと聞くが、それきり感情の読めない通常運転に戻っている。フロストハイムは王の号令で解呪に奔走していたこともあり、直後はそれなりの衝撃も見られたものの、魁斗の生活のうち大きく変わったことはひとつもない。
 ――いや。本音を言えば、恨み言ならある。魁斗は「絶対また来る」と行った。強がりでもなんでもなく、本心からの言葉だった。約束も同然だった。まさかそれが伝わっていなかった、なんて道理はないだろう。
 それでも、特待生はこちらの道を選んだ。
 魁斗の言葉を振り切って、害悪に変じるより前に優しい覚悟を決めてしまった。

……ん」

 足元で黙々とキャンディーを食べていた怪異の影が、追加を催促するようにすり寄ってきた。見た目こそ多少グロテスクだが、不思議と恐怖や嫌悪感は感じない。無害な怪異だと知っているから、あるいはこの怪異から漂うオーラが見た目に反し穏やかな色合いをしているからだろうか。
 飴玉をぽいと投げてやると、影は嬉々としてその場で飛び跳ねた。

「はは……可愛いヤツ」

 ――どうせ怪異になるなら、魁斗くんがお菓子をあげた、あの怪異だったらよかったな。
 ふと、彼女の声が蘇る。
 人は声から忘れるらしい。ならば、こんなに鮮明に思い出せるうちは大丈夫だと安堵する。彼女を忘れたくなかった。誰よりも優しく、目に見えない強さを秘めたあの人のことを、おれは忘れてなかったことになんてしたくない。
 無害な怪異は魁斗の足元で上機嫌に揺れ、暗い影の中で色鮮やかなキャンディーを頬張る。初春の日差しは柔らかにあたたかく、彼女のオーラの気配にも似ていると思った。