きなこ湯
2025-05-31 22:22:52
4236文字
Public
 

ガラスの靴よりも

同級生からのラブレターを受け取ったヒロインと、それを見守るトキシンの話。
トキシンがヒロインのことを普通に好きな温度感で書いています。


 隣の靴箱から滑り落ちてきたものを、俺は思わずじっと見下ろした。折り目正しい白封筒。丁寧に書いたのだろう宛名の文字。名前を見て顔は浮かばなかったけれど、同級生の誰かだろうとすぐにわかった。俺が動けなくなっているのに対して、彼女は足元へ落ちた封筒を不思議そうに見下ろし、屈んで拾い上げる。
 差出人の名前には心当たりがあるらしく、彼女は「ああ」と納得した様子で呟いた。それから「なぜ?」と首を傾げる。

……手紙、だね」

 恐るおそる相槌を打つと、彼女はまっすぐに俺を見上げた。ずいぶん怪訝そうな目をしている。まさか、と俺は首を横に振った。

「俺は知らないよ。差出人だって、お前の知ってる人なんでしょ?」

 そうだけど、と納得していない声でつぶやく。その様子に、薄らと抱いていた予感が確信へ変わった。きっと彼女はこう思っているに違いない――このデジタル社会で、どうしてわざわざ手紙なんかを? 何かの悪戯だろうか?
 その疑問に対する答えを俺は持ち合わせている。いや、それこそ開けてみるまでわからないけれど、きっとそうに違いないと嫌な予感があった。
 けれど、まだ俺と同じ発想に至っていないらしい彼女は、あろうことかこの場で封を開けようとする。慌ててその手を掴んで止めると、彼女はぎょっと肩をすくめて俺を見上げた。手を掴まれて怖いのだろう、口の端が引き攣っている。

「待って。一度ここから移動しない? こんな場所で見るものじゃないだろうし……いやっ、だから、俺は本当に無関係だって!」

 思わず声を張り上げてからハッとして周囲を見渡す。幸運にも俺たち以外に誰かのいる気配はしないけれど、この状況なら見張られていてもおかしくない。

「いいからついてきて。早く歩いて!」

 腕を掴んだまま引っ張り、急いでこの場を立ち去る。行き先はとりあえず旧校舎で大丈夫だろう。視界の低いところから「痛い」と文句が聞こえてきたが、これはどう考えてもお前が悪いと思う。



 いつぞやと同じく多少強引な手段で旧校舎に連れ込んだ彼女は、相変わらずの仏頂面を貫いたまま椅子に座った。俺に向ける視線の温度が低い。つっけんどんな態度はいつも通りだけど、今はそれに加えて明確な不信感を滲ませていた。

「だから、本当に俺は無関係だって……その手紙、確認すればわかると思うよ」

 疑いの眼差しが俺と彼女の手元にある手紙とを交互に見つめ、それから観念したようにため息を吐く。綺麗な指先が器用に封を開けるのを見守りながら、俺は思わず息を吞んだ。
 二つ折りの便せんを取り出して、開く。紙の擦れる微かな音が旧校舎に響いた。横書きらしい文字を追って、黒目が左右に往復する。その視線が手紙の末尾へ近づくにつれ、あっという間に平べったくなった。

……どうだった?」

 沈黙に堪えきれず訊ねると、彼女はようやく顔を上げた。何とも言えない困惑を浮かべている。それだけで、ひとまずほっと胸を撫で下ろす嫌な自分がいた――この反応なら、ラブレターの差出人に好意的な返事はしないだろう。
 立ちっぱなしも変だと思い、彼女の向かいの椅子を引いて座る。

「俺の言ってること、間違ってなかっただろ?」

 まあ、うん、と歯切れの悪い声が返ってくる。けれど強引に連れてこられたことは不満だったらしく、俺にも冷たい目が向けられた。

「あーうん、腕を引っ張ったのは悪かったよ。でもお前、ああでもしないとあの場で開けてただろ? ちょっとは俺に感謝してくれても……ああ、わかった、お前の言いたいことはわかったから。ったく、わがままなんだから」

 わがままじゃない、と拳が机の上に叩きつけられる。せっかくの綺麗な手が傷付いたら大変だと思い、ひとまずそれ以上の文句を吞み込んだ。

「それで。どうするの?」

 話題を変えて訊ねると、彼女はきょとんと首を傾げた。

「何、その反応。せっかく手紙を書いてくれたんだから、返事をしないのかなって気になっただけ。……断る? へえ、そう。そっか……

 そうだろうなとは思っていたけれど、明確な言葉で聞いて、俺は率直に安堵した。ここで「一度話を聞いてみる」だとか「試しに付き合ってみる」なんて言われた日には、自分がどんな行動に出るかわからない。

「俺も一緒に行こうか? その、断る時に何かあったら大変だろ」

 またも不思議そうな目が俺を見上げる。しばらくして、べつに要らない、と首を横に振った。

……そう? まあ、お前がそう言うなら……でも、その人に会う時は俺にも教えてよ。だって、普通に心配だろ。お前のことが好きな男を振るんだし、万が一そいつが手を上げようとしたら危ないじゃないか」

 気の強いところはあるけれど、彼女の身体は普通の女の子とそう変わらない。むしろ、一般的にホムンクルスの体質は貧弱な方だ。島の学校を休みがちだった彼女は、きっと、どの時も……
 島にいた頃とは違って、いま俺の目の前にいるお前には代えがいない、たったひとりの存在だ。そうでなくとも、もし彼女がほんの少しでも危ない目に遭う可能性があるのなら、俺がきちんと守りたかった。
 ごく自然な提案だったはずだ。それでも彼女は目をまるくして俺を見るから、まさか変なことでも口走っただろうかと不安がよぎる。

「いや……そんなに驚くようなことでもないだろ。お前、女の子なんだし」

 言い訳めいた口ぶりだった自覚はある。後ろめたさに視線が落ち着かず、相変わらず静かな旧校舎の中をさまよった。
 島の学校にも少し似たこの場所にいると、まるで昔に戻ったようだと思う。音楽が好きで、無邪気にロックを追いかけて、そこには兄弟たちと彼女がいた。ときどき突然怒ったり、物を投げたりすることはあったけれど、あの頃の彼女は今よりもずっと俺に優しかったと思う。俺たちは仲が良かった、それは間違いないはずだ。――だから、お前は俺のことが好きなんだと思っていたのに。
 再会した後、俺に向けられる眼差しはほとんど冷たいものばかりだ。どういうわけかあの日々を忘れていた――おそらく忘れるよう仕向けられていた記憶を取り戻した後も、その冷たさはあまり変わらない。もちろん、本当に心の底から嫌われているわけではないだろう。わがままで頑固なところはあるが、徹底的に避けられているわけじゃない。……ただ、さすがにあの頃と同じく俺を好きなわけでもないのだろう。それは理解している。
 ラブレターを読み進めるにつれて冷えていった、お前の視線を思い出す。あれと同じ目を向けられた時、自分がどんな気持ちになるのかがわからない。悲しい、寂しい、果たしてそれだけで済むだろうか。
 だから、この気持ちはまだ秘めているべきだ。今はまだ。
 恐るおそる顔を上げると、彼女は自分宛てのラブレターに視線を落としていた。夕方の日差しが薄らと差し込んで、顔にかかる髪の毛先をきらきらと透かしている。便箋をめくる白い指先から目が離せない。何の拒否もなく触れられるあの手紙が羨ましい、なんて場違いな願望を覚えた。

…………え。ああ、ごめん。少しぼーっとしてた。何?」

 ふと、名前を呼ばれて我に返る。お前の綺麗な手に見惚れていた、なんて正直に言えばまた警戒されるだろう。笑って誤魔化すと呆れたようにため息を吐かれたが、それ以上は言及されなかった。

「ああ……うん。帰るよ。今日の練習はスタジオだし」

 ――じゃあ、返事は明日にする。
 お前はそう言って鞄にラブレターをしまった。ファイルの隙間に消えてゆく見知らぬ誰かの淡い恋心をぼんやりと眺めながら、ハッとして訊ねる。

「もしかして、俺の予定に合わせてくれた?」

 まあ、と曖昧な声が返ってくる。さっさと教室を出ようとする背中を追いかけて隣に並ぶと、俺よりも低いところにある顔はよく見えない。

「わかった。任せて、お前のことは俺が絶対に守るよ。何があっても絶対」

 頼ってくれた。その事実が嬉しくて、俺は約束した。
 何があっても必ず守ると、前からそう決めている。お前はファーターの探し物だったから。俺が、お前を守りたいから。傷付いてほしくないから。
 ――お前のことが好きだから。
 いつかきちんと伝えたい。お前にこの心を手渡すその日のために、俺は世間話の体で訊ねてみた。
「ねえ。お前は渋い顔をしていたけど……手紙の告白って苦手なの?」
 隣を歩いていた彼女は俺の質問に足を止めた。振り返って後ろにある顔を見下ろす。俺の肩くらいの高さにある、俺を「嫌い」だと言うわりにいつもまっすぐ見つめてくるお前の目を、俺も見返す。
 しばらく言葉を探して半開きだったくちびるが、やがて躊躇いがちに呟いた。
 ――ラブレターが嫌なんじゃなくて、ポエム調だったのが嫌。

「え」

 ――そんなイメージなかったから驚いた。
 ――明日会うのも気が重い。

「えっ……そ、そうなんだ……そっか……

 ラブレターの送り主は俺にとって恋敵だ。けれど、顔も知らないその人に思わず同情する。それから、俺もラブレターはやめておこうと心に決めた。
 秘かにショックを受ける俺をよそに、彼女は何でもない様子で再び歩き始める。俺の隣を通り抜けて、旧校舎の重い扉を開いた。夕暮れ時の西日が差し込んで、お前の綺麗な手をますます輝かせている。
 ――トキシン?
 お前が俺の名前を呼ぶ。帰らないの、と当然のように訊ねる。

「帰るよ」

 綺麗な手が支える扉を引き取って、存外近くにあった顔を見下ろした。俺のことを嫌いだと言うけれど、逃げていかない人。俺の歌を、俺たちの音楽を好きになってくれた人。頑固でわがままだけど、素直になれないところが可愛い人。俺の、すきなひと。

「お前には、ガラスの靴よりもスニーカーの方が似合うかもね。レースアップのブーツとか、リボンのついたバレエシューズとか……

 なにそれ、と黒い瞳が胡乱げに平べったくなる。

「俺が選んだ靴を履いてくれたら嬉しいなって話」

 意味がわからない、と彼女は首を横に振った。わからなくても大丈夫、と心の中で答える。今はまだ、この心は伝わらなくてもいい。いつか、俺の選んだ靴を――ガラスの靴よりも素敵な、俺が選んだ靴をお前が履いてくれる、その時まで。