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きなこ湯
2025-05-31 22:08:16
3524文字
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リベンジ
If Situation♡T→Yの後日談という存在しない記憶です。
当然のようにT→Y特典のネタバレを含みます。T→Yはプロローグだから(強火の幻覚)
「アンタ、ちょっと頭冷やせ」
心底面倒くさそうにそう言って、ヨルはわたしの額に手の甲をぺたりとくっつけた。ひんやりと肌に吸い付くような冷たさは銀のタトゥーだ。文字通り頭を「冷やす」格好だが、ヨルの目的は物理的なそれではなかっただろう。少しも想定していなかったヨルの言動に、わたしが驚いて二の句を継げなくなっているさまを満足そうに見下ろして、それからわたしに触れるのとは反対の手で胸倉を掴んだトキシンを見る。
「いい加減にしろ。キッチンで騒ぐなら出ていけ。メシ作れねーだろうが。アンタら、晩メシ抜きでいいのかよ?」
低い声が淡々と告げる。トキシンは青色の目をまるく見開いて、それからじっとヨルの顔を見返した。自分の思い通りに物事が進まないと癇癪を起こすトキシンが正面から止められた時にしては、この態度は珍しい。
呆然としているトキシンに限らず、ヨルの態度もなかなか見ないものだった。トキシンとヨルの間では殴り合いの喧嘩も珍しくない。血の繋がった兄弟だからこそ遠慮がないとはネィトの談だが、そうでなくとも、ヨルのキレ方だってこれほど静かなタイプではなかったはずだ。
わたしとトキシンが驚いて反論できなくなっている姿も、ヨルにとっては想定内だったのだろう。しばらく様子を窺うようにトキシンの顔を見返して
――
こちらからはヨルの表情は見えないけれど、あの低い声なら普通に不機嫌程度だろうか
――
それから、大きく肩を上下させてため息を吐いた。
「もう暴れんなよ。オレは料理続けっから、邪魔すんじゃねーぞ」
呆れた声でそう言って、ヨルはわたしたちから手を離した。流し台に置いた包丁を拾い、軽く洗って、料理する作業の手を再開する。
案外すんなりと解放された。それに、口論を始めたわたしトキシンの間に入った時もずいぶん静かなものだった。何も言わない背中をしばらく見つめてみるが、ヨルは頑なに振り返らない。困って隣を見上げると、同じく困惑を浮かべたトキシンと視線が交わった。
一瞬だけ。反射的に足がすくんで、肩が強張る。トキシンはいつ爆発するかわからない爆弾のような男だ。けれど今は落ち着いているらしく、わたしを見下ろしてばつの悪そうな表情を浮かべた後、消え入りそうな声で「ごめん」と言った。ハッキリしない目線は足元に落ちて、それがわたしに向けられたものなのか、ヨルに向けられたものなのかは微妙にわからない。
「
……
俺、部屋戻ってるから」
――
だから、お前も一緒に来て。
言外に滲むのはそういう意味だ。トキシンは、なるべく自分の近くにわたしを置いていたがる。それはファーターの探し物が逃げ出さないようにする監視の意味であり、自分のものを自分の手の届くところで管理したい気持ちの表れだった。不服ではあるが、どうやらトキシンの認識においてのわたしは「トキシンのもの」らしかった。
だから、トキシンについて行かなければ不機嫌になるだろうことは明白だ。けれどわたしは「後で」と首を横に振る。優しげな垂れ目が不満そうに平べったくなってから、それでも存外素直に「わかった。俺、待ってるから」と頷いた。
「いいのかよ。あのバカを放っておいて、酷い目に遭うのはアンタだろ」
トキシンを先に行かせてキッチンに残ると、ヨルはそう呟いた。相変わらずこちらに向けるのは背中ばかりで、その表情は窺えない。それでもやはり声色は穏やかで、なんだかヨルらしくなかった。
少し考えて、そもそも水を飲みに来たからと答える。喉が渇いて水が飲みたかった。だからキッチンに来た。それだけの話で、何か後ろめたいことがあるわけでもない。ついさっき口論になりかけたのは、追いかけてきたトキシンが無茶苦茶な文句をつけてきたからだった。何度考え直しても、わたしに非はないだろう。
戸棚からプラスチックコップを、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。相変わらず不気味な輸血パックがずらりと並んでいたが、もうこれに驚くこともなくなった。慣れとは恐ろしいもので、トキシンの支離滅裂な言動も不思議に思わなくなってくるから、やはり良くないと思う。トキシンの自分勝手なわがままは迷惑で、最低だ。自分にそう言い聞かせながら、鉄分やビタミンのサプリメントと水を飲み干す。
コップを洗おうと流しへ行くと、ヨルが「そこ置いとけ。ひとつ増えたとこで変わんねーから」とぶっきらぼうに言う。親切な申し出と、それからさっきの仲裁も含めてお礼を言うと、ヨルは鼻で笑って流した。
キッチンの中にいてはヨルの顔が見えない。リビング側にぐるりと回ってカウンター越しに向かい合うと、ようやく目が合った。
「
……
なんだよ」
ヨルは相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべている。目尻の厳しい眼差しには、こちらを非難する色が明確に混じっていた。わざわざ顔を見るために移動したことを、ヨルに厳しく忠告されてなおトキシンを行動を共にしているわたしを呆れているのだろう。
その顔をじっと見返して、思わず訊ねる。
「
――
あ? オレの体調?
……
別にどうもしねぇよ」
ヨルはそう否定したが、やはり顔色は青白い。体質の都合で平熱の低いヨルは、通常でも血色や血の流れの悪いほうではあったけれど、今のヨルは普段よりも調子が悪そうに見えた。それはつまり、合成獣特有の
――
「どうもしねえっつってるだろ」
こちらの考えを透かし見たように、先んじて釘を刺される。
「オレの体調の心配なんざ必要ねぇよ。元々、アンタがいなくても問題なかったんだ」
そう言われると反論に窮する。合成獣として血が欲しくなる時、必ずしもそれがわたしの血である必要はない。覆しようのない事実で、ヨルの言い分に理があった。
「だから
――
間違っても、自分ひとりが我慢すれば丸く収まるだとか、救いようのねぇバカなことは考えるなよ」
――
どうしても、トキシンの顔が脳裏にちらつく。頭ではわかっている。トキシンが縋るように必要だと言うわたしは、あくまで奇特な血の容れ物であるわたしで、本当に尊重されているわけではない。けれど、優しくしてくれた言動のすべてが嘘だとは思えなかった。トキシンの歌が、音楽が好きだ。穏やかな時のトキシンが、お前がほしいと訴える時のトキシンが、どうしても頭の内側から離れてくれないから。
ヨルはそれを幻想だと断言した。トキシンはわたしの王子様でもなんでもない。酷いことをされているのは事実で、本当なら距離を置くべきだと。何も間違っていない。ヨルの言葉は正しいと思う。けれど、正しさはぐさりと胸に刺さって、まだじくじくと鮮烈に痛い。
「アンタがしたいようにすりゃいい」
思考が暗い方へ転がるにつれて、いつの間にか視線は自分のつま先を向いていた。静かな声に顔を上げる。ヨルはまっすぐにわたしを見つめていて、その眼差しの揺らぎのないところに、なぜだかぎくりと後ろめたさを覚えた。
「オレは、もうアンタを止めねぇ」
突き放すような言葉なのに、声色ばかりが穏やかだ。
「
……
アンタが嫌がるなら、オレは酷いことはしねぇ。オレがどういう男か知ってんだろ? だから、いざって時はアンタが選ぶんだ。アイツじゃなくて、オレならちゃんと
……
」
そこまで言って、ヨルは乱雑に舌打ちした。これで話は終わったとでも言わんばかりに、もう視線は交わらない。流し台で洗い物をする水の音ばかりが他人顔で響いている。
心許ない足元はぐらぐらと揺れていた。後ろめたさに背中を押されて逃げるように廊下の扉を開くと、ひどく穏やかな声がひと言だけ追いかけてきた。
「
――
あのバカから逃げたくなったら言えよ」
――
バタンッ! 勢いあまって力強く閉じた扉が大きな音を響かせる。鼓膜をビリビリと震わせる衝撃に立ち竦んでいると、背後から聞き慣れた足音が近寄ってきた。
「
……
ねえ、ヨルと何かあった?」
トキシンが不安そうな目でこちらを見下ろしている。
わたしは何もないと首を横に振り、トキシンの脇を通り抜ける。もの言いたげな視線にはもちろん気付いていたが無視した。「何もなかった」は嘘ではないし、噛み痕なんて本当にひとつもないのだから。わたしが大人しくトキシンの部屋に向かっているとわかると、トキシンは何も言わなかった。
――
いい加減、現実見ろって
……
――
オレを見ろって言ってんだよ!
今になって、ヨルの悲鳴じみた声が大きく反響している。
まっすぐな眼差しがわたしの心に侵食して、いつまでも離れなかった。
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