きなこ湯
2025-05-31 21:47:24
2962文字
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トイボックス

まだぎこちない距離感のマローネと主人公の話。
ver6.4~7.0くらいの時系列を想定。主人公は人間こども・姉・一人称「わたし」で書いています。

ワードパレットより(想定外/「いいよ」/無垢)


 想定外、「いいよ」、無垢。

 寝室の窓を開けると、涼やかな風が吹き込んできた。潮の匂いが混じっている。使用人たちは海水と潮風に晒される浮島の屋敷が余計に傷まないかと心配そうにしているが、マローネは朝日にきらめく水平線をひそかに気に入っていた。懐かしい学徒時代、旧友リンジャーラの故郷で見た海運都市の景色が思い出される。それに、優秀な錬金術師たちの協力もあり、向こう数十年は海の上に置いても問題ないよう改修も行った。
 その錬金術師たちの中には、実の娘が育った家での弟も含む。
 相手に警戒心を抱かせない雰囲気は成長した娘とよく似ていると思った。もちろんその人間とマローネとの間に血の繋がりはなかったが、彼が娘にとって真に家族であるならば、そのまま受け入れようと心に決めている。幸い、この複雑な関係ながら険悪な空気に発展したことは一度もない。
 ふたりともよい環境で育てられたのだろう。彼女らの故郷が辿った滅びについては、一応話には聞いていたが、穏やかなふたりの表情から悲劇の気配を察することは難しい。わが子の話を疑うつもりはなく、ただ、そんな悲劇の折に娘を守れなかった自分が不甲斐なくて、信じたくない気持ちが強いだけだとわかっている。
 はじめて彼女の顔を見たとき、それが自分の娘だとは――ウデの中で健やかに眠る赤子と同じ存在だとは思わなかった。ただ、薄青の瞳はエテーネ王家の者が持つそれによく似ていたし、凛と背を伸ばして剣を抜く姿にはパドレの面影がある。他を寄せつけない光り輝くような強さと、蹲る誰かのために躊躇いなく膝をつく率直な善良さは、紛れもなくあのヒトの血を引いていた。――本当なら、その成長を一番そばで見守りたかった。悲しいことが、つらく苦しいことがあった夜にその背を撫でて、寄り添う存在でありたかった。親として当然の気持ちだろう。
 想定外の理不尽な悲劇に見舞われたのは自分ではなくわが子で、誰にどうすることもできないことかもしれないが、もしもと思わずにはいられない。もしも、あの時赤子だったあなたをわが手に引き留められていたら。あなたと共に未来へ跳べていたら。送り出したファラスが正しく赤子のあなたのところへたどり着き、落命の悲劇から守ることができていたなら……そのすべてが今さら考えても仕方のないことで、仮に実現したとて辿る先が最善の未来とは限らない。今のマローネに許されるのは、せめて娘の旅路に悲劇や理不尽が少なく、希望に満ちたものであれと願うことばかりだ。

 考え事に脱線して、視線が足元に落ちる。絨毯の上に置かれたトイボックスには、赤子向けの玩具がきちんと行儀よく並んでいた。――親子の時間を少しずつ取り戻したい。娘にはそう伝えたが、まさかこれを渡すわけにもいかないだろう。
 エテーネ王宮が消失し、大エテーネ島が五〇〇〇年の時渡りを行って、健やかに成長した娘がマローネを訪れた。エテーネを取り巻く問題にひと区切りがついた後も、彼女は危険の伴う冒険を何度も乗り越えて、このパドレア邸をわが家としてたびたび帰ってきてくれた。その何度目かに――もう二度と会えないと覚悟していたパドレを連れて。記憶の結晶を受け取ったあの日、切に願った以上の幸福に近い日常を取り戻した今、未練がましく手の届かなかったもしもを抱え続けることも馬鹿らしい。そう思い、長らく放置していた諸々の片づけに乗り出したところだった。
 丁寧にやすりで角を削った木目のあたたかい積み木。パステルカラーの可愛らしいラトル。ふかふかのぬいぐるみ。ぜんまい仕掛けの人形……そのどれもが真新しい。まだ加減を知らぬ幼子の手に渡せば、どれほど気を遣おうが汚れたり壊れたりするものだ。その傷跡すら愛しい思い出となって残るものだろうに、現実は無機質に時の止まったまま、もはや巻き戻せない。手すさびにラトルを持ち上げると、カラン、コロン、と中に収まる木鈴が鳴る。それに笑う赤子の声はなく、マローネの手元からはうつろな鈴の音ばかりがただ落ちてゆく。
 カラン、コロン。カラン、ギイ……――木鈴の音に交じり、部屋の扉の軋む音が聞こえてきて、マローネはハッと顔を上げた。

 まず見えたのは、ロングブーツの足先。それから膝上丈のスカートに、左肩に短いマントのついた折り目正しいジャケット。全体的に髪色と同じ真珠のような白色だが、襟元を締めるリボンは品のいいボルドー。マローネを含む王族が懇意にしている、王都の仕立て屋らしいセンスの装いだ。耳の後ろでふたつに結んだくるりとカールする髪の毛先が、部屋の中に吹き込んできた風にふわりと揺れた。しらあいの瞳がぱちぱちと瞬き、マローネの手元を見つめている。

「あ……ああ。お帰りなさい。ごめんなさい、気がつかなくて」

 表情の移ろいが淡泊なことは知っている。愛想笑いや取り繕うところの少ないことは、見た目以上の無垢さを感じさせた。迷いなくマローネの隣に座り、子ども向けの玩具を不思議そうに見つめている。

「片づけるところだったの。……その。さすがに、必要な年ごろではないでしょう?」

 どことなく後ろめたさを覚えながら説明すると、彼女は静かに頷いた。それから、くたりと転がっていたぬいぐるみを拾って膝の上にのせる。綺麗に整った縫い目のウデが、遊ばれるままフワフワと上下に揺れた。

「ふふ。ぬいぐるみなら、捨てなくてもいいかしら」
「他は捨てるの?」
「そうね……もちろん、譲るでも構わないけれど」

 せっかく新品同様の玩具だ。むしろ必要とする誰かにそのまま譲ったほうが、この道具たちも役目を果たせるだろう。理屈の上ではそのほうが正しいとわかっているが、どうにも気が進まなかった。
 ――これは、すべてあなたのために用意したモノなのに。
 思っても仕方のない恨み言がクチからこぼれそうになる。

「ねえ、……

 マローネが愛する娘の名前を呼ぶと、彼女はきょとんと首を傾げた。

「なに?」
「よかったら……そのぬいぐるみ、あなたが持っていてくれないかしら」

 積み木も、ラトルも、ぜんまい仕掛けの人形も、すべて今のあなたには必要がない。過ぎた時を巻き戻すことはできず、指の間からすり抜けてしまった思い出を取り戻すことはできない。けれど、きっぱり捨てられるほど、失ったものに焦がれる未練は弱くなかった。
 しらあいの瞳はまっすぐにマローネを見上げている。小さなくちびるがわずかに開いて、ほんの一瞬だけなにか考えるような素振りを見せた後、

「いいよ」

 と、やわらかい返事をつぶやいた。

……ありがとう」
「ううん」ぬいぐるみを抱き寄せて、その額に鼻先を埋める。「……母さんが選んでくれたものだから、うれしい。大事にする」

 窓の外からは、海の匂いがする。懐かしい故郷とは異なる、けれどもなによりも大事なわが子の育った世界の海だ。
 今この時から少しずつ、同じ時間を生きてゆこう。あなたの歩んだ旅の話を、いつかひとつの憂いなく受け止められるように。マローネが真珠色の髪をそっと撫でると、娘は目を細めて笑う。その無垢な笑顔は、間違いなくマローネのウデに抱かれていたあの赤子と同じものだった。