桐子
2025-05-31 18:34:32
3413文字
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まっさら④


目を覚ました男は、そこが女と遊ぶために使っている部屋だと気がついた。
……ん?」
あたたかい布団の中には、誰もいなかった。いつもなら、腕の中で眠っていた女が、恥ずかしげに、昨日の夜がいかに素晴らしかったかを話しながら甘えて抱きついてくるのだが。それが鬱陶しくて、何でも好きなものを買ってやるよう部下に指示を出し、女を追い出して一人寝をする。それが常だった。
「水木?」
名前を呼んでみたが、返事はなかった。ベッドはもぬけの殻で、昨夜確かに抱きしめたはずの男の姿はない。
ふわあ、と大きくあくびをして、男はのっそりと起き上がった。眠った時間は短いが、身体はすっきりしている。初心でおぼこい男の反応が面白くて、ついついいじめすぎてしまった。それで逃げるように出て行ったのだろう。
まあいい。どうせ店へ行けばまた会う機会もあるだろう。男は裸のまま寝室を出て風呂場へ向かった。その途中、ソファーの上に広げられた服が目に入り、男は思わず足を止めた。
「これは……
ワインで汚れていたはずの青い着物が広げられていた。染みなどどこにも残っていない。あの男が、自分の寝ている間に綺麗にしてくれたのだろう。
「お人好しじゃのう」
男は小さく笑った。





「俺はバカか……
水木は寝不足の頭を抱えて項垂れた。昨夜はあれからほとんど眠れなかった。深く寝入った男を起こさぬよう、そっと布団を抜け出して、急いでリュックの中の私服に着替えた。制服であるシャツやスラックスは汗や精液でひどいことになっていて、とても着られたものではなかったのだ。
ーーーー男に抱かれてしまった。しかも初めてなのに、無理やり犯されたのに、あんなに乱れて気持ちよくなってしまったなんて。水木は自分の痴態を思い出し、顔を真っ赤にした。そしてそれ以上に信じられないのは、そんな男のために着物の染みを綺麗に落としてやったことだった。
お人好しにもほどがある。しかし、どうしてもそのまま放ってはおけなかったのだ。
「水木さん、なんか顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
後輩に声をかけられ、水木ははっと顔を上げた。
「ああ、すまないね犬山さん。大丈夫だよ」
水木は笑顔で答えたが、犬山はまだ心配そうな顔をしている。彼女は学生バイトで後輩にあたるが、よく気のつく優しい子だ。
「ダブルワーク、しんどいんじゃないですか?」
「まあね。ほら、お客様お会計だよ」
促された犬山は納得していない様子だったが、急いでレジへ向かった。水木は客のいなくなったテーブルを片付けながら、ため息をついた。
このファミレスは働いて二年ほどだが、土日祝に進んで出勤するおかげで重宝され、店長につぐベテランだ。しかし、いくら慣れたとはいえ、ダブルワークはきついものがある。朝七時から午後四時までファミレスで働き、仮眠をとって八時から深夜一時までクラブでボーイのアルバイトをする。クラブの前はホストクラブで働いていたが、先輩ホストに目の敵にされて店に居づらくなり辞めてしまった。だが、その詫びというわけではないが支配人が今働いている高級クラブを紹介してくれたのはありがたかった。今のところ、これまで働いてきたどの店より時給がいい。ファミレスのバイトのシフトを少し減らしてもいいかもしれない。しかし、あのクラブで働き続けるということは、あの男とまた顔を合わせるかもしれないということだ。

ーーーーまとまった金が欲しい。

こんな生活を続けていれば、若いうちはいいが、いずれきっと身体を壊すだろう。それでも今の水木には金が必要だ。多少無理してでも稼がないといけない。たまの休日に1日寝ていれば体力が回復するので、丈夫に生んでくれた母には感謝してもしきれない。
「いらっしゃいませー」
午後二時を過ぎると、遅めの昼食を取る会社員や学生が来店しだす。水木は気合を入れ直し、新たな客を出迎えた。





「ゲ」
店にやってきた男と目があった瞬間、水木は顔を歪めた。あの男だ。今日もこの前と同じ深い青の着物を着ている。男はママやホステスたちに歓待を受けながら、先日と同じVIPルームへと入っていった。
「ミズキ君、ちょっといい?」
支配人に呼ばれ、水木は嫌々ながらそちらへ向かう。
「ご指名。親父さん、君と二人で話したいって」
「えっ!?」
思わず大声を出した水木に、支配人はしーっと人差し指を立てた。慌てて口をふさぐがもう遅い。他のホステスから非難するような視線が向けられているのを感じ、身を縮こまらせた。そういえば、あの男はホステスたちの憧れの的なのだ。ホステスでもない水木が指名されたとあっては、彼女たちのプライドが許さないのだろう。だが、水木だって困っている。
「気に入られちゃったねえ」
支配人に気の毒そうに言われ、水木はげんなりした。あの男と二人きりで会うなんてごめんだったが、支配人は両手を合わせ「親父さんの機嫌を損ねたらウチはやっていけないんだ」と懇願してきた。
「頼むよ、ミズキ君」
……わかりました」
水木は渋々頷いた。ここで恩を売っておくに越したことはない。支配人がほっとしたように胸を撫で下ろすのを横目に見ながら、VIPルームへと向かった。扉の外には、スーツの男が二人立っていた。
「失礼します。両手を上げてください」
ボディチェックということだろう。服の上から不審なものを仕込んでいないか身体検査をされ、ようやく中へ案内された。VIPルームの重厚な扉を開けると、男はすでにソファーへ腰掛けていた。男は水木を見て、向かいに座るよう促した。
「失礼します」
水木は男の向かいのソファーへ腰を下ろした。男はじっとこちらを見つめている。いたたまれず、水木は視線を床に落とした。どの面下げて会いに来たんだ、この野郎と内心怒りが渦巻いていたが、そんなことを口に出せば明日には東京湾に沈められてしまうかもしれない。よって水木ができることは、無言の抵抗くらいのものだった。
彼が懐から煙草を取り出したので、とっさに灰皿の横に置かれていたライターで火をつける。もはや反射のような行動だった。
「この着物」
男は煙を吐き出しながら、口を開いた。
「もう捨ててしまおうと思っていたんじゃ。しかし、おぬしのおかげで綺麗になってしもうた。これでは捨てるに捨てれぬ。……見事な手腕じゃのう」
褒められたところで少しも嬉しくなかったが、水木はなんとか堪えて笑顔を作った。
「それはありがとうございます」
そう言って頭を下げると、男はおかしそうに言った。
「器用そうに見えるのに、おぬしは不器用じゃな」
……ッ、それはどういうことですか?」
「嘘のつけない男ということじゃ」
男は微笑んだ。今まで見たことのない、穏やかな笑みだった。
「今日ここへ来たのは、教えてほしいことがあってのう。どうしておぬしは、無体を働いたわしのためにここまでしてくれる?」
……
水木は言葉に詰まった。確かに、着物なんて放って帰ればよかったのだ。最後まではされなかったとはいえ、さんざん弄ばれて好き勝手されたのだ。わざわざ染み抜きして綺麗にする義理などない。だが、どうしてもそうしなければいけない気がしたのだ。
「別にあんたのためじゃありません。それ、生地も仕立てもいいし、よく手入れされていたから大事なものなのかなと思って。それに――――汚れは洗えば落ちて綺麗になるんですから」
捨てるつもりだったと言うわりに、男の着物からは防虫のための香の匂いがした。大切に着ている証拠だ。それを、少し汚れたくらいで捨ててしまうのはもったいないと思った。それだけのことだ。
「なるほどのう」
男はくつくつと笑いながら、灰皿に煙草を押し付けた。そして、懐から分厚い封筒を取り出した。
「礼じゃ」
「え?」
慌てて両手で受け取った。ずしりと重く、中をのぞき込むと札束が入っていた。十枚や二十枚ではない。
「こ、こんなにもらえませんよ!」
水木はぎょっとして封筒を返そうとしたが、男は首を振った。
「着物の礼じゃ」
「でも」
さすがにこれはもらいすぎだ。封筒を男の手へ返そうとすると、その手をそっと握られた。ひんやりとした冷たい手だ。驚いてびくりと肩を跳ねさせたが、男は水木の手を握ったまま言った。

「わしの愛人になるなら、毎月この倍は出そう」