千代里
2025-05-30 12:59:56
13712文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その2


 イシュガルド各地を巡る旅路の始まりは、ノエの父が息子にあてた手紙から始まった。いわば貴族から、彼の国に招待されたと言い換えてもいい。
 そのため、最初こそ彼らは来客として遇されていたが、一行がラペイレット領を出てからは一冒険者としての立場で行動することが多かった。
 そのため、移動手段もチョコボ車ではなくチョコボそのものに鞍をつけて乗るのが当たり前となっていた。寒空の下を雪を蹴り立てて進むために、移動は常に体力の消耗を余儀なくされるものであり、天候を気にしながらの行動ともなるため、一日の移動距離はさして長くはなかった。
 だからこそ、今の自分は限りない贅沢をしていると、オデットは『ソファに』腰掛けながら思う。
 チョコボの鞍上から感じる肌を刺すような冷たさとは打って変わって、現在オデットが腰掛けているチョコボ車の中はひどく快適だった。
 寒さを完璧に遮断する耐熱性の高さといい、ただ腰掛けて移動するためだけの場所なのに驚くほど柔らかな毛織物の絨毯や、程よい硬さに整えられたソファといい、これではまるで客間に座ったまま移動しているかのようだ。
 以前乗せてもらったチョコボ車と広さは同等だが、同席している人数が少ないために、豪華さも相まって、オデットはどこかがらんとした印象を受けていた。
 星のように輝く高級そうな照明にも消せない、思わず身構えたくなるような気配の理由は、同席している者のせいでもあるのだろう。
「今日はまた随分と積もっている。五年前に帝国とやらが星を落としてから、ずっとこの有様だ」
 独り言めいた呟きを口にしたのは、オデットでもなければ、彼女の傍についてくれているノエでもない。
 対面に腰掛けている老人――オーバンが呟いたものだった。かの人こそ、オデットに言葉にならない居心地の悪さ、もといプレッシャーを与え続けている人物でもある。
「お前たちはイシュガルドの外から来たという話だったが、門の向こうの様子はどうなっている。いくらかは復興したと聞いているが」
 話しかけられたのは、オデットではなくノエの方であった。
 この老人は、オデットを招くと言い、彼女の父親の知人を名乗っている割には、オデットへの態度はどこかあっさりとしていた。孫のように猫可愛がりするというわけでもなければ、知人の娘を静かに見守るというでもない。もっとも、オデットとしては、そのような態度を取られても困るばかりであっただろうから、適当な扱いを受けていたのは、むしろありがたかった。
「僕たちはグリダニアで暮らしていましたが、一部を除いて、人々の暮らしは落ち着きを取り戻しつつあるようです」
「一部というのは?」
「落下してきた破片によって、森が荒廃してしまった地域もあるのです。その地域に住んでいた人々は、まだ新しい生活に馴染めていないという話を聞きました」
「なるほどな。名高き幻術皇の結界でも、災害の全てを防ぐことは叶わなかったのか」
 オーバンは驚くでもなく、かといって蔑むでもなく、ただ淡々と噛みしめるように頷く。一介の貴族であり、すでに引退した身であったとしても、彼の顔は為政者のものであった。
「クルザス地方やイシュガルドに到着してからは、気候以外の点で第七霊災の話を聞くことはなかったのですが、この地域には天候以外で影響は出なかったのですか」
「私の元に届いた話では、クルザス地方の中央にいくらか星の破片が落ち、見慣れない魔物が闊歩するようになった、ということぐらいか。他の地域にも、従来の魔物とは異なる種の魔物の目撃情報が上がっている。だが、それもこれも、この忌々しい天候の変化に比べれば微々たるものだ」
 ふんと鼻を鳴らし、オーバンは明かり取りの小さな窓から外を見やる。折しも、チョコボ車は町の中に入り、大通りをゆっくりと通り抜けているところであった。
 窓の向こうに見える街並みは、晴れていれば壮麗な住居群が青空に整然と並び、大層美しく見えただろう。だが、今は雪雲に覆われた空が街を覆い、降り積もる雪を退かす人々の顔には疲労の色が濃い。
 冬という季節の到来による降雪ならば、いずれ春が来ると希望を持つことができる。しかし、この五年間、気候は常に寒冷で雪が降り止むことはほぼない。この地に生きる者にとって、終わらない異常気象は着実に彼らの心を蝕んでいた。
「しかし、変わらぬ気候のことで文句を言ってもいられん。気候が変わらぬというのなら、こちらが今までと異なるやり方をしなければならないということだ。その点、ノエといったか。お前の父親は舵の切り方が上手い」
 突然己の父が話題に出されて、ノエは返答に詰まる。構わぬまま、オーバンは言葉を続けた。
「ラペイレットの前当主は、ベルナール卿が兄に比べれば凡庸な男だと嘆いていたが、いざ旗を振らせてみれば、存外に頭のキレる男のようだ。もっとも、兄のフィリベールが領主となっていれば、という声も少なからずまだあるようだがな」
 ちらりと視線を向けられ、ノエは必死に思考を巡らせる。
 下手な回答をすれば、この老人にラペイレット領主の弱みを与えることになってしまいかねない。
 偶然の結果とはいえ、ニヴェール家はルーシャンの養父の領土を併呑している。積極的に他領を追い落とすような野心家ではないのだろうが、彼らは必要とあらば領土を広げることに抵抗がない家でもあるのだ。
「兄が行方不明になったことについては、父もひどく悲しんでいるようでした。僕にとって、伯父上の記憶は幼い頃の思い出しかありませんが、それでもあの人が尊敬できる騎士であったと思っています」
 ラペイレット家の話を振る時点で、己が庶子であることは既にオーバンには知られているだろうとノエは推察していた。
 しかし、フィリベールまでもが先代当主の庶子であったことは、流石に知られてはいまい。そう考えて、ノエは自分の持ち札を考えながらその場を乗り切った。
「そういえば、オーバン殿のご子息が伯父上の話をしていたと、先だっておっしゃっていたように思いますが」
 これ以上ラペイレット家の内情を探られても厄介だと、ノエは話題の舵を切り返す。
「ああ、そうだ。我が愚息のベリトアは、フィリベール卿とは浅からぬ縁があった。神殿騎士団において、共に任務に就いていた仲であり、見習い時代も行動を共にしたことがあるらしい」
 そのような縁があったとは知らず、ノエは純粋に師匠とベリトア卿の関係に興味を抱く。隣領であった縁が、彼らを結びつけたのだろうか。
「だが、ベリトアは、私が言うのもなんだが、小さい器の持ち主だ。幼い頃に体が弱かったせいで、我が妻が過剰なまでに世話を焼いていた時期があったせいだろう。そのせいで、フィリベール卿とは違って、どうにもつまらぬ男に育ってしまった」
 オーバンの実の息子に対する明け透けな物言いに、ノエだけでなく、横で話を聞いていたオデットも呆気にとられていた。
 ベリトア卿といえば、ノエたちにとっても全く知らない人物というわけではない。
 ベリトア卿本人と顔を合わせたことはないが、ベリトア卿の長男は、先だってグリダニアで起きた事件に関わり、一波乱を巻き起こした人物でもある。彼はノエたちと和解した後も、ベリトアに対して思うところがあるようで、悪様に評していた。
 そのため、ノエたちも、どことなくベリトアに対して『良くない人物』という印象を抱いていた。
(直接会ったことがあるわけではないけれど、こうやって話を聞かされていると、ベリトア卿もただの子供のように感じられてしまうな)
 実際、オーバンにとっては実の息子なので、ノエの所感はあながち間違いではなかった。
「彼奴は、自分よりも良い成績を残すフィリベール卿と組まされるのは嫌だったなどと、今でも抜かしておる。全く何年前の話をしておるというのか」
「それだけ、ベリトア卿には伯父上との思い出が強く残っているのでしょう」
 あまりにオーバンが息子をこき下ろすので、気の毒になったノエはそっと嗜める。
「今でも、あれに領主を任せていいものかとも思うが、私には他に後継がいない。やはり、あの時あいつの申し出を断るべきだったか……
 オーバンが自分の思想に潜っていったからか、会話はそこで一度途切れた。
 同時に、チョコボ車の振動がゆっくりとなくなり、停車したことが分かる。
「今日の宿に着いたようですね」
「そのようだな。手配が済んだら、お前たちも休むといい」
「恐れ入ります」
 シュガーグレイヴから旅立って、はや三日。邸に到達するには、どれだけ早く見積もっても七日はかかると言われていた。
 そうなると、行程の途中で必ず宿が必要になる。此度の旅路はお忍びのものであるため、オーバンは領主が直轄領以外を訪問した際に用いる別邸ではなく、町にある一般的な宿屋を使用していた。
 宿といっても、こちらは今までも何度かお忍びで使われたことがある宿だったらしい。そのため、オーバン率いる一同への対応も心得たものだった。謂わば、ニヴェール家にとっては公認のお忍び用の宿といったところだろう。
 今夜宿泊するのも、同じような役割を授けられた宿に違いない。彼らは揃ってノエたちも貴族の一員のように扱ってくれるが、ノエはいつもそのような応対は丁重に断らせてもらっていた。そのような接待を受けるのは心苦しかったからでもあったし、貴族扱いをされるのは気持ちが落ち着かないからでもあった。
 下車のための支度を済ませ、宿の係員がチョコボ車の扉を叩くのを待っていたが、常ならば十分もしないうちに開かれる扉がなかなか開かない。どうしたのかと、ノエとオデットは思わず顔を見合わせる。
「何をもたもたしているのだ。先ぶれが届いていないわけでもなかろうに」
「予想外のことがあったのかもしれません。僕が様子を見てきます」
「兄さん、わたしも行きます」
 狭い車内にオーバンと二人きりなど、オデットにとっては気まずすぎて胃が痛くなるのが目に見えている。
 手配が滞っているのを理由に、オデットは乗降口の扉を開いたノエにすかさずついていった。オーバンが後ろで何か言っていたような気もするが、風が強くて聞こえなかったことにする。
 地面に足をつけると、懐かしすら覚える雪混じりの冷たい風がオデットの丸い頬を打った。室内の温もりで赤くなっていた頬は、別の理由で赤みを帯び始める。
 だが、オデットは自分の体を包み込む冷えた空気が嫌いではなかった。チョコボ車の中でぼんやりとしているよりも、よほど自分の意識がしっかりとする。
「おや、オデットも出てきたのかい。オーバン卿とのお話は退屈だったのかな」
「そんなことはありませんよ。ただ、二人きりというのは、ちょっと」
 ひらりと手を振ったのは、別のチョコボ車に乗っていたヤルマルたちだ。サルヒとオランローも、揃ってフードを目深にかぶって彼女の隣に並んでいる。
 ルーシャンはノエと共に、宿の入り口付近にいる従者の青年と話をしていた。宿の者に何かを頼まれ、従者がそれを断り、押し問答になったようだ。
 二人が間に入って数分と経たないうちに、ノエとルーシャンが戻ってきた。
「何があったんだ」
「この街の近くに、見慣れない獣が数体出現して、隊商を何度か襲っているそうだ」
 ルーシャンの説明は、イシュガルドに入国してから今までの旅路で何度か耳にした内容だった。
「それを退治してくれということか」
「話は最後まで聞けよ、オランロー。退治自体は一人の若者が請け負ってくれたが、一日経っても戻ってくる気配がない。だから、様子を見にいってくれないかって頼んできたんだ。貴族なら、護衛の一人や二人抱えているだろうから、ちょっとばかり手を貸してくれってな。それに、どうやら依頼を受けた相手も貴族だったみたいだ」
「宿の主人の口ぶりだと、少なくともニヴェール領内の貴族の誰かのようでした。主人は、自分が魔物の居場所を教えたせいで、その人物を危険に晒してしまったと思っているようです」
「具体的に誰とは言えないみたいだったから、爺さんとはあまり仲の良くない縁者なんだろう」
 この宿は、貴族のお忍びの外泊のためにも用いられる。貴族の力関係については敏感のはずだ。主人は、自分の迂闊な発言で貴族の青年を死地に追いやってしまったと気が気ではなかったようだ。
 そこにオーバンが姿を見せたので、彼に知られぬようにそれとなく尻拭いをしてもらえないかと従者に頼んだらしい。その押し問答の途中で、ノエたちが姿を見せたというわけだ。
「それで、どうする?」
「うーん。ボクとしては大体答えは決まっているんだが、ここは我らがリーダーに聞いてみるとしようか」
 やけに芝居がかったセリフと共にヤルマルが手を広げ、示した先。そこにいたのは、ノエだった。
 以前は躊躇と照れを見せながら、リーダー扱いをやんわりと否定しただろう。しかし、今の彼はそのような躊躇は見せない。
 己がリーダーであるからと受け入れたからではない。リーダーであるかどうかは、周りが決めることであり、リーダーであろうがなかろうが、自分がするべきは己の意志を言葉にすることに変わりないのだと既に知っているからだ。
「僕は、魔物の討伐に向かった人物の様子を見に行きたいです。よろしければ、手伝ってもらえませんか」
「もちろん。ボクの目の良さは雪原でも役に立つだろうさ」
「あんたなら、そう言うだろうと思った」
「ノエの考えはわかりやすいから。でも、私も賛成」
「若人はそう言うだろうと思って、主人から地図に印をつけてもらっておいたぜ。ほらよ」
 ルーシャンから渡された手書きの地図を広げ、最後にノエは一人の少女へと視線を向ける。
 以前は、ただ待つことしかできなかった少女は、揺るぎない強さを抱えてノエを見つめ返し、
「行きましょう、兄さん」
 ノエの意志に、はっきりと呼応してみせた。
 
 ***
 
「あーあ。一体、俺は何やってるんだか」
 灯りなどほぼ差し込まない闇の中、爛々と二つの目だけを輝かせながら、青年は外の気配に神経を尖らせていた。そこにあるのは、獲物を待ち伏せするための捕食者の視線ではない。むしろ逆だ。
「ったく。あいつら、まだ粘ってるのかよ」
 言葉の通り、洞窟からの視線の持ち主は追い込まれる側だった。
 洞窟には出入り口はひとつしかなく、入り口前に自分を狙うもの――己のゆうに三倍は超えそうな体躯の獣が陣取っている。袋小路に追い込まれた鼠という言葉が、今の青年の状態にはぴったりだっただろう。
 青年は意味をなさない何度目かの確認を終えて、洞窟の奥へと戻る。腰にぶら下げた二つの剣の重みすら、今の彼には何の慰めにもならない。
 入り口から外を覗いたとき、少し離れたところに自分が仕留めた一体の獣が転がっているのが見えた。あれは、この近辺ではあまり見かけない種類の獣だ。黄金色の毛皮を持ち、巨大な牙と鋭い爪で狩りを行うこの獣は、生息地ではバンダースナッチと呼ばれている。
「一体を倒したら、逃げ帰るかと思ったんだけどよ。まさか、仇討ちだからって追い回されるとは思わねえじゃーか」
 悪態をついても、時すでに遅し。
 三体から構成された群のうち、一体を仕留めた青年を前にして、獣たちは逃げるのではなく青年という脅威を取り除くことを優先した。
 最初の一体を仕留めるにも不意打ちでなければならなかった青年には、二体を正面から相手取ることなどできるわけもない。そのため、こうして手近な洞窟に逃げ込んだというわけだ。
 バンダースナッチは、時に人をも襲う獣だ。青年のように自ら攻撃にでなくとも、無抵抗の商人たちを襲うこともあり、既に被害も報告されている。
 だからこそ、青年は二つ返事で討伐を請け負った。八方塞がりの状況に置かれても、青年は自分が依頼を受けたこと自体は後悔していない。
「せっかく、ちょっとばかりは腕に自信があるんだからよ。困っているやつがいるのなら、助けるべきだって、あいつらなら言うんだろうな」
 困っている人を助ける。当たり前のように見えて、これが実に難しいことだと青年はここ数ヶ月で思い知っていた。
 教本では至極当然の教えのように書かれているものの、実際に行動に移そうとしても、思い通りにいかないことの方が多い。自分の力が届かないことも勿論だが、入念な下調べもせずに飛び出して痛い目を見ることもしばしばである。
 だが、青年は途中で投げ出そうとは思わなかった。
 数ヶ月前、彼が出会った冒険者たち。見ず知らずの者のために、己が傷つくのも厭わずに武器を手に取り、脅威に立ち向かう者の背中は、彼の目にしっかりと焼き付いていた。
……よし。これ以上待ってても仕方ない。一丁やってやるか!」
 自分の懐に忍ばせていた携帯食料を齧る。硬く焼きしめたクッキーに似たそれは、甘味のかわりにひたすら麦の味が濃い。
 食べるものがなくなったら、あとは衰弱して死ぬしかない。それぐらいなら、一発逆転を狙う方がまだマシだ。少なくとも、己が後悔をせずに済む。
 青年は軽く肩を回して、得物である二本の剣を抜きはなつ。洞窟の入り口から見えるわずかな隙間から、バンダースナッチの気配を入念に観察するのも忘れない。
 これはやぶれかぶれの一手ではない。命を繋げるための一歩なのだ。
「一体は近くにいるが、もう一体の姿が見えないな。狩りにでも行っているのか?」
 遠くに見える、転がっている一体。これは自分が仕留めたもののはずだ。
 そして、程近くに見える一体。こちらは見張りだろう。ならば、残りの一体は不在と見ていい。
「一対一なら、俺でも勝てるかもしれないな」
 これは好機だ。青年は剣を構え、バンダースナッチが気配を探り出す前に洞窟から飛び出した。
 すぐさま、見張りを請け負っていた獣の影が躍動する。しなやかな筋肉を持つ獣の伸びやかな動きは、まるで矢のように青年に向かって一目散に飛んでくる。させじと、青年は小刻みにステップを踏んで、自分の位置を獣の狙いから外す。
(走って逃げられりゃって思ったが、流石にこいつから逃げ切るのは無理そうだ……!)
 獣がぐうと体を屈め、大きく跳躍する。逃げるならば、より大きく距離をとって走り出さねばならない。だが、青年は更なる賭けに打って出ることを選んだ。
「運がよければ……儲け物だ!」
 逃げるのではなく跳躍を掻い潜るようにして相手へと踏み込む。装備の脇を、爪がかすめていく感覚薄皮一枚で致命傷を避けた運のよさに歓喜する前に、青年はすり抜けざまにバンダースナッチを片手の剣で切り裂いていた。
 手に走る、肉と皮を断つ感触。何度味わっても慣れない感覚に指先が震えかけるも、歯を食いしばって己の震えを抑え込む。
「これだけで、お前がやられるわけないよな」
 姿勢を直し、相手の攻撃の成果を確かめる。
 脇腹を大きく裂かれた獣はグルグルと不愉快そうな唸り声をあげ、青年を睨んでいる。だが、わずかなれど流れ落ちる血は確実に獣の体力を奪っていく。
 もとより、この獣たちは通常の生息区域からはぐれてやってきた個体だ。極寒の地で動き回るのには慣れていまい。
 勝機はある。青年がそう確信を持ったときだった。
 ――背後に、膨れ上がる気配を感じたのは。
「!?」
 振り向くと同時に剣ではなく逃走を選んだのは、結果的に正解だった。
 足音を殺して忍び寄ってきていたのは、もう一体のバンダースナッチ。どこからともなく近寄り、こちらの油断を突いて攻撃してきたのだろう。
「どこからやってきたんだ、こいつ……!?」
 戦闘の最中に接近したとしても、あまりに急すぎる。ぽつぽつとまばらに生えた枯木と立木しかない雪原に、黄金色の毛皮はよく目立つ。たとえどれだけ入念に姿を隠していても、発見は容易であるはずなのに。
 思考と共に視線を巡らせていた青年は気がつく。事切れて倒れ伏していたはずのバンダースナッチの死体が、無くなっていることに。
「あいつ、死んだ仲間の真似をして、俺を油断させやがったのか!」
 バンダースナッチの悪知恵に気がついても、時すでに遅し。目の前に迫る肉食獣の獣と牙を前にして、咄嗟に腕で顔を庇い、せめて痛みが少ないことを祈り、
 
「伏せてください!」
 
 青年は、声を聞く。
 かつて、向こう見ずな己が多大な迷惑をかけた相手。見ず知らずの者を助けるために武器を取り、脅威に立ち向かうことを厭わなかった者の声を。
……ノエ!?」
 誰何(すいか)の声に応じたのは、襲いかかるバンダースナッチに突き刺さった雷撃だった。
 
 *
 
「間に合ったか」
「いや、まだもう一体いる。他にもいるかもしれない」
『了解。サルヒ、ルーシャン。見えるかい』
 物見の役割のため、少し離れた高台から状況を俯瞰しているヤルマルの声がリンクパール越しに聞こえる。
 ノエの放った白雷の魔法『レクイエスカット』は、一人で二体のバンダースナッチに挟まれていた青年を間一髪のところで助けた。だが、それはあくまで攻撃を一時的に防いだだけだ。
「僕が前に出る。オランロー、オデットを頼む。何かあったら、二人が援護を」
「言われずとも。さっさと行ってこい」
「はい。兄さんも気をつけて」
 返事は必要なかった。ノエが駆け出すと同時に、少し離れた場所から別動隊として行動しているサルヒも飛び出すのが見えた。
 ノエが目指すのは、青年に背後から奇襲をかけた一体だ。足の裏で風属性のエーテルを爆発させ、さらなる推進力を得たノエは、盾を前にしてバンダースナッチに衝突する。
 エーテルをクッションにして自身の衝撃を殺したノエとは異なり、もろに盾の直撃を受けたバンダースナッチは、苦鳴の声をあげて数歩後ずさった。
 すかさず、距離を詰めて今度は盾ではなく剣を振るう。しかし、敵もさせじと身を捻り、必死に剣から己の体を逃す。
「獣を相手にするのは、やっぱりやりづらいな」
 雪で濡れた毛皮で刃が滑り、振るった一撃は致命傷には至っていない。その隙に大きく後退してみせたバンダースナッチは、こちらに追撃を加えるか様子を伺っている。どうやら、この固体は慎重派らしい。
 逃走を許して、ここで戦闘を終えることもできる。だが、逃がしてしまったら、近隣の人々は再び獣に怯える暮らしに逆戻りだ。そう考えれば、天秤を揺らしている時間は一瞬で終わった。
「待てっ!」
 歯を食いしばり、雪を蹴り立てて再度敵に迫る。しかし獣は形勢不利と見て、更なる後退を試みる。獣と人間では、走る速度には歴然とした差があった。
 このままでは、逃げられる。そう思った矢先、ノエより小柄な体躯が獣の前へと先回りしていた。
「挟み撃ちは、お前だけの専売特許じゃないってこと忘れてねえか?」
「あなたは……!」
 たじろぐ獣に追いついたノエは、ようやく自分が助けた相手が誰であったかに気がついた。
 夜の海を思わせる深い濃紺の髪に、明け方を思わせる紫の瞳。粗野な物言いに対して、存外に整った身なりをしている青年の名を、ノエは知っている。
「ティエリーさん! 一体あなたが、どうしてこんな所に?!」
「色々俺も聞きてえけどよ、話は後だ。まずは、こいつをさっさと仕留めるぞ!」
「分かりました。合わせてもらえますか!?」
 ノエの指示に、ティエリーは一瞬驚いたような顔を見せた。
 それは、どこか控えめな印象を抱いていた青年の積極的な物言いに驚いたからだったが、ノエは彼が指示に不満を抱いたのではないかと危ぶんでいた。
 ノエの中では、ティエリーという人物は思い込みが激しい上に、人の話を聞かずに突っ走ってしまう青年としての印象が強かったからだ。
 だが、ノエの懸念はティエリーの一言によって払拭する。
「ああ。俺は何をすればいい?!」
「獣が逃げる方向に立ち塞がるように位置をとってください。攻撃は、妨害に余裕があるときか、敵が背中を見せた時だけで構いません」
「わかった! 嫌がらせなら一日かけて存分にされたんだ。今度はこっちの番ってことだな!」
 一日もの間、獣と向き合っていたのなら、少なからず精神的に衰弱をしているはずだ。しかし、疲れを見せないティエリーの姿に、ノエは人知れず感嘆を飲み込む。彼もまた、この数ヶ月の間に少なからず変わっていったようだ。
 呼吸を一つ挟み、ノエは逃げ道を求めるバンダースナッチを追い込む。どちらに逃げるべきか、躊躇を抱いてしまった獣には、もう逃げ道はなかった。
 
 *
 
 救出した青年と共にノエがバンダースナッチを追い込んでいく一方で、サルヒは自分の体長にも迫る大きさの斧を振るい、手負いの獣を追い込もうと四苦八苦していた。
 ノエが相対していた相手がが慎重派だったなら、こちらはより好戦的な個体だったらしい。逃亡の気配など見せず、サルヒに向かって何度も飛びかかっている。
 斧の攻撃は強力であるが、素早さには欠ける。俊敏なバンダースナッチの爪は、サルヒにとっては相手しづらいものであった。
(様子を見て、相手が近づいたところを捨て身で仕留めるしかない)
 数度の攻防の末、サルヒは多少己が怪我をしても構わずに、敵を討つことを優先すると決めた。相手もこちらの動きが鈍いと察したのだろう。唸り声には、御しやすい敵と開講した幸運を喜ぶ気配がある。
 獣の足が躍動し、サルヒの予想通り爪が迫る。片腕をくれてやり、そのあとから一気呵成に仕留めるかと踏み出した、その時。
「腕の片方ぐらいなら、多少怪我をしてもいい……なーんてこと、考えているんだろ?」
「旦那様!?」
 聞こえてきた声と共に、サルヒでは追いつけなかった速度の爪が、細剣によって受け流される。絶妙な角度から挟まされた剣は、致命打は至らずとも、爪の攻撃を予想外の方向に流していった。
 サルヒとバンダースナッチの間に割って入ったのは、ルーシャンだった。後衛に控えて、隙があれば魔法を放つように頼んでいた彼は、今や前衛に立ち、サルヒに代わって獣の爪と何度も細剣を交わしている。
 サルヒの得物と異なり、ルーシャンの細剣ならば敵の攻撃に追いつくことができる。だが、もともと魔道士として中後衛を任されていたルーシャンの武器では、獣の爪の破壊力には到底敵わず、致命傷を与えることもできない。
「旦那様、下がってください! 私がこの敵の攻撃を受け止めますので、その隙に!」
「だからって、お前が怪我していいってわけにはいかないだろう! だから、隙を突く役は、そっちに任せる!」
「そんな……何を言っているんですか!」
 らしくない行動だと思うのは、ここ最近のルーシャンの行動の意図が全く読めないと感じているからだろうか。
 また、サルヒにとって思いも寄らない理由で、彼は前に出ると決めたのではなかろうかと、サルヒの心に焦りや苛立ちが生まれる。
(いったい、あなたは何を考えているの……?!)
 疑念は、常にサルヒの胸の中にあった。この戦闘の場に限らず、ルーシャンのそばにずっと長くいたはずの自分が、一番彼のことが理解できていない。あるいは、理解させないと突き放されたかのように感じる場面が何度もあった。その度に、サルヒは困惑と焦燥の狭間に取り残されていた。
 ルーシャンの剣は、案の定バンダースナッチの爪に押されている。だが、彼の攻撃に気が取られて、獣の意識はサルヒから完全に外れていた。
 これがルーシャンの作ってくれた隙だ。ならば、あとは、最善と思えるタイミングで敵に武器を叩きつけるだけでいい。
 獣の爪が、細身の剣と何度目かの激突を迎える。最初の攻防のように、ルーシャンが攻撃を受け流すと思えた。だが、剣はすでに限界を迎えていた。
……!!」
 打ちどころが悪かったのか。それとも、これまでの激戦の積み重ねによるものか。ルーシャンの細剣が、爪によって半ばで断ち切られる。
 ルーシャンの瞳に「しまった」と動揺が浮かぶ。
 一方で、獣にとっては、千載一遇の好機だ。多少体勢が崩れようとも、大きな前足を振りかぶり、爪で以て男の体を切り裂こうとした。
(私は――
 獲物を仕留めるチャンスに小躍りしている獣の背面はがら空きだ。サルヒが斧を叩きつければ、一撃で傷を負うことなく仕留めることができる。
 けれども、ほんの数秒の間に、獣の爪は男の体に傷を残すだろう。致命傷でなかったとしても、血は流れる。
 躊躇は、必要なかった。
「旦那様、あなたは無茶をしすぎです!!」
 叱責の大声と共に、サルヒはルーシャンと獣の間に割って入る。
 爪を斧の刃で受け止めきれず、サルヒの腕に傷痕を残していく。だが、普段から分厚い革や金属で覆われた防具を身につけているサルヒにとって、この程度の攻撃は深手には至らない。
 自分が傷つく可能性が低い立ち位置を選ぶ程度の余裕もあった。その余裕もまた、ルーシャンに与えられたものだと思うと、ぐらぐらと煮え立つような怒りに襲われる。
「何を考えているのか知りませんが、あなたは魔法が得意なのでしょう! だったら、後ろに下がっていてください!」
 何もかもが腹立たしい。後ろで呆気に取られた顔を見せている魔道士の男のことも、彼のことを知っているようで何も分からないままでいる自分のことも。
 間に割って入った闖入者、獣が憤激し、感情に任せて牙を振るう。だが、獣とは異なり、サルヒの苛立ちは彼女の行動の精彩までは奪わなかった。
「今は、私と旦那様が話している時間です。あなたは、黙っていてもらえますか!」
 冷静に、そして的確に獣の牙を掻い潜り、サルヒは懐に潜り込む。大きく振りかぶった斧の刃は、獣の柔らかな腹部を一直線に横切り、真っ赤な飛沫が周辺へと飛び散った。
 自身にも降りかかる返り血を気にせず、サルヒは倒れ込んできた獣を片手で掴んで地面へと仰向けに引き倒し、すかさず、斧でもう一撃を加える。
 万が一のための行動だったが、どうやら先ほどの一撃で既に致命傷に至ってくれたようだ。獣は、トドメの一撃をなす術なく受け止め、動かなくなった。
……サルヒ」
「旦那様。私は怒っています」
「それは、まあ……見ていれば分かる。だけど、不利な相手だから捨て身で敵を仕留めるっていうのは、お前の戦い方だとはわかっているが、もうちょっと他の策を試してからでもいいだろう」
「あなたなら私が怪我しないように、魔法で援護することもできたでしょう。何故、そうしなかったのですか」
 ノエたちと出会うまでの間、二人で行動していた頃なら、ルーシャンは多少の犠牲には目を瞑っても安全な策を選んだ。不測の事態に陥っても致命傷には至らない立ち回りをしていたものの、今回は運が悪ければルーシャンは深手を負っていた。リスクが高く、先ほどの戦いは、常の彼ならば取らない手段だ。
「お前が怪我する可能性を減らすためだと言ったら?」
「残念ですが、今の私はあなたの言葉をそのまま受け止めることができません」
 暗に、お前の発言は信用ならないと言っているにも拘わらず、サルヒの瞳は罪悪感に揺れていた。本来ならば、このようなことは言いたくないと、彼女の目が何よりも雄弁に語ってしまっている。
「そうかい。だったら、俺は言い訳はしないさ。単に、そうしてみたかった、とだけ言っておく」
「私が間に割って入らなかったら怪我をするような真似を、ただの気まぐれと言うのですか」
「それでも、お前は間に入ってくれただろ?」
 指摘を受けて、サルヒは反論の言葉を失う。事実、彼女はルーシャンと獣の間に、我が身を顧みず飛び込んだ。その結果は、今更覆せない。
「それが確かめられただけで、俺は十分なんだよ。ほら、腕を見せてみろ」
「治療は必要ありません。あとで、オデットに治してもらいます」
「拗ねるなよ。まるで出会った頃みたいな反応をするな。遅れてやってきた反抗期か?」
…………
 本気で怒っていると分かるサルヒの視線を受けて、ルーシャンは「今のは俺が悪かった」と素直に謝罪する。それでも、彼はサルヒの腕に手を翳すのをやめようとはしなかった。
「戦闘の後で疲れているのでしょう。この程度、放っておいてもすぐには悪化しません」
「疲れているっていっても、そんなに大したことじゃない。それに、お前の傷ぐらい、お嬢ちゃんじゃなくて俺に治させてくれよ」
「そんな風に言って機嫌を取ろうとしていませんか」
「いいや、こいつは本心だよ。お前は信じてくれないだろうがな」
……自分の胸に手を当てて、考えてみてはどうですか」
 サルヒの嫌味に、ルーシャンは片眉だけをあげて応じる。彼の手から漏れた治癒魔法の光が、破れた革から見えていたサルヒの傷を塞いでいった。
「自分の胸に手を当てて考えた結果が、これなんだよ。悪いな」
「今の私には、あなたの言葉は、悪いと思っていないのにとりあえず謝罪を口にしているように聞こえるのです」
「自覚はしている。だが、俺にはこれしか言えないんだよ」
 もう一度「悪いな」とだけ言うと、ルーシャンはサルヒの腕から手を離した。傷は、跡形もなく彼女の腕から消えていた。
「どうやら、向こうさんも蹴りをつけたようだな。少し様子を見てくるか」
 ルーシャンが視線を向けた先では、ノエが相手をしていたバンダースナッチが倒れている。そちらへと歩き出した男の背中を見つめ続けながら、サルヒは無意識のうちに、傷のあった場所をそっと手で抑えていた。