Ca(か)
2025-05-30 12:54:38
4755文字
Public haikaveh SS
 

UW旗を抱きしめて

大怪我をしたカーヴェに対して、ほんとうに言いたい言葉を飲み込むアルハイゼンの話



 カーヴェが怪我をした。
 上腕骨骨幹部骨折——肩と肘のちょうど真ん中あたり、三角巾で覆われて見えない部分は今もひどく腫れているらしい。なにもしなければ全治半年の大怪我だったが、運よく同じキャラバンに神の目を持つ治癒師がいたことである程度までの再生がされ、ビマリスタンで改めて診断されたところによると三ヶ月もすれば完治するだろうとのことだった。
 しかし、本人には仕事を減らす気がないようだった。今請け負っている案件については、メラックに多くを頼ることになるものの、これまでどおりこなすと言って聞かなかったそうだ。それを聞いた医者はしばらく言葉を選んでいたが、最後には「安静にするように」とだけ伝えたという。そのときの医者の心中は察するに余りあるが、残念ながら彼の忠告は守られないだろう。昔から動いていなければ落ち着かない性分だ。予期せぬ事故で進捗が遅れてしまったのを、寝ているだけでさらに遅らせるわけにはいかないと言ってこれまで以上に無茶をするに違いない。
 そして悲しいかな、凡夫ならそこで崩れ落ちるだろうが——カーヴェの場合はいたずらに能力があるせいで、ほんとうにどうにかなってしまうのがさらによくない。

 一時はどうなることかと思ったが、今回は大丈夫だった。
 じゃあ次回もきっと大丈夫だろう——自分が身を粉にすれば。

 そんないびつな成功体験を積んだ先にあるのがどんなものなのか、君はとうに知っているはずだというのに。


「もろくなっていた建物の石壁が崩れたんだ。その真下に小さな男の子がいて、あのときはもう僕が飛び出さないと間に合わなかったんだよ」

 カウチに腰掛け、ギプスで左腕をがちがちに固定されたまま依頼に目を通すカーヴェは、俺に背中を向けたままそう言った。
 キャラバン宿駅の壁の老朽化に伴い、近く修繕のための工事が行われるという話は以前から聞いていた。その工事の担当にカーヴェが就いていることも、上がってきた申請書類を見て把握しており、昨日から現場入りをしていることについても承知していた。
 事故発生報告書によれば、現地へと足を運んで視察をし、話もあらかたまとまったところで一旦解散……というときに事故は起こったとのことだ。
 一秒を争う状況のなかでは、たしかにカーヴェの言うとおりほかに術がなかったかもしれない。
 それでも——それでも、言いたいことはある。

「子どもが助かったのはなによりだ。だが君がそうやって安易に選び続ける自己犠牲は、遠くない未来、君自身の身を滅ぼす。十年経ってもまだわからないのか?」

 言ったが早いか、空気がびしりと張り詰めるのが肌でわかった。
 カーヴェが薄く息を吐きながらゆっくりとこちらに振り返り、片眉を釣り上げながら俺のことを睨めつける。足元、手、首——そして、目。俺というものをひとつ残らず軽蔑するように視線で咎めながら、最後に突き放すようにはん、と鼻を鳴らした。

「これはこれは、御高説をどうも。君は怪我人に皮肉を垂れるほど暇らしいが、あいにく僕は忙しい。左手が使えなくても右手は動くし、脚なら両方問題ない——仕事をするにはじゅうぶんだ。生活においても君に介助を頼むなんてことはしないから安心しろよ。……ああ、ここを散らかすのも気に食わないか? それなら外に出てこよう。まったく、君のそのヘッドホンが羨ましいったらないね。耳に入れたくないものは綺麗さっぱり遮断できてしまうんだから」

 言い終わるよりも先に荷物をまとめ始めるカーヴェを前にして、苛立ちが募っていく。
 握り込んだ拳がぎちりと音を立てた。

「自分のしたことについてほんとうに思うところがないのなら、俺からなにを言われたところで構わないはずだ」
「ああ構わないとも! それがわかっていてなお、僕になにかを言うということがどれだけ無意味なことなのか、わからないほど君はバカだったか? なんにもならないとわかっていながら口を閉じられない君のほうにこそ、問題があると僕は思うね」
「俺に問題があるというなら君もそうだ。君はこれまでにも、自分の無茶を他人に指摘されてきながら一向に改めようとはしない。今回の件も、どうしてメラックに頼らなかった?」
「長いことひとりでやってきたから、咄嗟に動くのはまだ自分の体のほうなんだ。それにこんな怪我もので済んで良かっただろ。子どもひとりの命か、いっとき僕の腕が使えなくなるかなら、どっちがましかは明白だ」
「こんなものだと?」声がざらついた。「君はいつまで自分自身から目を逸らすつもりだ。君の人生はいつか——
「おい」

 俺の言いかけた言葉を、カーヴェが遮った。

「これは僕が選んだ、僕の人生だ。端から見ているだけの君が語るな」

 耳の中を踏み荒らすような低い声がリビングに響く。
 カーヴェのむき出しの嫌悪感が、俺の心臓を正面から深々と刺した。

 喉の奥で言葉にならないむかつきがじわじわとふくらんでいく。
 実際のところ——大人になった今、使える言葉はいくらでもあった。しかしそのどれも選ばないのは、なけなしの理性が冷静たれと俺を睨みつけるからだ。
 そうしてしばらくのあいだ、互いに黙りこくったまま、ただひたすらに相手を睨みつけていた。


 先に沈黙を破ったのはカーヴェだった。
 カーヴェはこれ見よがしなため息をついたのち、突然、大げさな勢いでがばりと立ち上がった。メラック、行くぞとぶっきらぼうに工具箱のスリープモードを解除して、乱雑にまとめた荷物を半ば押し付けるように預ける。そしてカーヴェはつかつかと足取り荒く廊下を進んでいき——ついに一度も立ち止まることなく、玄関のドアノブに手をかけた。
 いつもなら外の様子を伺いながら、音も立てないようにそろそろと押し開けられるドアだ。
 しかし今はそんなものに構っていられないと言うように、カーヴェは常にない荒さでそれをぐいと押し開け、そして叩きつけるようにして去っていった。

 ざく、ざく、と迷いもためらいもない速度で足音が遠くなっていく。俺はリビングに立ったまま、黙ってそれを聞いていた。
 やがて足音が聞こえなくなったところで、そっと玄関のキートレイを確認しにいく——鍵はなかった。となると、少なくともここに戻る気はあるのだ。
 今はそれがわかっていればじゅうぶんだ。俺は壁に寄りかかり、深く嘆息した。

 ——これは僕が選んだ、僕の人生だ。
 ——端から見ているだけの君が語るな。

 お前のことが心底きらいだ。そんな感情を隠しもせずに、カーヴェは俺に吐き捨てた。
 耳の奥、あるいは胸の奥にこびりついたその言葉を反芻するたびに、心臓に焼きごてを押し付けられたような感覚がして思わず舌打ちが漏れた。
 あいつの言葉には確かに一理ある。誰しも自分の人生を生きていて、それがどんなものであっても、他人にどうこう言われる筋合いはない。自分の人生の責任を取れるのは自分だけであり、他人ができるのはせいぜい口を出すことくらいで、その責任など取れやしないからだ。だからこそ人生は自由で、周りに迷惑をかけないかぎりは誰もが生きたいように生きることができる。
 それでも——それでも、どうしても言いたいことはあるのだ。

 (こんなもので済んで良かったじゃないか、などと)

 追い詰められる場面において、カーヴェはあっさりとその身を犠牲にする。本人からすればけして「あっさりと」というわけではないのだろうが、修羅場をくぐり抜けるたびに身を削る姿を見ていれば、誰だってそんな印象を持つに違いない。
 今回カーヴェがしたことは、多くの人に善行だと称えられるだろう。救われた子どもの親はもちろん、その友人たちもきっと子どもの無事を心から喜び、引き換えに彼が負った怪我を深く悲しんだだろう。カーヴェのしたことはけして無駄ではない。彼の咄嗟の判断は命を救った。一刻を争う場面で実際に動ける人間はそういない。だから、問題はそこにはない。

 ——子どもひとりの命か、いっとき僕の腕が使えなくなるかなら、どっちがましかは明白だ。

 くだらない詭弁だ。そんなものは、ただの結果論でしかない。
 当たりどころが悪ければカーヴェだって命の危機があったかもしれないことは、本人も承知しているはずだ。自己犠牲ありきの幸福なんてものは本末転倒で、どんな言葉で誤魔化そうとも、それは他人の不幸の肩代わりでしかない。幸福には同じだけの代償が伴う——などという与太話を、まさか本気で信じているわけでもないだろうに。
 カーヴェは今もなお、自分の中の罪悪感に囚われたままその身に鞭を打ち続けている。降りかかる災難に苦しみながら、しかし同時に、それを自分に対する正当な罰だと受け入れてしまうのだ。そんな彼を前にして喉の奥に押し込めた言葉はもう数え切れない。自分の犠牲を幸福の代償に当てはめるな。痛みに救いを見出すな。負った傷にメッキをかぶせて、もっともらしい勲章にするな。
 ——ああ、違う。ほんとうに言いたいことは、もっとシンプルで自分勝手な、たった一言だ。

 自分をないがしろにするな。

 そのまま伝えたところで聞き入れてなどもらえない。なのに願わずにいられないのだから、まったくもって救いようのないエゴだ。
 共同研究の道が絶たれたあの日からここに至るまで、何度もその言葉を飲み込んできた。自分の気持ちを押し付けることがなにを招くのかを知っている。だからこうして言葉をすり替えながら、ぐっと奥歯を噛み締めてきた。
 カーヴェが出ていった玄関を見やる。しんと静まり返った家はまるでひとり暮らしのようだ。おそらく彼は深夜まで戻らないだろうし、俺と顔を合わせることをいやがって、夕食もどこかで済ませてくるはずだ。構わない。ここに帰るつもりがあるならひとまずそれだけでいい。少なくとも明日いっぱいは言葉を交わさないだろうが、それについても別にいい。ある程度の気まずさがあれば集中が乱されて、仕事の手も止まるだろう。どうにもすっきりできないときには一旦眠ってリセットしようとするだろうから、そこで休養がとれればいくらか回復もする。いいことずくめだ。すべてがそうとは言えないけれど。

 人の運命は性格で決まる。カーヴェが選んだカーヴェの生き方はやがて楽園へと繋がるかもしれないが、そこに至るまでの道のりは辛く険しいものだ。理想と現実の差にもがき苦しみながら、それでも、と諦めずに伸ばす手だけが、不条理な世界で幸福を掴むことができるのだろう。
 カーヴェの人生はカーヴェのものであり、彼以外が歩めるものでもなく、彼もまたほかの誰かの人生は歩めない。俺の人生をたいそう生きやすそうに言うものの、結局のところ代わるかと訊いたところでNOが返ってくることは明白だ。ぐちぐち泣き言を言いながら、それでもカーヴェは自分で選び、生きたいように生きている——ただその人生が、生きやすくはないだけで。

 帰るための家を用意するほかには、無事を祈ることしかできない。
 いつか彼がまた太陽の下で笑えるように。生き生きと図面を引いて目を輝かせながら展望を語り、時間がいくらあっても足りないと言いながら本のページをめくり、見たこともないような景色に心を踊らせてはにかむような——そんな日々が、また当たり前に訪れるように。


 そうして最後にたどり着く、心から笑える場所がここではなかったとしても構わない。
 風を切って漕ぎ出す船に向けて、港の縁でそっと旗を振るように、俺は家のドアの透かしを見つめていた。