いつものように遊んで朝帰りをした信一、龍兄貴の寝顔が見たくなってそっと自室に入ったらベッドに寝息の息遣いはあるのに姿がない。この時間に出掛けたのだろうか?玄関に靴もあるのに?
近付くとベッドの真ん中あたりがこんもり盛り上がってる気がして、なんだか胸騒ぎがした信一はそっと毛布を捲ってみる。
現れたのは白とグレーと黒が混ざった毛色の大きな猫だった。龍兄貴がよく着ている寝巻きのなかで丸くなり、ぴるる、と短く耳を震わせて信一のほうを一瞥し、また目を閉じて眠ろうとする。
「ニャム…(信一か…)」
耳に届いたのは猫の鳴き声なのに頭の中で聞こえた声は確かに聞き馴染んだ龍兄貴の声で、信一は自分はまだ酔っているのだろうかと混乱する。
「え?兄貴…?兄貴なの…?」
「ナンナ~ニャニャム(そうだぞ~哥哥だぞ)」
さも酔っぱらいをあしらうような口調で目を閉じたままの猫が言う。この不法侵入猫が兄貴?ていうか兄貴が猫になっちゃったの???
信一が恐る恐る猫を撫でてみると目を閉じたまま気持ち良さそうに手に体を擦り付けグルル、と喉をならした。薄いピンクの鼻は程よく湿っていて、毛並みはシルクのように滑らかでありながら雲のようにフワフワとしている。
「本当に兄貴…?兄貴、猫になっちゃったの?本当に…?」
震える声で信一が言うと、猫がやっと目を開け、やれやれという感じであくびと伸びをした。
「ゥニャンヌ…ァッ?!(どうしたんだ信一…あっ?!)」
視界に映った自分の手であるべき物体がモッフモフの肉球ハンドになっていて驚きの声を上げる猫…兄貴。自分の両手や両足をまじまじ見て、助けを求めるように信一を見ると、青ざめて困ったような顔をした信一と目が合った。
「っど、どうしよう…」
途方にくれた信一の呟きが溢れた。
「朝起きたら猫になってたってこと?なんにも心当たりとかないの?」
「ニャッ(ない)」
朝起きたら猫になっていたなんて異常な状況でしかないのに、意思の疎通が完璧に取れているのがそうさせるのか危機感はあまりなかった。とりあえず猫兄貴をテーブルにのせて身体中をくまなく調べているはずが、ピンク色のつやつやした肉球をにぎにぎしたり、ほかほかフワフワのお腹に顔を埋めたりだいぶ意識が逸れだしている信一。猫兄貴は猫兄貴でお腹に顔を埋めている信一のゆるくパーマのかかった髪のひとすじをパシパシと叩いて遊んでいる。
「理髪店は当分休みにしないとだねえ…」
「ンニャ…ナンナンナァ(そうだなぁ…この手じゃお前に朝飯を作ってやることも出来ん)」
「も~俺は大丈夫だから!兄貴こそ何食べるの?その体だと人間と同じ食事じゃダメだろ」
「ナンナンニャムンナウナ~(城寨に来る猫用に買い置きの猫缶があるが正直食いたくない)」
「ダハハ!なんで猫が猫用の飯嫌がるんだよ~」
「ァーゥ…(生臭いからいやだ…)」
信一はひとしきり笑ったあと立ち上がって、台所で食材を探った。いろいろ試行錯誤したのち、結局猫兄貴が食べたのは蒸しただけの鶏肉をすこしと無糖のヨーグルトだった。信一の朝食はその残りになったので朝から胃が混沌としていた。
「じゃあ行くか」
靴に踵を入れながら信一が振り向くと、慣れない体だからか四足歩行だからか、ぽてぽてと歩いてきた猫兄貴がやっと追いついて、なにか考えるように止まったあと、後ろ足で立って前足を広げ信一の方に伸びる。鳴かなくても抱っこしろと言っているのが分かった。
「なぁに~猫になったら甘えん坊になった?」
「ニャウン(お前の甘えたがうつったかな)」
可愛さに目尻を下げた信一が抱き上げると喉を鳴らして顔を擦り寄せる猫兄貴。信一はもう~、なんて口では言いながら背中を支えて玄関から出る。靴もないしこの短い手足で長い距離を歩くのが嫌だった猫兄貴の作戦は見事成功であった。
頭がおかしくなったかもしれない、診てくれないか?と声がして振り向いた四仔は、やけにデレデレしながら毛艶のよい長毛猫を抱いた信一の姿をとても怪訝な表情で見た。
「…オイ、診療所に動物をいれるな」
「まぁまぁ~まずは話を聞けよ」
招いてもいないのに診療所に入ってきて患者用の椅子に座る信一に舌打ちをひとつ。品のある長毛猫は信一のそばを離れず大人しい。大きなグリーンの目はなんだかどこまでも見通しているような達観した印象を覚える。
「朝起きたらな、龍兄貴が居なくてベッドにこの子が居たんだ。龍兄貴が猫になったんだと思うんだよ。人間が猫になる病気ってある?」
信一の正面の椅子に四仔が腰掛けると、膝に乗ったままの猫がまっすぐ見上げてきて鈴が転がるような声でひとつ鳴いた。
「そんな病気は聞いたことがないし…お前の頭がおかしいのは前からだろ。ついにいくとこまでいったか?」
溜め息をつき、洗った包帯を巻き直しながら信一を見ると、信一は妙に真剣な表情でこちらを見ていた。
「うまく説明できないんだけどさ、この子が龍兄貴だって分かるんだよ。…俺は、頭がおかしいか?」
ニャアンとまた鳴いた猫が四仔の膝に前足をついた。その小さな肉球のずっしりとした説得力、余裕たっぷりの微笑み、何より全身から放たれている圧倒的貫禄とオーラ。美しい猫だ。確かに龍兄貴が猫になったらこんな感じだろうかと思ってしまう。猫と見つめ合う数秒の間に、四仔は信一をおかしいと一蹴できなくなってしまっていた。
「…龍兄貴が居なくなったのはいつなんだ、最後に姿をみたのは?住民に聞いてみたか?」
まずは人間としての龍兄貴がいない事実を確認しろと四仔が言うと信一はニコー!と笑って、抱き上げた猫を優しい手付きで四仔に渡すと診療所を出ていく。
「お前っ猫置いてくな!」
「あとで迎えに来っから!うちの兄貴を頼むぜセンセ~」
あっという間に静かになった診療所で、四仔の腕の中の猫兄貴が大きなあくびをした。
「四仔、居るか?」
診療所の入り口か洛軍が顔を出した。居るぞ、と四仔が返事をすると、ぐったりとして俯いたままの男を肩に担いだ洛軍が入ってくる。
「この人を診てほしいんだ」
「ああ。どうした」
「その…殴ったのは俺なんだ。店で食い逃げをするから追いかけて捕まえたら殴りかかってきてつい手が出てしまった」
男をベッドに寝かせながら洛軍が言う。四仔は腕の中で胸筋を匠の手付きでふみふみしている猫兄貴に降りてくれと頼んだ。聞こえているだろうに、未だふみふみは続けられている。
「きれいな猫だな」
四仔の腕の中にいる猫に気付いた洛軍が目を輝かせた。なかなか野良猫では見ない長毛の大型猫だ、特段猫が嫌いというわけでないなら気分が上がるのも無理はない。
「あぁ…信一から預かってるんだ。にゃんこ、診察をするから降りろ」
なんと説明すればよいか分からなかった四仔はひとまず喋らないことを選んだ。
猫兄貴をにゃんこと呼ぶのは、彼なりの消去法の末の選択である。もし本当に―いやこんな事は有り得ないと分かっているのだが―この猫が龍兄貴だったとして、すっかり猫扱いというのもなんだか尊厳を傷つけるような気がするし、かといってなんとなく龍兄貴っぽいだけの猫を『龍兄貴』と呼んでいては周りから自分が心配されてしまう。なので本人には伝わらないであろう日本語でくだけた猫の呼び方であるにゃんこ、が採用されたわけだ。
「信一が?…わぁ、人懐っこいな」
四仔の腕から渋々降りた猫兄貴は洛軍の足元に歩いていき額を擦り付ける。
「撫でてもいいか?」
「そいつが許すならいくらでも」
洛軍はしゃがんで目線を合わせると律儀に撫でてもいいだろうか?と猫兄貴にお伺いをたてた。猫兄貴は返事をするかわりに目を合わせてゆっくりと瞬きをする。洛軍は笑ってその滑らかな毛並みに手を伸ばし優しく撫でた。顎下を擽るようにすると途端にぐるる、と猫兄貴の喉が鳴る。
四仔は横たわった男の頬を軽く叩いたあと脈拍や呼吸、眼球の動きを確認して顔についた外傷を確認する。頬から顎に内出血と、小さな擦過傷。それから口の中を切ったらしい口腔内の出血、止まりかけの鼻血。四仔の脳内に洛軍が見事なアッパーカットを叩き込む姿が浮かぶ。
「こいつは軽く脳が揺れただけだ、起きてから数日吐き気や頭痛が出ないか様子を見たらあとは気にしなくていい」
念のため男の体を横向きにして口許にタオルを敷く。なら良かった、と洛軍は言ったが猫を撫でるのに夢中で四仔の診察はあまり聞いていないようだった。
「こんなに触り心地のいい猫ははじめてだ、すごくかわいいな」
カルテと言う名の請求書を書き留める四仔に嬉しそうに洛軍が言う。屈託なく笑うその顔が微笑ましくて、四仔は診察を聞き流されたことなど忘れてそうか、とだけ返した。
しゃがみこんでいた洛軍の背中に軽い足取りで乗る猫兄貴。洛軍は驚いた声をあげたがまたすぐに、こいつすごく重い!と笑った。
「この猫、なんて名前なんだ?さっきニャンゴって言ってたか」
「名前…は分からない。にゃんこって言うのは日本語で猫のことだ」
「そうなのか?ネコ兄貴みたいな意味なのかと思った、なんだかこの猫、龍兄貴に似てるから」
さすがの鋭さに固まってしまう四仔。洛軍の背に乗った猫兄貴は大正解だ!とでも言うようにニャァウー!と大きな声で鳴いた。ご機嫌に喉を鳴らしている。こいつめ~捕まえた!と洛軍が背中の猫兄貴を腕の中に収める。また顎下をくすぐられて気持ち良さそうに目を細める猫兄貴。
「……やっぱり、そう思うか?」
なんだか真剣な面持ちで四仔が言うので洛軍は撫でる手を止めた。実は…と四仔が語るのを洛軍は黙って聞いていた。
「兄貴~迎えにきたぜ…ってダハハハッ!」
夕方診療所に入ってきた信一が爆笑したのは、振り向いた四仔のその姿だった。いつものマスクにタンクトップ、そして抱っこ紐にくくられたロンパースを着せられている猫兄貴。長毛だからこそロンパースから出ている手足のもっふりしたシルエットとロンパースのなかにほっそりまとまった胴体の対比が大変ファニーである。
「あにき~なに着せられてんの」
四仔の腹側にくくりつけられたしょぼくれた顔の猫兄貴に前足をにぎにぎしながら信一が話しかける。
「ニャウニャム…ナンナンナァ(信一たすけてくれ…しっぽが腐り落ちそうだ)」
「え?!しっぽが腐り落ちそうだって言ってんだけど?!」
驚いて四仔を見上げる信一。なんで言葉が通じてるんだと溜め息をつきながら抱っこ紐をほどき猫兄貴を信一に手渡す。
「抜け毛があんまり診療所に舞うんで着せたんだ。人間の赤ん坊用だから尻尾が窮屈だったんだろう。あとで尻尾用の穴を空けてやれ」
「あにき~人間の勝手な都合でダセェ服着せられて大変だったなぁ」
四仔の言葉を聞いているのかいないのか猫兄貴を抱き締めて頬擦りする信一。四仔は額に青筋を立てながら殴ってやりたい衝動を必死に押さえ込んだ。
「ッ~~…!大変だったのはこっちの方だ、猫のくせに副流煙を浴びようとあっちこっち行くし、登るなというところに登って瓶を割るし、洗って巻いたばかりの包帯で遊んで汚して俺の背中で爪とぎをするし…!」
ものすごい剣幕でそう捲し立て、まぁ爪は俺が切ってやったけどな…!と言う四仔に、信一が猫兄貴の爪をにゅ、と出して確認するとすべての爪がギリギリまで短く切られていて、四仔の背中はところどころタンクトップがほつれて小さく血が滲んでいた。
あぁ~やっちゃったね兄貴…と小さい声で言いながら猫兄貴のロンパースを脱がしてやる信一。
「ァウー…ンナ…(すまない…つい…)」
「ついやっちゃったんだって、兄貴も超反省して謝ってる。みろよこの顔」
信一の腕の中で自分の尻尾をぎゅうっと抱き締めしょぼくれた表情でちいさく丸くなっている猫兄貴。その姿を見てうっかり鬱積した怒りが昇華されそうになるくらいには四仔は動物が好きではあったが、絆されてはいけない。
「この猫、龍兄貴だ。どういう理屈か知らないが、1日過ごして確信した。だからこそ俺は腹が立っている、人の言葉を理解した上で自分の好きなようにやってるだろう。タチが悪い」
ぎく、と猫兄貴の体が跳ねる。悪事がばれた子供のように成す術がない。対照的に信一はにっこりと笑顔を浮かべた。分かってくれると思ってた!と言わんばかりの笑顔だった。
「さっすがセンセ~だ」
思っていたのと違う反応に四仔は戸惑いつつ、言いたいことは言ったので一つ大きな溜め息をついた。
「…聞き込み行ったんだろう?どうだった」
「色んな奴に聞いて回ったけど人間の姿の龍兄貴は間違いなく昨日の夜家で消えてる、それで今日は誰も見かけてないって」
ということは…?と2人の視線が猫兄貴に向く。聞き込みの結果は回答の補強でしかなく、2人の中にはすでに確信があったので、やっぱりか、という感想でしかなかった。
「出来れば早めに…人間に戻ってほしいんだけどさ、センセーそういう治療は専門外?」
「専門外もなにも、医療で治る話じゃないだろう。『それ』は病気でも怪我でもない」
「だめかぁ~マジでどうすっかなぁ…」
信一が困ったように頭を掻く。そんな様子を心配そうに猫兄貴が見上げた。
「ンニャッ、ナンァー(信一、心配かけてすまんな)」
「大丈夫だよ兄貴、なんとかするから」
猫兄貴の額を撫でながら信一が言う。
「……なぁ、もしかして本当に猫の言葉が分かるのか?」
四仔がそう聞くと、信一はきょとんとした顔をした。
「猫の言葉っていうか全部龍兄貴の声で聞こえてっからさ…四仔もそうじゃねーの?」
「いや全然猫の鳴き声にしか聞こえないが」
「はぁ~?それでよく龍兄貴が猫になったなんて信じてくれたな」
クツクツと笑う信一。なにが面白いんだという顔で四仔はそれを見ている。
「ちなみ洛軍にもバレてるぞ。あいつは鋭いところがあるからな、すぐ気付いた」
まじかよ~!と言いながら笑い転げる信一。マジだ、と言った四仔の声に被せて猫兄貴もニャムニャと鳴いたので、信一は更に笑い転げている。
「は~~笑った…お前ら知らねえ大人にはついていくなよ、あと訳分からん壺とか売り付けられても買うんじゃねぇぞ?な?」
「どういう意味だクソ黒社会、今日の診察代つけとくからな」
猫兄貴を縦抱きにして信一が立ち上がる。ポケットに脱いだロンパースを押し込んで四仔に背を向け歩き出した。
「今日はありがとな~センセー。また明日な」
「礼はいいからもう来るな」
「んなツレねーこと言うなって」
信一の肩に前足を揃え顔を覗かせた猫兄貴が四仔をバツが悪そうなしょぼくれた顔で見ている。診療所をもうすぐ出るところで四仔は信一を呼び止めた。
「俺は人間専門だ、動物病院には一度連れていけよ。この環境だし虫下しと…ワクチンも打ってもらった方がいい」
立ち止まらずにへいへ~いと軽い返事をした信一と裏腹に、猫兄貴は雷に撃たれたような、怯えきったような、そんな表情をしていた。なにを隠そう猫兄貴、もとい龍兄貴は医療行為、特に注射が大の苦手である。動物病院への受診を勧めたのは猫兄貴のためでもあるが、龍兄貴の主治医である四仔からのささやかな復讐でもあった。
つづく?
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