くさかべ
2025-05-28 01:58:23
5608文字
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仔犬のもたらす効用について

ヌヴィリオ/まずはお試しで仔犬と暮らしてみる話。ハーモニックワルツ後前提。

 将来の夢はなんですか?
 少年時代ついぞ投げかけられたことのない、こどもに向けられるよくある質問をリオセスリはふと思い出していた。
 長期的な計画を立てることが苦手なわけではない。先ほどまとめたばかりの資料は十年先を見据えたマシナリー工場の修繕および拡張に関する計画書であったし、メロピデ要塞の前管理者の追放だって何年も時間をかけて実行したものだ。
 ただそれらすべては『やるべきこと』であって『やりたいこと』ではない。これまでリオセスリを突き動かしてきたのはいつだって不条理な現状への怒りを伴う反抗心だった。里親の欺瞞は打ち砕かれるべきだ。囚人が改悛するどころか生きてもいけない環境は改善されるべきだ。管理者になったのだってそのときはこれが最も効率的に目的を達成できる可能性の高い手段と判断したからで、自分以上の適任者が現れたときには速やかに地位を譲る心づもりはしている。
 だからそう、本当に、自分のためだけに、やるべきことでもない、やりたいこと、というのを考えるのは初めてで、それが我ながらこんなにもおぼつかないとは思ってもみなかったのだ。
 よく回る口以上によく回転する思考が空回りしていることに気が付き、リオセスリははあ、とため息をついた。手にしていた資料を机に放り出し、冷えた紅茶に手を伸ばす。
……どうしたもんかな」
 散らばった資料はいずれもフォンテーヌ廷内の物件情報。不動産の購入をリオセスリは検討していた。


――それで、そろそろどこに住むか決めたのかね?」
 最高審判官とメロピデ要塞管理者の定例の会合は本日も定刻通りに始まり、数十分の余裕をもって終了した。
 残りは優雅なティータイムだ。議論が予想外に白熱したときのため、あるいはパレ・メルモニアのワーカホリック中のワーカホリックをそれとなく休憩させるため、リオセスリはいつもある程度の余裕を見て会議の所要時間を打診している。
 なぜか本人よりも家の購入について乗り気らしいヌヴィレットは、ソファに腰かけ直すなりまっすぐにリオセスリを見てそう聞いてきた。華やかな花の香りが立ちのぼるフレーバーティーに口をつけ、リオセスリはくちびるをゆるめつつ苦笑する。
「それなんだがな、不動産を買うのはしばらくやめておこうかと思って」
 ヌヴィレットは意外だと言わんばかりに目を丸くしてぱちりぱちりと瞬いた。
「希望を満たす物件は見つからなかっただろうか」
「ヌヴィレットさんが紹介してくれた物件はどこも良いところだったよ。犬でも猫でも問題なく一緒に暮らせそうだ」
 ならばなぜ、と無言で先を促す薄藤の瞳から逃げるように視線をそらしつつ、リオセスリは慎重に口をひらく。普段であれば迷いなく均一な糸を紡げるのに、特に最近はどうしてかヌヴィレットと個人的なことを話しているとことばが撚れた不格好な糸になってしまう気がするのだ。
「仕事の進め方についても考えてみたんだが、毎日きちんとフォンテーヌ廷まで帰る生活はやっぱり難しい。そうなるとペットも夜ひとりきりにしてしまうだろう? 寂しがらせるのが分かっているなら動物は飼うべきじゃないし、そうすると他に家を買う理由もなくてな」
 ヌヴィレットは口を開かない。まだ話すことが残っているだろう、という顔をしている。
 人にあらざる縦長の神秘的な瞳孔にすべてを見透かされている気がしてリオセスリはふうと息をつき、睫毛を伏せた。
……それに。そこで暮らしている自分というのがどうにも想像できなくて」
 人生の半分以上を空も見えなければ風も吹かないメロピデ要塞で過ごしてきた。十年後だろうと二十年後だろうと、薄暗く湿気の淀む空間でパイプを叩いて点検している自分は容易く想像できる。けれど、陽の差す庭で、あるいは窓の向こうでしとしとやさしく雨の降る家の一室で犬や猫と過ごす己の姿は水面の向こう側のように遠く隔たった夢物語のように判然とせず、想像してもどうにもへたくそな絵画を見ているような気分になってしまうのだった。
 リオセスリ自身少々気持ちを持て余しているという回答を聞いたヌヴィレットは、なるほど、と頷きながら愛用のゴブレットの中の水を揺らした。
「問題は二点。動物を単独で過ごさせる時間が長くなること、そしてフォンテーヌ廷での日常生活が想像しにくいということで良いだろうか」
 ならばひとつ案を出そう、とヌヴィレットはまるで判決をくだすときのような強い声とまなざしでリオセスリを見据えて微笑んだ。

 そんな話をしたのももう四ヶ月近く前か。
 きゃうん! とかわいらしい仔犬の吠える声に、リオセスリは物思いから顔を上げた。こっちだよ、とやさしく声をかけると茶白の小さな弾丸がはっはっと息を荒げて全力で駆け寄り、リオセスリのすねに頭を激突させた。彼女としては頭を擦り付けているつもりなのだろう。何か楽しいことでもあったのか、ずいぶんと興奮して元気よく跳ね回る仔犬を両手で撫で回してどうどうと落ち着かせてやりながら、リオセスリは空を見上げた。
 庭仕事を始めた頃は青く晴れ渡っていたはずの空に雲が立ちこめ始めている。灰色の空がしずくを落とし始める前に仔犬は家の中に戻してやった方が良さそうだ。縄でひとまとめにした小枝を木陰に押しやると樹木の剪定鋏を肩にかけ、足もとに仔犬をまとわりつかせながらサンルームへの道をたどる。
 表通りからは隠されている庭の木々や草花は、初めて見たときには好き放題に生え栄えていて、庭というよりちょっとした林か森かというありさまだった。それをどうにか開拓し――林業用のマシナリーを持ち出しての大仕事だったのであれは開拓と呼んでいいとリオセスリは思っている――今ではどうにか庭園と呼んでも良いほどに整っている。
 サンルームの椅子に腰かけ、自分の仕事に満足しながら小雨の降り始めた庭を眺めていると、茶葉の香りがふわりと鼻先をくすぐる。それに誘われるように振り返れば庭の主――ヌヴィレットがティーセットを抱えて立っていた。

 ヌヴィレットの提案は、端的にいえば「お試し」を薦めるものだった。
「君の保有資産からすれば特に問題ではないだろうが、不動産の購入は通常高額な買い物だ。動物を飼うというのもその生命に対する責任が生じる。躊躇を覚えるのももっともなことだ」
 めずらしく決断力が鈍っているリオセスリを庇うようにそう切り出した彼の、すらりとした指が組み直される優美なしぐさをよく覚えている。
 人間は未知のものに対して不安を覚える。ならば既知とすればよい、というのが彼の論理だった。いささか強引だが確かに解決策のひとつではある。
 ヌヴィレットがセドナから世間話がてらに聞き及んだところによると、パレ・メルモニアの職員が飼っている犬が最近こどもを産んだらしい。引取先は決まったが、相手はあいにくモンドへの長期出張の予定があり、帰宅は早くて数ヶ月後。職員側も諸事情があり仔犬をそれまで手元に置いておくわけにもいかず、短期の預かり手を探しているのだそうだ。
「なるほど? その子を預かってみたらどうかってわけか。でもどこで?」
「我が家の部屋には空きがある。仔犬が走り回るのにちょうど良い広さの庭も」
 リオセスリは唖然とした顔でヌヴィレットを見返した。……最高審判官様の邸宅に? 仔犬と一緒に居候?
 その視線をどう受け取ったのか、彼は小さく首を傾げてはにかむようにほほえむと、君と仔犬が一緒に暮らしてもなお余裕があることは保証しよう、と更に言い募る。
「通いだが家事を任せているメリュジーヌが何人かいる。私も夜には戻る。君が数日帰れなくとも仔犬がひとりきりになることはないだろう」
「まあ確かに、今の話なら問題はどっちもクリアされるが……
 だがしかし、たとえ一時とは言えヌヴィレットと一つ屋根の下で暮らすという提案は想定外の展開すぎた。先ほどまで悩んでいた、動物と水の上の家で暮らすという方がふつうに思えてくる。
 なるほど突拍子もない話をしてもともとの案に現実味を持たそうというわけか、とリオセスリは納得しかけたが、ヌヴィレットは「他に何か懸念が?」と沈黙する彼をまじめに心配しているようだった。
「ああ、食事についてはスープ類が多くなるかもしれないが君の好みも考慮に入れよう」
「いや、俺は別に食えりゃなんでもいいけど……
 ならば良いが、と相槌を打ちつつ、ヌヴィレットは執務机の引き出しから賃貸契約の標準書式を取り出す。
「私もこういったことは初めてゆえ、問題点を洗い出しきれていない可能性がある。契約書をもとに確認しよう」
……おいおい、マジかよ」
 かわいらしい竜から移った口癖がついこぼれる。聞こえていないわけはないだろうに、ヌヴィレットはそれを聞き流してまず契約期間と金額についてだが……と書類の項目を読み上げ始めてしまった。
 そうして、調子の狂いっぱなしだったリオセスリがいつからパレ・メルモニアは不動産屋になったのかという皮肉を思いつく頃には契約書の草稿ができあがり、彼がそれにサインすると疑っていないまっすぐな水龍の目に押し流されるように、リオセスリはペンを手に取って署名をした。……してしまった。

「しかしなんで庭があんなことになってたんだい? 確かに広さは十分あったが……あれじゃ仔犬どころか成犬だって走れないだろ」
 先ほどまでびゅんびゅんと走り回っていた茶白の仔犬はリオセスリの膝の上によじのぼるとエネルギーの切れたマシナリーのように突然ぱたりとひっくり返って昼寝を始めている。からだを伸ばしきった仔犬の、丸出しになっているふわふわとした腹の毛を手のひらでかき回しながらリオセスリは何度か思い浮かんでいた疑問を家主にぶつけた。
 隣に腰かけてともに庭を眺めていたヌヴィレットは、ティーカップから口を離すと「気の合う庭師が見つからなかったのだ」とうそぶいた。
「数百年も?」
「ああ。ようやく見つかってほっとしている」
 庭師扱いされたリオセスリは、ヌヴィレットがさらりと差し出したジョークにそりゃ光栄だとくつくつ喉を鳴らして笑った。
 これまでの団欒から得た情報を総合すると、最高審判官に就任してから彼はずっとこの家を住みかとしているらしい。とはいえヌヴィレットが自主的に邸宅を持とうとしたわけではなく、フォンテーヌに呼ばれてからもこれまでの習慣が抜けずに毎晩海に潜って休息を取っていた彼を見かねたフリーナから押しつけられたものだという。
「もしやあのでっかい池は昔のあんたのベッドだったのか?」
「そうだと言ったら?」
「次にそこで寝るときは事前に言ってくれ。苔と水草のコートを着た最高審判官様をこの家から送り出すのは同居人としてさすがに看過できない」
 そうか……とヌヴィレットがなぜかやたらと残念そうな声をこぼして肩を落とすので、ははっと軽やかに笑ったリオセスリはその背を軽く叩いて励ました。
「別に寝るなとは言ってないさ。その前に掃除が必要だってだけで」
「水草が繁栄するほど池の存在を失念していたことに我ながら驚いている」
「それだけあんたも水の上に馴染んだってことだろう。これまで忙しすぎたってのもあるかもしれないが」
 メロピデ要塞とこの私邸を行き来するリオセスリよりもヌヴィレットの帰りが遅いことが控えめに言ってもしばしばあるという事実に、リオセスリが眉を上げたのは同居を始めて二ヶ月目のことだった。「俺が帰れない日にあんたもこんな時間に帰ってたらまだ仔犬のフォルトゥーナがかわいそうだろう?」という忠言を受けたヌヴィレットによる業務の見直し、および最高審判官の残業時間の上限設定により彼の平均帰宅時間は一時間以上早くなった。組織の長のそういった行動は執律庭全体に波及し、仕事を切りあげて帰るようになった職員が増えた。十分な休息をとるようになった彼らの顔色は良くなり、結果的に作業効率や品質も上昇傾向だというのだから仔犬一匹がもたらした効果は大きい。
 リオセスリは満足げな顔をして、自分のふとももをベッドにぷうぷう鼻息をもらして平和な眠りを貪っているお姫様の頭を撫でた。
 そのようすを真顔でじっと見つめていたヌヴィレットが、彼にしてはめずらしくためらいがちに口を開いた。
……その子の本来の飼い主についてだが」
「帰国の日程が決まったかい?」
 わかっているとばかり穏やかに微笑むリオセスリに、ああ、とヌヴィレットは頷いた。
「そりゃ良かった。うちに慣れきったあとに環境を変えるのもかわいそうだからな、本来のご主人様のところに早く帰れるならそれにこしたことはないさ」
 なあフォルトゥーナ、とリオセスリは仔犬の名前をよび、手のひらでやさしくその背を包んで揺らす。口元近くにあったリオセスリの親指を甘く噛み、眠ったまま吸い付いてくる仔犬にははっと笑い声を上げる彼にヌヴィレットはやわらかに目を眇めた。
「そして彼女が本来の飼い主のもとに戻るとなると、我々の契約にも変更が生じるのだが」
「ああ、お試しって話だったもんな」
「物件リストを更新しておいた。必要であれば渡そう」
 執務中を思わせるいささか硬い声でそう述べるヌヴィレットに、リオセスリはふうん? と小首を傾げる。わずかに空いていた隣との隙間をさっと詰めてからだをくっつけると、リオセスリは後頭部をヌヴィレットの肩に預けるようにしてその耳元に顔を寄せた。
「そりゃ、必要じゃない、って言ってもいいわけかい?」
 吐息混じりのからかうようなささやき声に、ヌヴィレットは軽いため息をついて目を伏せた。
……賃貸契約の更新書類も用意している。好きな方を選ぶと良い」