ロンド
2771文字
Public くにぐに
 

猫とエルク

ユールキャット末裔アイスと霜のエルクのノルの話。
特に言及されていないけれどどっちも神話の巨人の伝承が混ざっていたりしませんか…。

 初雪が降った夜のこと。
 しんしんと降り続ける雪を鼻先で受け止めながら、猫はくしゅんと咳をした。その拍子に、暴風が黒い荒野に吹き抜けていく。はるか彼方の人間たちは飛び上がって驚いたに違いなかった。
 猫、もとい大きな山は、のっそりと丸まっていた身体を解き、尻を浮かせて伸びをする。頭や背中に積もっていた雪がぼとっ、と地面に雪崩れた。やわらかい冬毛のしっぽを振ると、まるで竜巻のような風が巻き起こった。猫は憂鬱そうにあくびをする。これでも、住まいの島にいる小さくてかよわい生き物たちをうっかり踏み潰さないように振る舞っているのだ。
 猫はまばたきをした。きゅるる、と腹の虫が鳴る。それは地響きのごとく荒野に響き渡った。
「おなか、すいた……
 ずいぶん久方ぶりの目覚めだったのだ。猫は周囲を見回して、鼠の一匹もいない代わり映えのしない風景を見つめて、ふかぶかため息をついた。ひとまず水を飲もうと、首を伸ばして湖に頭を突っ込む。
 急に水位が上がってまた下がったせいで、辺りは水びたしになった。気の毒な淡水魚がびちびちと地面に跳ねている。猫は舌で魚を掬い上げると、十匹そこらを丸吞みした。腹は満たされた気がしなかった。
「にんげ……ううん、羊がいいな。やわっかくて、ざらざらして、脂ものってて、中から噛んできたりしないもの」
 むかしむかしの猫の祖先は島にたくさんいる人間を食べていたのだが、人間はそのうち知恵をつけて内側から食い破ってくるのだ、と賢い猫は知っていた。そんなわけで、猫はたいてい、島の端っこに巣をつくる鳥を狩っている。でも鳥は、春から夏の季節にしかいない。肉でいちばん狩りやすいのは人間で、それも冬に新品の服ももらえないような要らない子なら、たいした問題にはならなかったのだが、このところは先祖の教えにしたがって控えている。次に狩りやすい草原の羊は、いつだっておいしい。
 猫はふたたび、ふぁ、とあくびをした。ちょっと散歩すれば、はぐれた羊の十や二十は見つかるだろう。そうと決まれば猫は二本脚で立ち上がって、獲物を探しに行った。
 ややあって。雪がやんだ白っぽい草原の只中に猫は立ち尽くしていた。
 実は羊は、雪が降るころには土の家の中に隠されてしまうのだが、起きたばかりの猫はすっかり忘れていた。ようやく思い当たったころには腹が空きすぎて一歩も歩けなくなってしまった。
 あと数歩だけ歩けば海の魚が獲れる島の端っこにたどり着くが、猫は猫らしく、海で泳ぐのはきらいだから、なるべく入りたくない。それに冬毛の身体も冷え切って、冷たい冬の海を触るのもいやになってしまった。
 猫はふてくされてため息をついた。びゅう、と吐息で森の木が何本か倒れてしまう。春までまた眠ってしまおうか、と猫は山にもたれ、身体を縮めて横たえる。傍目には、急に大きな山が移動してきたように見えたことだろう。
「おい」
 空腹で眠るのは最悪だ。風が呼び起こす幻聴すら聴こえる。
「おめえ」
 猫は片目を開けた。しっぽがぴんと立つ。冬枯れの枝ばかりの森の中からざくざくと霜を割り踏みしめる気配が近づいてくる。
……僕を起こすのは、だれ?」
 鼻先に冷気が近づいて、猫は無視できずにくしゃみをした。あ、吹き飛んだ。そう思ったのに、それは根が生えたように不動で、すでに猫の目の前にいた。
「霜のエルクだ。おめの、お兄ちゃん」
 エルクが小さな手で猫の赤い頬を撫でた。雪の結晶を固めたようにほんのりと冷気をまとっている。エルクの頭にもうっすらと雪が積もっていた。
 猫はいよいよ困惑して、眠る体勢をやめて起き上がってみた。大きな山のような猫に比べると兄を名乗るエルクは手のひらに乗ってしまうくらいには、小さい。けれども、儚い外見と裏腹に、ずっしりと重い岩のような存在感を放っている。こんなものは、島では見たことがなかった。
……あに?」
「ん。おめは血を分けた兄弟だべ。会いに来た」
「会いに、って、どこから」
「海さ渡っだ、フィヨルドの森」
「海のむこう?」
「ん」
 エルクは力強くうなずく。猫はエルクを見下ろして、ちろりと唇を舐めた。猛烈に空腹が襲ってきていた。エルクといえば、すばしっこくてなかなか捕まえるのに苦労する、めったにないごちそうだ。それに、このエルクは見た目よりずっと質量がありそうで、満腹になれそうだ。
 よだれがぽたりと垂れて、草原を潤す池になった。
「おいしそう……
「ん?」
 猫はあわてて牙を口の中にしまったが、思わずこぼれたひとり言は耳ざといエルクの耳に入ってしまっていた。逃げられるかと思って猫がふさふさの手をかぶせようとすると、ひょいと身軽な動きで、エルクは猫の上に飛び乗った。獲物が自分から手の中に転がり込んできて、驚いて猫は硬直した。
 地面にかぶせた手の上によじ登ってきたエルクは、猫の口元に触れる。
「腹が減っだんけ?」
……えと、あの……
「ぜんぶば再生できねぐなっちまうから駄目だけんど、したっけ、俺の腕でええなら、やる」
 そう云うなり、エルクは自分の腕を引きちぎろうとする。ぎちぎちと肉が破れそうな力で爪を立てるエルクに、あわてて猫は両腕を摘まみ上げた。宙ぶらりんに浮いたエルクは、まったく怖がらずに、不思議そうに首をかたむける。
「なした?」
「な、なにしてんの! 僕、食べさせてなんて頼んでない!」
「めえそうばって、云っだ」
「いくらなんでも、兄を食べたりはしないってば!」
 猫の咆哮で、そばの森はついに一面なぎ倒されてしまった。突風にもぴくりとも動揺もせず、エルクはむしろ、動きにとぼしい表情にかろうじてわかる微笑みを乗せた。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんって、認めでくれんのけ」
 エルクが心底幸福そうに云うので、猫はしぶしぶうなずいて、なるべく衝撃のないようにそっと地面に降ろしてやった。突然現れた兄を名乗るエルクには、猫はまだ不審を持っていたが、他人とゆっくり話すのは、これまたずいぶん久しぶりだったのだ。
「したら、兄ちゃんが魚ば獲ってきてやる。おめえはええ子で待っでろ」
 エルクは勝手に話を進めるので、猫はちっとも兄を名乗るエルクのことを理解できた気がしなかったが、ごろごろと喉を鳴らして丸くなる。いまや空腹よりも離れがたさが勝っていた。猫が冬毛のしっぽでエルクを包むと、エルクはおとなしくなった。微笑を浮かべたまま、猫の鋭い爪に手を乗せ、ほんとうの兄弟のようにやさしく撫でさする。
「めんこめんこ」
「こ、子供あつかいしないで」
「ん……あんまりめんこい弟だはんで……
 空からひとひらの雪が降りてきた。猫とエルクは、ふたりでひたりと寄り添っていた。