ロンド
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Public くにぐに
 

4月の春パスタ(リト+ポー)

現パロでまるかいて親友。アパートのお隣さんな二人が知り合うまで。

   4月の春パスタ

 トーリス・ロリナイティスは平々凡々な会社員である。
 新卒で入った会社は、給料は良いがうっすらとブラックだった。というより、トーリスが配属された部署がピンポイントに、盛りだくさんな業務と心象的に圧迫感のある上司と微妙に仲がよろしくない同僚の三つ巴だった。重ねていうが、給料はいいのだ。有給休暇も取るように催促されているし、残業代もきっちり一分単位で出ていた。不満があるとすれば、業務があれもこれもと詰め込まれすぎて残業時間が伸びに伸び、休日出勤も続いたことくらいか。まがうことなき社畜の完成である。
 悲しきかな、トーリスは人一倍努力家だった。そのうえ人一倍体力もあった。高校まではバスケットボールチームに入っていたし、大学時代は登山とスキーにハマっていた。おかげさまで、尋常じゃない出勤数にもめげず倒れず「俺、まだやれます」と毎日アパートと会社の往復でへろへろになりながらも仕事をこなしていた。
 しかし同僚はそうは思ってはいなかったらしく、トーリスが入社して一年ほどして、急に役所の監査が入った。労働基準違反の通報があったらしい。またたく間に勤務内容が是正され、きれいなホワイトに生まれ変わった。
 ――となればいいが、すぐさま慣習が変えられるわけではないので、ひとまず部署の社員全員に箝口令と長期休暇が云い渡された。要はこれ以上マズイことをもらすなというお達しである。その間に、部署異動やら編成やら、各処遇が決まるのだという。これまた社畜に馴らされていた上司は、通達を見るなり開口一番に「ひまわり畑を見に行きたいなあ」と眠そうな顔でふかぶかつぶやいていた。ひまわりの季節はまだ断然先だ。普段は怖いくらいの笑顔でこちらに無理なレベルの仕事を振ってくる上司だが、このときばかりはトーリスは同情した。なんだかんだ上司も会社の歯車に過ぎなかった。
 そんなわけで、二週間の休暇である。
 なんだか夢みたいな心地でアパートに帰りつき、とるものとりあえずベッドに倒れ込んでサナギのように眠った。目が覚めたら夕方で、買い置きのゼリー飲料とチョコレート味のシリアルバーをかじり、もう一回寝た。
 もう一度起き出してきたのはブランチにさしかかる時間で、ああ貴重な連休を無駄にしてしまった……と思ったところで、そういえば長期休暇であったことも思い至った。自堕落なことには変わりないが、まだたっぷり時間が残っている。
 寝過ぎによる頭痛とのどの痛みでトーリスは這うようにキッチンにたどり着き、流し台から手ですくって水を飲む。コップはほこりをかぶってしまって久しい。
「なんか……やらなきゃ……
 洗濯が溜まっていたはずだ。掃除もしたい。引っ越してきたときからダンボールに入れっぱなしのものを片付けたい。なにより、買い出しだ。
 猛烈な空腹を感じて、うすうす期待が裏切られる予感を感じながらも、トーリスは冷蔵庫を開けて見た。
 ……うん、買い物に行こう。
 なぜか冷蔵庫に入っているカップ麵(レバニラ炒め味とチリトマト味)。いつから入っているのか不明の麦茶。カロリーメイト。ゼリー飲料。ビール缶六本。しなびたちくわ。レトルトカレー。四種類ものマヨネーズ。
 空っぽでないぶん、よけいに気が落ちるようなラインナップ。
 冷凍庫も似たり寄ったりの冷凍食品だった。あたりまえに賞味期限も切れている。腐っているものは薄目で見ないようにしながらゴミ箱に捨てた。この近辺は見咎められないのをいいことに夜中にゴミ袋を出していて、まだマシだ。
 せめてもうすこしすきっ腹にやさしいものが食べたい。
 いまある食材でどうにかならないかと、戸棚もあさってみたが、早々にあきらめた。
 もとよりトーリスは平凡に真面目で自身を律することにも長けている。シャワーを浴びて、服を着替え、無精ひげを剃り、エコバッグを出して財布を突っ込んだ。
 歩いて八分のスーパーに行こうと思って、玄関を出て鍵をかけるつもりで取り出したとき――隣の101号室の玄関扉も勢いをつけて開いた。勢いがつきすぎて跳ね返る。
 ひらりと飛び出してくる金のチョウ。もとい、隣人。
「ちょ、ちょ、助けろし!」
 顔を認識するなり、隣人が飛びついてきた。トーリスの胸板に激突し、反動で跳ね返りながらもしっかりと袖を捕らえていた。ぐいぐいと引っ張ってくる力に思わず引きずられそうになる。
「な、なに⁉ なんなの!」
「こっち来るし! 見ればわかるから!」
「だーかーらー、なんなのか説明してくださいよ」
 理由はすぐに知れた。
 トーリスの部屋とちょうど対称の造りだった。玄関からすぐは廊下、つきあたりはリビング兼キッチンの扉、手前に収納スペースとトイレがある。その廊下の中央で、うごうごする黒いほこりのような節足動物……
 なんてことはない、ちいさなクモだ。居住空間に見つけたらそりゃあ驚くかもしれないが、ほとんど話したこともないような隣人に助けを求めるようなものじゃあない。トーリスは彼を見やる。
「俺、虫ダメなんよ~!」
 トーリスの背中にはりついて本気でブルブル震えている隣人。残念なことに、トーリスは自分が空腹でも軽々と見捨てるほど人が悪くできていなかった。
 自分の家に取って返し、ティッシュを一枚広げて戻ってくると、隣人はまだ不安そうに同じ場所に突っ立っていた。おじゃまします、と一声かけて靴を脱いでクモを拾い上げ、引き返して外にぽいっ。アパートの隣は老夫婦が手入れをする趣味の畑で、雑草が伸びっぱなしの草むらの中に姿は見えなくなった。
「あれ戻ってきたりせん? 大丈夫?」
「大丈夫だと思いますけど」
「よかった~! 命の恩人だし!」
 そんな大げさな、とトーリスは呆れたものの、隣人が拝むように何度も手を合わせるので、まあいいかと気分をよくした。
 隣人――たしか、ウカシェヴィチという名前だったことをトーリスはようやく思い出した。トーリスとさほど変わらない歳の青年だった。女の子みたいなキラキラビーズの髪ゴムでツインテールにしていることには見なかったふりをした。
 平日の昼間から在宅なのは、大学生か在宅仕事か。トーリスも人のことはとやかく云えなかったが、引っ越してきて一年、出勤と帰宅の境界線があやふやな生活をしていたせいで、隣人がどんな人物かよく知らなかった。
「じゃあ、俺はこれで」
 ドタバタ隣人エンカウントが終わった、はずだった。なるべくにこやかに立ち去ろうとして、今度はトーリスの飢えた腹の虫が盛大に鳴き声を上げる。
 彼が目を丸くしてトーリスを見上げてくる。
 穴があったら入りたい。思わずひたいを覆った。食べ盛りの高校生じゃあるまいに、だいぶ恥ずかしかった。
「すみません」
「腹減ってんの?」
 すかさず、隣人が指摘する。聞こえないふりをしてくれていたらどんなによかったか。空気を読めない、良くも悪くも素直すぎる性格のようだ、とトーリスのどこか冷静な頭が分析していた。
 適当にごまかしてしまえばいいと思ったものの、上手い云い訳がとっさに思いつかず、トーリスはこくりとうなずいてしまった。
 隣人の眼がぱあぁっと輝く。
「じゃ、お礼になんか作るし」
「え?」
「俺もいまお昼作るとこだったんよー。ひとりで食うの飽きてきたから、料理の感想でも云うし!」
「ええ?」
 妙な流れになってきたことに気づいても遅い。彼はスキップをしそうなテンションで、くるりと一回転して見せ、自宅に手招いた。

     *

 アパートは五年前にリノベーションしたので、エアコンは問題なく稼働するし、軽い防音対策もしてあった。入居したときに聞いたメリットだったように思う。
「そこ座ってて」
 リビングルームのテーブルはごちゃごちゃと散らかっていたが、隣人はそれらを落とすようにどかして半分は使えるようにすると、ひとつしかないイスにトーリスを座らせた。それから彼はキッチンに立ち、やけに上手い口笛をうたいながら冷蔵庫をひっくり返している。
 部屋の印象は雑然だ。あっちこっちに書類や雑誌やCDや、観葉植物やらぬいぐるみやら謎の可愛くない置物やらが置いてある。大半は音楽関係のものだ。
 開けっ放しの隣室は、トーリスは寝室にしていたのだが、そっちもリビングとほとんど相違ない散らかり具合だった。カーテンを閉め切っているらしく不自然に暗い。一角の壁だけ空いていて、そこにつやめかしいダークブラウンのピアノがどんと鎮座していた。
 きょろきょろ見回すのは不躾だと思ってはいるのだが、いかんせん手持ち無沙汰だったので、トーリスは隣人の背中を眺めていた。
 まるで踊っているみたいだ。
 めあての食材を見つけたらしく、彼は野菜をほいほいまな板に乗せてざく切りにした。それをフライパンに放り込む。鍋にはたっぷりの湯がごぽごぽ沸かされている。あたらしいビニル袋を破る音、じゅわじゅわと油が火にかかる音。
 しだいにもたらされる美味しそうな匂いにトーリスの腹が切なげに鳴いた。まるで夢の続きだ。目が覚めたら休日で、知らない人の家で食事を待っている。
 皿が二枚、片方はパン皿のようだがもう片方はラーメンを食べるようなどんぶりだ。似つかわしくない組み合わせに、スパゲッティが半々に盛り付けられた。
「できたし! フォーク出して」
「どこにあるか知らないんですけどぉ⁉」
「テーブルのどっかに刺さってるから!」
 結局、ペン立てらしきクマの置物につき刺さっていた。持ち手が可愛らしい水玉模様なのはもはやなにもツッコむまい。
 隣人はしれっとどんぶりの方をトーリスに寄越し、二人で手を合わせた。
「「いただきます」」
 メニューは菜の花と春キャベツとハムのパスタ。トーリスののどがきゅうと締まった。こんなにまともなランチは何か月ぶりだろう。
 パスタをフォークにからめて口に運ぶ。吹き抜ける春の香りにトーリスは眼を細めた。甘みと苦味としょっぱさも感じつつ、後味はさっぱりする。一日越しの空きっ腹にもするする入る。
「どう? 美味い? けっこうよくできたと思うんよ。ちなみに今日の隠し味はレモン汁!」
「おいしい……
「さすがポルスカ様って褒め称えてもええんよ。味変にポン酢たらしたり紅しょうが乗っけるのもオススメだし~」
 隣人が得意げに続きを喋っていたが、答える気にはなれなかった。
 トーリスは無心でパスタをかっこんでいた。味わっているのかいないのか、自分でもよくわからないまま一人前のパスタがどんどん減っていく。
 そういえば、最初のころこそきちんと家事も取り組んでいたはずが、このところは忙しさを云い訳に、食事はシリアルバーとゼリー飲料と冷凍食品とたまにそのままかじれる食べ物を目についた順に口にしていた気がする。
 洗濯は服装に困るからひたすら乾燥ごと回して、籠の山から適当に着回していた。ゴミ出しも最低限の分別をしていたし、週に一回くらいは、スーパーに寄る余裕は、あった。
 だんだん身の回りをかえりみなくなっていって、若さと健康にもたれかかって身体を削っていたのだと気づかされてしまった。
「ええ、マジ泣きするじゃん。俺の飯そんなに美味い?」
 隣人が身を乗り出して大判のハンカチをくれた。実はハンカチではなく、そこらに放ってあったバスタオルだったのだが、トーリスは構うことなく顔も口もぬぐった。
 ふう――と長いひと息。満たされた。いまさらすぎることに、人前でボロボロに泣いていたことに羞恥が浮かんでくる。ごまかすように笑おうとして、隣人がじぃっと見てきていることに気まずくて眼をそらした。
「ごめん……。なんかこみ上げてきちゃって」
「ほんとだし。初対面で知らん奴に昼飯作ってた変なテンションの俺より恥ずかしいし。早く隣帰らん?」
「いきなり塩対応だし⁉」
 まだ半分以上残っているパスタをくるくると巻きながらゆっくり噛みしめている彼は、舞台から降りた役者のような落差で、「てか俺、知らん奴と話すの苦手だし」と小声でつぶやく。妙な馴れ馴れしさは素ではなく、興奮でアドレナリンいっぱいだったがゆえの反射で、たったいま魔法が解けてしまったらしい。
 挨拶すら交わしていなかったことに気づいて、トーリスは背筋を伸ばす。隣人はもそもそ食べながらうつむいている。
「あの、ごはん、ありがとう。美味しかったです。俺はトーリス・ロリナイティス、102号室に住んでる。初めまして……でいいのかな」
「正真正銘初めましてだし。つーか、隣住んでるの初めて知ったんだけど」
「マジか」
「だって人気なさすぎるし、俺、年中アレがんがん弾きまくってるけど、一回も苦情来んからてっきり空き室なんかと思ってた」
 顔を上げた彼がフォークを持ったまま親指で隣室を指し示す。お行儀がよくないよなぁという考えは呑み込んで、トーリスはつられてそちらを見やった。
 部屋の散らかり具合に対して似つかわしくないような立派なピアノだ。アパートをリノベーションしたとき、親子三人の入居を想定して、軽い防音対策をしたという。それに、ピアノが置いてある部屋は、角部屋なので反対側が畑だ。
「ピアノ……の、音大生?」
「去年まではそう。いまは一応、ピアニスト。フェリクス・ウカシェヴィチ、通称ポルスカ様だし!」
 Vサインをされてもトーリスはピアニストに詳しくないので彼の名前を知らない。あとそのポルスカ様とやらはどこから来た。大学時代のあだ名か、芸名だろうか。
 落としどころがわからないのでトーリスは正直にあたりさわりなく褒めた。
「へー、プロのピアニストなんだ、すごいね」
「ぜんぜん心こもってないし! 好きなだけポルスカ様呼びしてもええんよ、それかポーちゃん」
「じゃあポーで……あらためて、よろしく」
「そんじゃお前はトーリスだから縮めてリトな」
「いきなり変なあだ名つけられた!」
「で、昼は俺作ったから、夜はリト担当にして」
「今度は俺作んの⁉」
「そ。じゃなきゃ、俺ばっか食材奢っててずるくない?」
 そもそもお礼じゃなかったのか。距離の詰め方がおかしい。ツッコミどころは数多かったが嫌ではなかったのでトーリスはへらりと笑った。
 彼――フェリクスはパスタを食べながら自由にも「餃子食べたい」とのたまったので、トーリスは目覚めよりははっきりと回復を感じる頭で、スーパーの買い出しの内容を考えていた。