暗い深い洞穴に閉じ込められて、いくらも経ったのか。イルミューイから伝えられる信号は光に透かされる糸のように頼りないながら、内部の様子が急激に変化していることを途切れ途切れに教えてくれた。
イルミューイのはらを糧に、ガンジャ隊は以前そうしていたようにヒトの営みを始めていた。ときおり、外から侵入者が在る。それは絶界の原生生物であったり、迷い込んだ人であったりした。人はやがてイルミューイのはらに取り込まれて成れ果てる。はらがいつしか村と呼ばれるようになっても、へその緒のような泥の紐に首を戒められているヴエコは、一切の干渉が許されなかった。
どんなに叫んでもかれらに届かないことや、ほとんど動かなくても疲れも乾きも得られないことに、ヴエコはだんだん慣れ始めていた。もしかすると、みなのように転変しなかっただけで、もう人間ではないのかもしれない。
かりそめの眠りと過去を再現したような夢、温かな闇に包まれた現実を変化のない波のように漕ぎながらヴエコは長いこと過ごしていた。
生まれてこられなかった、死なせてしまった子供たちの身体をそっと抱きしめて、どこかで聞いただけの、歌詞もうろ覚えな子守唄をぽつぽつと響かせる。
「……カティ、チトリ……どうしたの……」
溜まっている澱みが振動したような、確かな信号があった。ヴエコはうつろに周囲を見回してみる。どこまで続いているかもわからない、子供たちが全員寝そべってなお余るほどの洞穴。交流の途絶えて久しいそこに踏み入るものの気配があった。
子供たちが怯えたように群がる。身体にぶるりと悪寒が過ぎる。時を止めたような空間に大きな影が揺らいで、ヴエコはひぃっとかぼそい悲鳴を上げた。
「だれ……? 誰なの?」
虚空に唱えたはずの応えはまもなく返された。
「あぁ、こっちだっけ、ヴエコ。――どう、げんき?」
「……っ、ワズキャン……」
一瞬、名前を忘れていた。喉につっかえたような返事にヴエコは自分でも驚いて、心臓がびくりと大げさに跳ねた。子供たちが異物を押し返すようにさざめいていたが、ワズキャンは清算のねばねばを物ともせずかき分けて最奥に辿り着き、縄をかけられて逃げられないヴエコと相対した。
成れ果てたワズキャンの姿がまばゆいように見えてヴエコはまばたきを繰り返した。実際、彼は暗闇の黒と子供たちの淡い光、ヴエコ自身の赤という洞窟の中で、あざやかな色彩を放っていた。元の二倍近く巨大化した体躯、目玉のない卵のような顔と思われる部位、手足を補うであろう触手はまぎれもなく異形であったが、均整の取れた生き物のなりを保っている。ショウロウ層の呪いにひねくれた、見るに絶えない成れの果てと一線を画す。
姿こそ一度見えただけであるというのに、軽薄そうで意図の読めない声は、記憶から少しも風化していなかった。
声に触発され、忌まわしくどうしようもない罪に濡れた、日に日にイルミューイが壊れていく過去が甦り、ヴエコはこみ上げる嘔吐感に胸を押さえてえずいた。食物を収めていない腹が胃液らしいものを吐き出して、だらしなく垂れた唾液をごしごしと腕で拭き取った。
ワズキャンが首をかしげた、と思われる仕草をした。
「少し瘦せた? だめだよ、ちゃんと栄養とらなくちゃ」
「……か、関係ないでしょ、……どうせ、じぶんはもう……」
「髪は伸びてるんだね」
「ひっ」
ひとつも話を聞いてやしない。まじまじと覗き込んで距離を詰めてくるワズキャンが近すぎてヴエコは反射的に身を引いた。洞に繋がれているせいでたいして引き下がれやしなかったが。服を失くしてしまっていたことに気づいて、慌ててティクモを胸元まで引き上げる。
「ふへえ……髪が、なんだっていうの」
「……そりゃあ、君は、イルミューイではないという話さ」
「意味、わからない……」
「理解しなくてもいいよ。今はね」
ヴエコが言葉を介すのがずいぶん久しぶりだからではなしに、ワズキャンの言葉は難解だった。
そういえば、これまで隊員の誰も立ち入らなかった洞窟に、ワズキャンが唐突に踏み込んできたこともわからなかった。
「ワ、ズキャン」
「ん?」
「なんで、ここに……」
「あぁ、理由? ヴエコに会いたくなって」
「……そんなわけ、ない……」
「格別な噓じゃないよ? きっと退屈しているだろうと思ってさ。ここはイルミューイの深層心理に限りなく近いから、ヴエコは知ってるかもしれないけど、今は村が構築されてる真っ最中なのさ。僕らも協力しあってて、市場を作ったり。そうそう、食堂もできたんだよ。とびきり美味い飯を作ってくれる」
訊いてもいないのにワズキャンは勝手に話し出す。悔しいことにワズキャンの話は愉快で面白く、ヴエコは言葉を介する対話相手にひどく餓えていた。普段は物静かな洞窟にワズキャンの軽快な話し口が反響する。
住民が知らぬうちに増えていること。市場の賑わい。呼び込みという祭り。価値が村を循環する。最後に生まれ落ちた末の姫君は村に入って来られないさだめゆえ、ときどき、彼女の匂いを纏った干渉器が代わって訪ねてくる。終の棲家を得た元隊員たちは悠久の安寧を得たこと――。
「そうそう、ベラフも最近げんきになったみたい。このくらいの、ちっこい成れ果てを家に住まわせて養っているんだ。ベラフ自身はとても長いから市場まではめったに現れないけど、だいたい日向ぼっこをして楽しんでいるみたいだよ」
「……そう。みんな、楽しそうだね」
ヴエコは吐き捨てるように眼をそむけて相槌をうつ。最後に見たベラフの慟哭をヴエコははっきりと覚えている。他の記憶がどれだけ薄れようとも心に残り続ける魂の叫び、イルミューイへの懺悔を、ベラフは望み通りことごとく奪われてしまったのだろう。ちくりと痛む胸に丁寧に蓋をしてイルミューイの子供を抱きしめる。
ヴエコはどこにも行けない。イルミューイを忘れて、楽しくおかしく暮らすなんて考えられない。縛られて閉じ込められていることが罰であると受け入れているから。
「――ヴエコ、『目の奥』から出してあげようか?」
「……え……」
心を読んだようにワズキャンが云った。はっと見上げると笑っている、ように見える。顔と思われる部位の中央にある赤い空洞が濃くなったような気がした。互いに人間であったとき幾度か見た、何かを企んでいる顔。
ワズキャンが触手の一本をヴエコの目線まで上げて、黒い泥の縄を指した。
「それを外したら、君は晴れて自由だ。永遠のゆりかごに囚われることもない。きっと君は、僕らと違って村の外だって出られる」
「で、できやしないのに云わないで……。これ、じぶ、私がどんなに引っ張っても、取れないんだから……」
「そりゃあ、ヴエコはイルミューイと最も奥深い部分で繋がっているから。君以外の者が、『取れろ』と願って触れれば壊せるんだよ」
気づけば、ワズキャンの触手――指は、すぐ目の前にあった。少し肩を動かして腕を上げれば、手を取れる距離。ヴエコは胸元まで長く伸びた髪を震わせた。身体がおののいているのだった。頑丈に蓋をして眠らせていたものが湧き上がってくるのをヴエコは感じた。
最初の、本当に初めて出会ったとき、ワズキャンは薄汚い屑のような子供に対して迷わず手を差し伸べてくれた。羅針盤を持っていただけの、見目にも力仕事にも知識にも価値がない、今にも死にそうだったヴエコを仲間に招き入れてくれた。
あのときと同じようにワズキャンの手を取ればいい。
ヴエコはおそるおそる指を掲げていく。ワズキャンの言葉は毒のように狂おしい甘言だ。ろくな結末にならないと頭の片隅では理解しているのに、自らからめとられようとしているのがおかしくて、ヴエコは情けなく涙をこぼして微苦笑した。
――解放されれば、今度こそイルミューイに終わりをもたらせるかもしれない。今度は失敗しない。今度は、確実に。
「ふへえっ⁉」
ぬるりと顔に張りついた温度にヴエコは驚いてひっくり返った。イルミューイの子供たちがなだれ込むように次々と覆いかぶさってくる。いくら形のないものといえ一斉にのしかかられるとさすがに溺れそうになる。悲鳴を上げた口に流れ込んできたジェシーを必死にえずいて吐き出して、息をもだえだえにようやっと身を起こす。
「わあ、息できてる? だいじょぶかい?」
「これ、のどこが、だいじょぶに見えるの……」
ひどいことにワズキャンは大笑いして見物していた。ヴエコは羞恥に耐えるためにテプカを胸に抱き寄せる。
「イルミューイの子たちはヴエコが大好きなんだねえ。おばあちゃんだからかな?」
「そう、かな」
ヴエコは気の乗らない返事をした。イルミューイに似た、二度と光の射さない温かな暗闇の子供たち。ヴエコの周りを波打つようにそよいでいる。
異形の触手はつるりとなめらかで、多足の虫が獲物を待ち構えるようにわさわさとうごめいている。触手の一本がヴエコの鼻先まで近づく。
「どうする? 『取ってほしい』? それともここに残るかい?」
「い、いらない」
「なんで?」
「あ、あなたの……思い通りになんか、したくない」
ヴエコは差し出されていた触手を押しのけるように振り払った。ぺちん、と乾いた音が洞窟に響いた。ワズキャンに両目があれば、あっけにとられて丸くしていただろう。しばし、ワズキャンは壊れた人形のように固まっていた。
肩で息をしながら、ヴエコは瞳孔を開いてワズキャンを凝視していた。
急にワズキャンが愉快そうに手を叩きだした。ヴエコはぎょっと心臓が跳ねてしまう。
「うん、そうだね! ヴエコはイルミューイの特別だもん。イルミューイが寂しがるといけない。君は、君の憧れを待つといい」
「イルミューイ以外に、待つものなんて……」
「大穴は、強い願いこそ叶えせしむる」
予言者の声が反響する。ワズキャンの果てた体躯は増して洞穴を埋めるほど大きなものに見えた。
ただの事実だ。大穴には魔力があった。その魔力が人々を捕らえて離さない。ガンジャは大穴に魅了された者たちであり、ヴエコも例外なくそのひとりだった。願いは呪いに喰われ、黄金郷を目指す冒険は最悪の形で瓦解してしまった。
頭の中でちりちりと焦げるような引っかかりを覚えた。質問の答えをはぐらかされている。
「……もう限界かな」
「何が……?」
「『目の奥』は村の住民にとっては抗い難い苦痛に苛まれる場所なんだ。僕も例外なくね。ここに来るヒトはもういないと思うよ。イルミューイの子たちと、誰にも邪魔されることなく快適に過ごせるから」
ワズキャンが背を向けて歩き出す。待って、と呼ぶヴエコの声は届かなかったのか、聞こえないふりか、成れ果ての歩みを止めるには至らず、黒い泥に戒められたままのヴエコも動くことができない。
伸ばしていた手を力なく落として、ヴエコは子供たちを抱えてうずくまった。
我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか
――ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.