聖バレンタインデー、かつて恋人たちの婚姻を手助けしたことでローマ皇帝の怒りに殉教した司祭ヴァレンティヌスが処刑された日、その祭日だったと云われているが、近年は愛し合う者たちがカードや贈り物をする記念日へと姿を変え、さらにはマスターの立香の故郷では菓子業界商戦の結果、単なるチョコレートの日になりつつあるという。
「だからって、チョコレート型魔神柱が現れなくたっていいと思いません?」
「それはほんとにそう思う」
立香がチョコレートまみれの大惨事となったキッチンを見ながら、笑うしかないという表情で同意した。
悲しいことにカルデアのお祭り騒ぎに慣れてしまったロビンは当然のように巻き込まれた。マントにまで甘い匂いが染みついてしまったような気がする。無性に苦い煙が欲しくなり、ポケットから潰れた煙草を出して火をつける。
キッチンを警護するサーヴァントたちがバレンタインにはチョコレートと語った立香に甘いものを提供するため、張り切ってチョコレート菓子をせっせと仕込んでいたまでは良かった。立香だけでなく、マシュも職員たちもサーヴァントも、たいていは甘いものが好きだ。しかし甘い匂いに釣られたサリエリが大量のチョコレートにテンションが上がりすぎて心を落ち着けるべくハイテンションでヴァイオリンを演奏し始め、音楽に釣られたネロ皇帝が気分ぶち上がりでロック調で歌い出したらチョコレートまでも声援を送るように踊り始めたのはいかなる魔術だろうか。そしてチョコレートが思いのままにその身を飾り立て魔神柱によく似た巨大魔物に変幻したのはどんな冗談だろうか。
その様たるや、何事も好奇心旺盛にちょっかいをかけずにはいられないパラケルススやシェイクスピアが裸足で逃げ出したほどだ。最後までやり遂げた顔のネロや途中からデュエット参加したエリザベートはかえってつやつやしていたのが憎らしい。ちなみに元凶のひとりであるサリエリは早々に魔神柱が放ってくるチョコレートシャワーに溺れ、幸せそうに気絶して、ナイチンゲール婦長によってベッドごと担がれて行った。
「僕はもう今サーヴァント生ではチョコレートを見たくないな」
「同感だ」
後片付けに加わるビリーとベオウルフも疲れた顔である。魔神柱が爆発四散したキッチンは、むせ返るほどの甘ったるい匂いで充満していて、鼻がイカレそうだ。
そんななか、呆れつつもトンチキイベントに慣れきってしまった我らがマスターは、テーブルに山盛りになっているチョコレートの塊を指差しつつ、なんとか食べられないだろうかとエミヤとタマモキャットに相談し始めた。たくましいことこの上ない。よだれが隠せていなかったが、そのあたりはご愛敬かもしれない。
定番に生チョコ、それにブラウニーにチョコ入りクッキー、チョコパウンドケーキにマドレーヌ、チョコクランチ、チョコレートパイ、チョコチーズタルト、マシュマロを浮かべたホットチョコレート……。
「そうだ、ロビンもなにか食べたいのある?」
立香が意見を求めて振り返る。以前のロビンなら魔術の込められた食べ物などいらないと突き返したところだった。だが、今年のロビンはちょっとばかし浮かれていたらしい。ロビンは少し考えて、期待に満ちたマスターのオレンジ色の眼を見返した。
「そーですね、オレは……」
*
医務室にどんどん運ばれてくるチョコレートまみれだったりチョコレートの匂いに酔って吐き気を催していたりする患者を診ていたら、すっかり日付が回っていた。
ぶっ倒れたサリエリを懲りずにからかいに来るアマデウスがすべて悪い。アマデウスの顔を見るたび暴れ出すサリエリを何度宝具の手を出してベッドに押さえつけたか。ついでに治療の邪魔ですとマルタに投げ飛ばされるアマデウスはいい気味とシャルルは思ったが、次から次へと患者が来るので正直最後の方ともなれば面倒くさいとしか思えなくなっていた。
「疲れた……」
六度も排水口が詰まりつつそのたびに根気よくジキルが直してくれたおかげで使えたシャワー室でひと浴びしたが、それ以上になにかをする気力はなくなっている。
今日は寝よう。おそらくは魔力の使いすぎだ。自室の扉を開錠し、ふらふらとおぼつかなく歩いて、コートを脱いだりクラバットを緩めたりする手間も惜しくベッドに倒れこむ。
「……ショコラの匂い……」
部屋中に甘やかに漂う香りに、ほとんど微睡みの世界につこうとしていたシャルルは、唐突に覚醒して飛び起きた。ベッドとクローゼットのみの狭い部屋、いつもと違う点はすぐに見つかった。ベッドの枕元にリボンがかけられた包みが置いてある。
木の葉がえがかれた緑の包み紙に新緑を思わせる緑のリボン。メッセージカードが添えられていて、サンソンは警戒心も忘れて開いた。
『Happy Birthday.
From your valentine.』
一言だけのメッセージカードにシャルルは眼を瞬かせる。寝ぼけた頭でバレンタインという名の知り合いを探そうとして、このひと騒ぎの間に耳にした元凶にふと思い至った。バレンタイン、マスター曰くチョコレートの日。ついでに云えば、恋人たちがチョコレートを贈る日。
じわじわと理解が及んできて、シャルルは急いでリボンを解いて包装をびりびりと破いた。
正方形の箱を開けると、九つの格子の仕切りに分けられてころんとまんまるなチョコレートトリュフが鎮座していた。甘い香りがいっそう濃く匂い立つ。
シャルルはチョコレートに紛れていた煙草のにおいを嗅ぎ取って、うっすらと笑みを浮かべた。
「僕の可愛いコマドリさん、ここにいるんだろう?」
返事はない。シャルルは腰掛け直しながら、もういちど空間に問いかける。
「困ったな。こんなにも素敵な贈り物をもらったというのに、愛しいきみにお礼を云うこともさせてくれないなんて。できうることなら、きみと一緒にチョコレートを味わいたいのだけど……」
なおもかたくなに返事がないので、シャルルはうっそりと小首をかしげて哀愁を漂わせる微笑みを浮かべる。
「もしかして、いちにち頑張ったというのに、僕はさみしくひとり寝をしなければならないのかな。愛しいきみにひとめ逢えたら僕はどんなに嬉しいか、きみは知っていると思っていたのだけれど、僕の勘違いだったのかな……」
「だぁぁぁああ‼ やめろ、そんな顔!」
「ボンソワール、ロビン。逢えて嬉しいよ」
「あぁぁ……もう……この坊ちゃんは……」
勢いあまって宝具を解いてしまったロビンが悔しそうに顔を覆ってうずくまる。ロビンをニコニコと見下ろして、シャルルはチョコレートの箱を膝に乗せた。
「チョコレート、ありがとう。きみは最前線で疲れていただろうに」
「大変だったのはどっちかって云えばそこらじゅう飛び散ったチョコの片付けの方なんで、ご心配には及びませんや。それだって簡単なものですし」
「やっぱりきみの手作りだったのか」
「やっべ」
しまった、とロビンが歯噛みする。複雑な毒の調合やその場しのぎの罠を作るなど器用なロビンがトリュフを作っている姿を想像して、ふふ、とシャルルの噛み殺しきれなかった笑いが漏れてしまう。簡単とは云うが、ダ・ヴィンチちゃんの購買で売っているものと遜色ないほどトリュフの出来も包装も見事で、手間暇かけられていることが容易にわかってしまった。
フードを取った頭をがしがしかきながらロビンがシャルルの左隣に腰かける。
「舌の肥えたお貴族様には煩雑な味でしょうが、せっかくのバレンタインデーなんで。ま、気に食わなかったら適当に捨ててください」
「僕は貴族じゃない。それに、きみからの贈り物を無下に扱うわけがないだろう」
きみはなんでこう、自分を卑下するような物云いをするのだろう、とシャルルが云い返そうとすると、ロビンの耳の先がほんのり色づいているのが眼に入った。おや、とシャルルが瞠目して髪をかきあげてみると、隠れた右目が潤みそうに瞬いていた。
シャルルは無性に嬉しくなってしまって、ロビンのまなじりに口づける。シャルルの好いた煙草の匂いが濃く香った。
「そういえば、僕は直接きみのくちから聞いていないな。僕に伝えたいことがあるのだろう?」
「ハッピーバレンタイン。ほら云った。はやくそのチョコ食べたらいいんじゃないですか」
「つれないな、ロビン。バレンタインデーは過ぎてしまったよ」
「オタク、オレに云わせて楽しいんです?」
「実は、少し楽しい」
ジト目で返されて、シャルルはますます笑みを深める。するとロビンの眉間が比例して深くなっていくので、ほぐすように頬に、額に、鼻の頂点にとキスを落としていく。ロビンはむずがゆそうにされるがままになっていたが、唐突に、予備動作なくシャルルの首に腕を回した。ぎょっとしてとっさに身を引こうとしたシャルルを腕に閉じ込め、ロビンが耳元に唇を寄せる。
「ハッピーバースデー、シャルル」
とろけるように甘く、蜜をとかした蠱惑的なささやきがシャルルの脳髄にじんと鈍く染み入る。背筋から痺れるような情動がのぼってきて、シャルルはごくりと唾を飲んだ。
「そんじゃあ、満足したならチョコ食べますかい?」
形勢逆転とばかりににんまりとみどりの垂れ目が猫のように細められて、弓を扱う節くれだった指がシャルルの膝に伸びる。開けっ放しだった箱からチョコレートをひとつぶ摘みあげて、シャルルの口元に掲げて見せて。
「ほれ、あーん」
「じ、自分で食べれるが……」
「恋人サマが手ずから食べさせてくれるのもいいでしょ」
まるいトリュフは薄く削ったような細かなチョコレートがまぶしてあって、抗いがたい甘い香りを放っている。シャルルがおずおずと唇を緩めると、待ってましたとばかりに指ごと押し込められた。
見た目通りに甘いミルクチョコレートが消えてしまいそうに崩れたと思えば、オレンジの風味とザクザクしたナッツが舌触りに乗る。ロビンの指が引き抜かれたのを確認してナッツをかみ砕くと、オレンジピールが入っているのだった。喉を通る甘さが疲れた身体にほてるように染み渡る。眼をまるくしながらシャルルはゆっくりと味わい、思わず唇についたチョコレートまでぺろりとなめてしまった。
「美味い?」
「美味しい。……美味しいよ、ロビン。今までに食べたことがないくらいに。もしかして、これ全部味が違うのかい?」
「大げさですねぇ。まぁ、ちょっとした変化が楽しめます。ちなみに今のはオレンジピールとヘーゼルナッツです」
「完璧な組み合わせだ。見た目も少しずつ違っていて綺麗だし、素晴らしいよ……時間も手間もかかったのだろうに」
「キッチンの奴らが作ってるのをちょいちょいと分けて頂いて、アレンジしただけですよ」
シャルルはもうひとつ選ぼうと品定めする。ココナッツパウダーのかけられたものに、ホワイトチョコレートのもの、クランチに包まれているもの、じっくり眺めて、真ん中のシンプルなココアパウダーがまぶされたトリュフを摘まむ。
「それ、リキュール入りです」
「うん、きみにぴったりだ。……はい、あーん」
ロビンが瞠目する。シャルルが下げないのを見て面倒そうなため息をつき、コマドリがついばむように、むい、と口を開いた。
もむもむと口を動かしているロビンをシャルルはニコニコと見つめる。少し恥ずかしそうなのも可愛らしい。すっかり呑みこんでから、ロビンが眉をしかめる。
「別に、オレは要らなかったんですけど……。味見はかなりしましたし」
「云ったろう? 僕はきみと一緒に味わいたいんだ」
「そうでしたわ。こんな深夜にぱくぱく食べていいもんかは知りませんけど」
「チョコレートは薬でもあったから、少しはいいんじゃないいかな。そういえばその昔、チョコレートは王侯貴族の間で媚薬として用いられたそうなんだ」
「へぇ……ちょっとした興奮をもたらす薬であった、と。本当ですかね?」
「具体的にはごく微量のフェニルエチルアミンが含まれていることは確かだけれども、精力剤として使用するには板チョコレートで約六千枚食べなければならないと証明されたし、そもそもフェニルエチルアミンが恋にかかわる成分なのかはまだまだ検証が必要なようだ。王侯たちが期待したほどの科学的な効果はないのが実情かな」
「さすがは学者先生、物知りなことで」
シャルルの指がロビンの顎のあたりをくすぐるように撫でる。焦らされているというのにロビンは余裕綽々な表情だ。シャルルはうっとりとロビンの頬をかすめるほどのキスを落とす。
「でも、チョコレートにはひとを幸せにする成分が含まれている。たとえば、誕生日に甘いチョコレートを贈ること、それを喜ばしいと感じること……」
チョコレートよりも甘く語りかけながらシャルルはまるいトリュフをひとつまた摘まんで、ほてった赤い唇に含む。ばきりと歯に挟んで割れば、甘ったるいミルクの香りと内側に包まれていたビターチョコレートクリームの苦みが広がって、シャルルは待ち構えているロビンの赤い舌めがけて唇を重ねた。
薄く開いていたロビンの咥内にチョコレートをまとわせた舌を絡め、香りを移すように擦り合わせ、たっぷりの唾液を喉に流し込む。新緑の瞳が朝露のように潤み涙がぽとりとつたって、ベッドで重ね合わせた手が熱くもどかしくなってきた頃合いに、シャルルはようやく唇を離す。すっかり薄くなった茶色の液体がつぅーっと伸びてはちぎれて垂れた。
「ところで、効き目はどうかな。きみの仕込みはもう上出来だと思うのだけど」
「さすがはお医者先生。お気づきでしたか」
「チョコレートにしては熱が違うから。本物の媚薬を仕掛けられるとは思わなかったけれども。さて、どこで、どうやって手に入れたんだい?」
「どうでしょうねぇ。恋人たちをとろけさせる魔力の塊とでも云いましょうか」
今度はシャルルが眼をみはる番だった。その隙をついて、ロビンがたくましい腕でシャルルを引き寄せ、抱きかかえるようにしてベッドに沈ませた。罠にかかった獲物を見るような眼で見下ろされて、シャルルの胸がぞくぞくと早鐘を打つ。
「それとも、お忙しい恋人の気を引きたくて、わざわざ調合したとでも白状しましょうかね」
「……こんな、強引な方法を使わなくても僕は、きみのお誘いだったら、いつだって頷くのに」
「ハッ、薬でハイになってるんですか、坊ちゃん?」
「そうかもしれない。案外、チョコレートの効果は馬鹿にならないな」
ロビンの前髪が頬をくすぐり、シャルルは自ら腕をロビンの首に絡める。うっそりと甘い響きを意識して、耳元にささやく。
「ねぇ、ロビン。もう一度、きみのチョコレートを、きみの手で食べたいんだ……だめかな」
「しょうがないですねぇ、ハニーは……」
甘いチョコレートを含ませて、また口づける。夜はより濃密に溶け合っていった。
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