ロンド
2386文字
Public 奈落の大穴
 

一日

シギーの短い一日の話。
明日の更新に耐えられないので以前書きかけて放置していたものを手直ししました。とくにやまもおちもない。

 夜明けの光が眩しくてシギーは目が覚めた。手探りで枕元の眼鏡を手に取り、仰向けになっていた上半身を持ち上げる。
 時刻は四時を指している。
 外の空気が欲しくて窓を開けると、暁の空は素晴らしい晴天だった。いまだ西に月が傾いているのを見つけ、ちょうど十年前もこんな天気だったな、とふと思い返した。

 リコの絶界行(ラストダイブ)から十年が経っていた。
 当時十二歳の見習い赤笛でしかなかったシギーも月笛を手にするほどの年月が経っていた。
 蒼笛になった頃から、一番仲の良かったナットが孤児院の職員見習いで忙しくなり、一緒に探窟することはなくなった。もっぱら本部の指示で一層から二層を探窟するうち、自分のために作っていた奈落地図が上層部の目に止まり、そのうちに地図をかくのがシギーの仕事となっていた。今では大規模探窟にとらわれないフリーの探窟家として、また本部付の測量士として、日々アビスに潜っている。
 身支度を整えると、探窟道具を背負って奈落門に向かう。顔見知りの門の見張り番は交代の時間であったらしく、手を振りながら隣の建物に消えた。段差が低く歪な階段を降りながらアビスの淵に入る。
 オースと似た自然環境と垂直の崖と雲に覆われた奈落。ときおりツチバシの鳴き声も風に乗ってくる。
「深度150メートル……か。天気が良いからもう少し潜るか」
 ロープ一本で進むシギーの移動手段はたいてい徒歩である。次週には、独立したナットの経営する孤児院も含む大規模探窟があるはずだった。
 赤笛の孤児たちが挑む深度100メートル前後は危険な原生生物は少ないが、崖淵ゆえに崩落の危険性と隣り合わせだ。シギーの仕事にはそういった場所の選別もある。
「深度200メートル……と」
 望遠鏡を使って上方を観察する。崖の上からは見えない脆い箇所を手持ちの地図に印していく。
 風鳴き風車から回り、樹住まいの化石群の麓にたどり着く。このあたりは赤笛がよく探窟している地であり、すぐわかるような場所には遺物は見当たらないかわり、踏み均された道が伸びており移動が楽である。
(そういえば、リコがレグを見つけたのって化石の樹の麓だっけ……
 いつかの遠い会話を思い出す。レグの不思議な力で溶けたという化石の樹は今でも残っているだろうか。
 シギーは仕事も忘れて樹を一本一本丹念に調べはじめたが、そう簡単には見つからないようだった。わずかに上昇負荷で息があがる。一通り化石群を見回って、シギーは諦めた。アビスの環境に埋もれてしまったらしい。
……仕方ないか。もう十年経つのだもの……
 荷物を投げ出して樹のくぼんでいるところに座りこむ。歩き回って腹も減っていた。持参していたマゴイモ饅頭の包みを開く。

 アビスを覗くと思い出す。昔、同い年の女の子がいたこと。貴重な遺物でできた謎のロボットのこと。二人とも、奈落の底へ潜って、帰ってこないこと。
 何度も何度も思い返して擦り切れた記憶をシギーはいまだ大事に抱えている。
 ナットに会うと頻繁にリコの話をする。当時ベルチェロ孤児院のリーダーだったジルオは、時々小さな頃の想い出を話してくれるようになった。計画を聞いていたはずのキユイは、幼すぎたのかリコを知らない。ただ、鈴付きだった兄がいたことはなんとなく記憶しているらしい。
 秘密を共有する仲間は少なく、シギー自身の記憶さえどんどん薄れている気がする。

 鳴き声が大きく聞こえてきて、シギーはずり落ちていた眼鏡を直して上を見やった。蒼笛が罠にかかったツチバシを捕まえていた。逃げようともがくツチバシの群れはやがて上空に引き上げられていき、シギーの位置からは見えなくなった。
……さて、と。行こうか」
 痕跡を残していないか確認してから、シギーはロープを降ろす。深度350メートル地点。二層までにはまだ1000メートルもある。引き続き夜間も探索するならともかく、さらに深く潜るには日帰りの荷物では危ない。
(今日はここまでだな。遺物の少しは持ち帰るか……晩ごはんの足しにはなるし)
 ガラクタの四級遺物といえど、海外では良い値がつくので買い取ってくれる店がある。シギーは午後いっぱいを探窟に費やし、日の落ちるであろう時間帯の前には幾分か重くなったリュックをまとめた。
 さて、探窟を終えたここからが正念場である。
 シギーは崩れにくそうな岩場に脚をかける。誰かが通り踏み固めたのか登りやすそうだった。リュックを背負い直し、気合を入れて登りはじめる。
 数十メートルも上がると、頭の奥がチリチリするような感覚に支配されそうになる。
(まだ深度300メートル……
 降りるのはあっという間だが、帰路には数倍の時間がかかる。吐き気で呼吸にいやなにおいが混じる。
(一層は慣れだって云われたけど、頭痛はともかくこの吐き気だけはいやだなぁ)
 毎日のように潜っているおかげで赤笛の頃のようにゲロゲロ情けなく吐くことだけはなくなったが、完璧に克服できないままだった。
 シギーが奈落門まで行き着いたのは、夜の闇が迫る直前の赤い空がわずかに残るばかりの時間になっていた。周囲にはシギーと同じように重い荷物を背負って歩く探窟家がちらほらいる。

 馴染みの鑑定屋は、店じまいの直前にやってきたシギーを最後の客だと云って、トコシエコウの茶を出してくれた。
 四級遺物のガラクタばかりが十あった。遺物に比べてずっと軽い布袋を鑑定屋から受け取る。
 行きと同じくらいの重さになったリュックを背負い、帰路を歩く。ぽつぽつと石灯の明かりのともる街中の中心、アビスだけがぽっかりと真黒い深淵の口を開いている。
 見慣れた光景だった。シギーはアビスと共に生きるすべしか知らない。

 彼女の電報船は、まだ届かない。