昼下がりの教会は、少し静かだ。一時間ほど前までは街の再建に携わる人足が食事のために集まっていて賑やかなものだったが、腹を満たして身を休め、仕事を再開すべく街へと出て行けば、教会は本来の静謐な空間へと戻る。
昼食の提供が終わり、食器の片付けや食堂の掃除が済んだところで、メルセデスは皆に断って小部屋で休憩を取ることにした。一区切りがついたとはいえ熟すべき仕事は他にも沢山あって、休まねば動けないほどの疲労もない。作業に区切りがつく少し前に、親友が教会に訪ねて来たので、その応対のためだ。
供された紅茶で軽く喉を潤したアネットは、茶碗を置くなり怪訝そうな眼差しで問うてきた。
「王宮に行ったら、メーチェは教会に出かけてるって門番さんに言われて、びっくりしたんだよ。今日は陛下と過ごすんじゃなかったの?」
今節の始め頃、アネットの誕生日に会った際に今日の予定について尋ねられ、メルセデスは確かにそう答えた。現実との乖離に、思わず苦笑いが浮かぶ。
「本当はそのつもりだったんだけど……一週間くらい前に、ディミトリは西部に出かけちゃったのよ~」
「西部、って、勿論仕事だよね?」
渋い顔で更に問うアネットに、メルセデスは頷いて返した。
「出発の間際まで、どうにか日程を変えられないか、って頑張ってたみたいなんだけどね。会わなきゃいけない人が多いとそういうのは難しいし、私のことは気にしないで行ってらっしゃいって、送り出したわ」
笑みを崩さずに答えるメルセデスに対し、アネットは軽く眉根を寄せる。続く声には呆れの感情が含まれていた。
「そうやって押し通さないで飲み込んじゃう辺り、陛下もメーチェも相変わらずだよねえ」
今日は竪琴の節、二十七の日――メルセデスの誕生日である。夫たるディミトリは、元来の生真面目な気質と、血に塗れた身ながらも王にと望んでくれた民に報いる思いから、私事を悉く後回しにする悪癖があった。そんな彼でも、前節に挙行された婚儀を経て正式に夫婦となった後、最初に迎える妻の誕生日となれば話は別であるようで、この日だけは仕事から離れて共に過ごしたいと言ったものだ。
……が、しかし。現実は無情で、ディミトリの細やかな希望は、呆気なく公務に塗りつぶされた。今回の西部への巡察は十日程の予定で、戻ってくるのは明後日の夕方である。
フォドラの歴史の転換点ともなった戦争が終結した半年余り前に、結果としてディミトリはフォドラ全土を統べる国の王となった。以前は三つの勢力がそれぞれに治めていたものを一手に引き受けることとなれば多忙は当然だが、彼の場合は政変の後に下野していたために政治に触れていなかった点も要因としては大きい。
長く圧制下にあった足元は盤石とは言えず、五年余りの空白のせいで殆どが手探りだ。それでもディミトリは信念を持って受け入れ、フォドラの安寧のために全力を尽くしている。誠実だが不器用な為人と知りながら、望まれて誓いを交わし、覚悟の上で共に国を背負う王妃となったのだ。心身を害するほどの無理をしない限りは、彼が必要だと判断したことに口を挟むつもりはメルセデスにはなかった。
まるでうちの父さんみたい。そんな独り言めいた呟きを溜息と共に吐き出したアネットが、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
「メーチェは寂しくないの?」
アネットが自身の父とディミトリを脳裏で重ねているのなら、もしかしたら……とは思うが。メルセデスはにっこりと微笑んで、今の思いを素直に口にした。
「何日も会えない日が続くのは、寂しくないって言ったら嘘になるわ。でも、誕生日のお祝いのことだけなら、別に寂しくはないわね~。ディミトリが心から祝ってくれるなら、今日じゃなくたって構わないもの」
誕生日を忘れてしまったわけではない。結果として諦めざるを得なくなっただけなのだ。帰ってきたら、彼はきっと一番に祝ってくれるだろうから、その時を楽しみに待てばいい。それに――メルセデスは後頭に手を伸ばし、そこにある髪飾りを軽く撫でた。つい先程、誕生日の祝いの品として、アネットから贈られたものだ。
「こうしてアンが会いに来てくれたし、イングリットからは花束をもらったのよ。孤児院の子供たちもお祝いしてくれて、十分すぎるくらい素敵な日だと思うわ」
ただただ、幸せだと。浮かぶ笑みに一つとして陰りがないと認めてくれてか、アネットの表情もまた和らいだ。
そうして暫し、休憩がてらの茶会を楽しんでいた最中だった。不意に慌ただしい足音が耳に届いて、何事かと二人で顔を見合わせて程なく、開けたままの扉の向こうに困惑した様子の修道士の姿が見えた。
修道士はメルセデスの姿を認めると、容の緊張を僅かに解いて呼びかけてきた。
「あっ、メルセデスちゃん。話の途中で申し訳ないのだけれど」
親友と過ごす時間が楽しくて、普段の休憩より長く話し込んでいたらしい。辺りが静かだったせいか、時間の経過に気付かなかった。
「あらあら~、ごめんなさいね。のんびり休みすぎたかしら~」
探させてしまったことも含めて詫びつつ、メルセデスは席を立った。しかし、修道士は困惑を顔に乗せたままで小さく頭を振ると。
「ううん、そうじゃなくて――」
続く言葉はメルセデスの耳には届かなかった。否、修道士が口を噤んだのではなく、メルセデスの聴覚が仕事を放棄した、とする方が正しい。修道士の背後から顔を覗かせたのが予想外の人物で、その驚きで意識が釘付けになってしまったからだ。
「メルセデス!」
弾む声でそう呼ばわるなり、満面の笑みで室内に入ってきたのは、今は西部からの帰途にあるはずの夫だった。思考が事態を理解するより早く、瞠目して立ち尽くすばかりのメルセデスに向けてディミトリの手が伸びてきて、巻き付く腕の感触でこれが現実であることをメルセデスは認識した。
抱き込まれた腕の中で「ただいま」と囁かれて、メルセデスは反射的に「おかえりなさい」と応えるも、裡を巡る当惑は消えない。今、目の前にいる彼は幻の類ではないと分かったが、これはどういうことなのか。
予定より二日も早く会えたことへの喜びと、その原因となっただろう事態への不安とが、メルセデスの心でせめぎ合う。ディミトリの様子に不穏なものは感じられないので、深刻な問題が起こったわけではないのだろうが……。
「ねえ、ディミトリ。帰ってくるのは、明後日の予定だった、はず……よね?」
訥々としたメルセデスの質問に対するディミトリの答えは、対照的なまでに明快だった。
「一人で先に帰ってきたんだ」
「一人で、って…………ええっ!? 一緒に行った護衛とか文官の人とかはどうしたの?」
「置いてきた。俺だけなら、今日中に戻れそうだったから」
何があったの、とは、聞くまでもなかった。随伴の者たちを振り切って一人で道を急いだ理由は、彼が口にした「今日中に」という言葉だけで十分に窺える。帰路についた後の話なら熟すべきは全て熟した上であろうから、役目を果たせなかった護衛の騎士が少し気の毒にはなるが。
抱きしめる腕の力が緩んだ。返す言葉に窮したメルセデスがそれでもと顔を上げれば、優しい色が滲む碧眼に見つめられていて、胸の奥で心臓がどくりと躍る。
「今日でなければ意味がないとは思わないが、それでも、今日の内に言いたかったんだ」
喜びに満ちた声が降ってきて、身を拘束するディミトリの腕の力がまた強くなった。抱き込まれて視界が暗くなった刹那に耳に滑り込んできたのは、少し掠れた囁き声で。
「――誕生日おめでとう、メルセデス」
ただ一言を告げるためだけに皆を置き去りにしてきたのかと、責める気持ちにはなれなかった。公を優先する意識が強く「欲がない」とさえ評される夫の我儘が、会えない寂しさを多忙で紛らわせていたメルセデスには、どうしようもなく嬉しかったのだ。
メルセデスに再び現実を認識させたのは、室外から聞こえてくるざわめきだった。予想外の事態への驚きと喜びに気を取られて失念していたが、そういえばここは、王宮の私的な空間ではなかった。
「あのー……、陛下、メーチェ?」
割り込むことを躊躇う控え目な声に呼ばわれ、メルセデスは慌ててディミトリの胸を押して腕を解かせた。らしくない様が可笑しかったらしく、アネットは小さく吹き出している。喉にせり上がるその波が収まってから、彼女もまた席を立った。
「さっきの修道士さんからの伝言。『後のことは気にしないで良いから、今日は陛下と過ごして』って。あたしもこれで帰るね」
本来ならばそろそろ休憩を終えて、アネットを送り出している頃合いではあった。が、ディミトリの急な帰還で予定が変わり、仕事は修道士たちが引き受けてくれることになった。ならばこれから王宮に移動して、茶会の続きを、思ったのだが。
「えっ、帰っちゃうの? アン」
「うん。直接会ってお祝いできたし、メーチェの幸せそうな顔が見られて、あたしも満足したから。あとは、急いで帰ってきた陛下に譲ってあげなきゃ」
和やかに微笑むアネットの視線が、僅かな間だけディミトリを捉え、離れた。それから、傍らに置いた荷物に手を伸ばす。
「気を遣わせてすまないな、アネット」
親友同士の歓談に割り込んだ自覚はあってか、アネットに向けたディミトリの声は申し訳なさそうに響く。荷物を持ったアネットは和やかな笑みのままで小さく頭を振り、真っ直ぐにディミトリを見上げると。
「陛下がメーチェのことを大事に思ってることも分かって、安心しました。今日会えなかったら、次に会った時に嫌味の一つくらいは、って考えちゃうところでしたよ」
肩を竦めるディミトリに対してアネットは笑い、じゃあまたね、と残して去っていく。足音と共に遠ざかる小さな背に向けて、会いに来てくれてありがとう、と返し、見送ったメルセデスは、ややあって寂寥に浸した心を現実へと引き戻した。その標となったのは、手に触れたディミトリの体温だ。
壊さないように始めはそっと控え目に。次いで、掌で優しく包まれる。血統による怪力故に気を遣う身だと知ればこそ、アネットの言う通り、本当に大切にされているのだと実感できて、それがまた、泣きたくなるくらいに嬉しい。
胸の奥で沸き起こる高揚のまま、メルセデスはディミトリの手を握り返した。そして同時に、愛おしい想いを眼差しに込めて、彼に向けて微笑んでみせる。
「帰りましょうか、ディミトリ。今日は、これからも一緒にいられるのかしら~?」
僅かな逡巡もなく「勿論だ」と答えた碧眼には、過去の彼の姿からは意外なほどに素直に、喜びの感情が滲んでいた。
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