千代里
2025-05-27 08:19:38
14554文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その1


「ねえ、オランロー」
 武装に傷みがないか、防寒具に穴がないか。身につけるものの損傷を確認するため、部屋にはさまざまな衣類が広げて置かれていた。場所は、もはや我が家のように住み慣れた宿の一室。ヤルマルとオランローは、予想より長く滞在した部屋の後片付けをしている真っ最中だった。
「五年前、ボクは君をクルザスの辺境で凍え死にかけているところを助けた。その後、なんだかんだで今まで二人でやってきたわけだけれど、ボクと一緒に過ごしていて大変だなーって思ってない?」
「今更、何の話だ」
「君って、ひとところに留まっているのが好きなタイプだろう。だけど、ボクは、帰る家は欲しいけれど、そこに長居したいってわけでもない。今だって、ノエの手伝いって名目ではあるけれど、イシュガルドの各地を巡る旅をそれなりに楽しんでいるんだよ」
 そして今再び、二人はノエたちと共に貴族の邸に向かうため荷物支度をしている。
 腰を落ち着けてのんびりとする、などというのは夢のまた夢だ。
「だから、あんたについて行ったことを後悔してるのか、などと今更心配してるのか?」
「いや、後悔してるかどうかは心配してないよ。だって、えーっと……君にとって、ボクは一番大事なやつなんだろう?」
 どこかつっかえながらも、ヤルマルは己はオランローにとって価値ある存在だと宣言してみせる。それは、かつてまでの彼女ならば決して口にできなかった言葉だった。
「だけど、一番大事な人だからって、我儘ばかり言うのもどうかと思うんだ。後悔はしてなくても、疲れることはあるかもしれないからね」
「流石に、そればかりは全くない、とは言えないな」
 今のヤルマルならば、オランローの発言を受けても、己の気持ちを誤魔化すまい。だったら、オランローはおのれの本音を安心して口にできる。
「あんたと一緒にいる時間は、オレにとって好ましいものであるのは確かだ。だが、あんたの言う通り、オレは一箇所に腰を落ち着けて細々としたことをするのも好きだ。各地を巡るのも、悪くはないが」
 言いつつ、オランローはノエの寝床に支線をやる。
 二人がいる男部屋のうち、部屋を利用していた本来の住人はここにはいない。そして、それは今に限った話ではないだろうことは、オランローも予感していた。
 今回の訪問が終わり、オデットの中で記憶について一区切りがついたら、ノエたちとの旅路にも同じように区切りが生まれる。そうすれば、六人の道も少しずつ分たれていくはずだ。
「だが、オレたちが家に戻るのは、もう少し後でいい。あいつらがいなくても、オレは趣味に没頭できるが、あいつらとの旅は、今この瞬間だけのものだ」
「そこは、ボクと同意見なんだね。よかった、君とは趣味の合う部分もあるようだ」
「他にも合うところはあるだろう」
「でも、ボクは料理を作るより、どちからというと食べる方が好きだよ。魚は静かに座して釣り上げるより、手づかみの方が実は性に合っている」
…………
 ヤルマルに言われて考えてみたものの、予想以上に自分とヤルマルの共通する趣味が見出せず、オランローは額に手をやって沈黙してしまった。
「あいつらと一緒にいることがオレの負担になっていないかと、ずっと気にしていたのか?」
「ずっとではないけれどね。とはいえ、ノエのお父さんの話を聞きに行くだけだと思っていたのに、思ったよりも長い旅になってしまった。流石に、そろそろ一度ぐらいは質問するべきかと思ったんだよ」
「そうか。そういえば、最初はそれだけだったな……
 父親からの招きに不安を抱くノエを見るに見かねて、ヤルマルたちは同行を申し出た。
 その後は、なし崩し的にオデットの記憶の手がかりを求める彼らに同行した。落ち着かない情勢のイシュガルドにノエとオデットだけを残していくのは不安だったからではあるが、いつのまにか、随分と長い『少しだけの同行』になったものだ。
 近く訪れる一つの大きな節目を前にして、だからこそオランローは問わねばならないと先だってから抱き続けた質問を言葉にする。
「それで、あんたは気づいているのか」
「どれのことだい、と誤魔化すのはやめておくよ。もちろん、気づいていたさ。少し懐かしい話になったから、すぐには思い出せなかったけれどね」
 オランローが言外に尋ねている理由は、ヤルマルにもすぐに分かった。
 オーバン・ド・ニヴェール。彼に会うのは今回が初めてであったが、全く知らない相手というわけでもない。
 なまじっか、直に相対していなかったが為にすぐに思い出せなかったが、彼が後ろで糸を引いていたと思しき事件にヤルマルたちは関わったことがある。
 あれは、一歩間違えていれば、死者が出ていたかもしれない事件だった。オランローが警戒するのも無理ない話だ。
「だったら、なぜあいつらがオーバンの元に行くというのを止めなかった」
 質問をしつつも、オランローにはヤルマルの答えが予測できていた。案の定、ヤルマルはオランローの予想通りの言葉を口にする。
「彼が、ボクらに敵対心を持っていなさそうだったからだ。あのお爺さんにとって、目当てはオデットだけなんだろう。もっとも、友人の忘れ形見に積もる話をするだけだとはボクも思っていないけれどね」
「警戒はしておくが、まずは相手の様子見ということか」
「そうだね。それを言うなら、先だっての事件について真相を暴いたのはルーシャンだというのに、なぜ彼が手を組むような真似をしているのか、という質問もしなくてはならない」
 ヤルマルの問いかけに、オランローも思考を巡らせる。彼女がすぐに答えを言わないのは、そっちも考えてごらんという意味だ。
「ルーシャンは、あの爺さんを放っておく方が危険だと判断したのか?」
「彼の口ぶりだと、大層親しいというわけではないが、良くも悪くも性格をよく知っている相手のようだ。だとするならば、オデットという知人の忘れ形見がイシュガルドにいると知って、あの老人がどのような手を打つか想像がついたのだろう」
 登場して早々、ルグロ家の横領について大声で指摘するような性格の男だ。慎重に周りに気を配りながらオデットの元にこっそりと訪問するとは考えにくい。最悪、問答無用で拉致される可能性すらあっただろう。
「もし、彼が強行手段に出ても、ボクたちは所詮一介の旅人に過ぎない。目の前でオデットを掻っ攫われても、貴族の横暴に文句を言える立場ではない」
「だったら、先にこちらから接触を打診しておくということか。それならば、向こうも強引な手法は取らない。ルーシャンの考えはそんなところか」
 当人に悪気はなかったとしても、権力というものは時にこちらのささやかな事情を引き潰す嵐となる。ルーシャンは、自分たちに襲いくる可能性のある嵐から、こそこそ隠れるのではなく、堂々と姿を見せる方を選んだのだ。
「しばらくは、相手のご好意に乗っからせてもらおう。警戒は忘れずにね。穏便にことが済むならそれに越したことはない」
「穏便にことが済んだら……か」
 仮に、本当に何事もなく話が済んだら、その後の旅路はどうなるのか。オランローが口篭った理由を、ヤルマルははっきりと言葉にする。
「そうしたら、ボクたちがついていく理由はとうとう無くなってしまうのだろうね。だとすると、この辺りがボクらが戻る潮時になるんだろうさ」
「嫌なのか?」
「いつだって喜んで迎え入れるものじゃないのだよ。別れというやつは」
 今まで生きてきた百年以上の時の中、出会いと別れを繰り返してきた冒険者は言う。
「でも、だからこそ、今を最高に楽しんでやるって思えるものでもあるのさ」
 
 ***
 
 音もなく降る細雪の中、オデットは墓地に置かれた真新しい石碑の前で、ローブの下履きが濡れるのも構わずに膝をついていた。
 片膝を立て、額に手を当て、祈りを捧げる。昨晩は雪が積もったはずなのに、石碑の上には雪はない。きっと誰かが退けてくれたのだろう。石碑に刻まれた名の持ち主――ヒューイが、この町の人にとって、簡単に忘れられる隣人ではなかった証拠だ。
 だが、オデットが祈りを捧げる相手は彼だけではない。
「オデット」
 微かに肩に粉雪が積もり始めた頃、ようやくオデットは顔を上げた。一心に祈っていたためか、肌が冷えて強張っている。
「お別れを言っていたのかい」
「はい。ヒューイさんに。……それにゲルダにも」
 外套についた雪を払い落としながら、オデットは立ち上がる。ぱちぱちと瞬いたまつ毛からは、小さな氷のかけらがパラパラと落ちて行った。
「もともと、アガテルさんのお父様がシュガーグレイヴから出て行ったら、わたしたちも旅立ちましょうって話でしたのに。変ですよね。わたし、なんだか急に旅立つことが決まったみたいに思っているんです」
 どこか慌ただしく、忙しない気持ちが心のなかにあって、そのせいで今朝は朝食をひっくり返しかけ、ブーツの紐が解けて階段を転がり落ちかけ、と小さな事件ばかり起こしていた。それもこれも、この落ち着かない気持ちのせいだろう。
「自分たちで予定を決めて旅立つのと、誰かに急かされながら旅立つのでは、気持ちの構えかたが変わってくるものだからね。僕も、正直なんだか気忙しいと感じてるところなんだ」
 ノエはオデットの隣に並び、彼女に倣って跪く。墓碑に十分な祈りを捧げた後、彼はオデットへと向き直った。
「これを言うのは少し気が引けるんだが……あのお爺さんの手を取るのが早計な判断だと、後悔することがないといいのだけれど、と思っていたところなんだ」
「兄さん?」
 自分で決めたことを一度翻すなど、ノエらしくない発言だ。オデットが驚いていると、
「推測でしかなかったが、あの人はディアヌさん一家を殺そうとした人だってこと、覚えてるかな」
 ノエの言葉に、オデットはしばらく沈黙を挟んでから「あっ」と声を漏らす。
 まだ一同がグリダニアにいた頃、彼らはイシュガルドから引っ越してきた女性とその娘と少なからぬ縁を結んでいた。
 母親はとある貴族のメイドであったが、懐妊の兆しがあった際に、折悪く当主のお手つきを疑われる状況に置かれていた。本人は無罪を主張し、逃げるようにしてグリダニアに引っ越してきたのである。
 引越しの際に、娘は侍女伝いに当主の息子から誕生日の品を貰っていた。個人的に息子とは仲良くしていたため、彼女は疑わずに贈り物を受け取った。しかし、それは真っ赤な偽物であり、誕生日を祝うはずの品が入った箱には、妖異を引き込む魔紋が仕掛けられていた。妖異が呼び込まれた場面に出会したノエたちは、無実の少女を守るために妖異と死闘を繰り広げたのだった。
 その後、関係者の証言を聞いた上で、妖異が出現する箱を送り込んだのが、ニヴェール家の前当主ではないかという推理に至ったのだ。
「実際に当事者と顔を合わせたわけではなかったから、僕も失念してしまっていたところではあるのだけれど……
「では、あの方は危険な人なのでしょうか」
「昔の僕なら、彼は危険だと言い切っていたかもしれない。でも、今の僕は、そうは言い切れなくなっている」
 ニヴェール家は、現当主であるベリトア卿の嫡子に関する問題をすでに抱えていた。
 だからこそ、オーバン老は、息子にとって都合の悪い噂がこれ以上増えないように、次なる不祥事の芽が生まれる前に徹底的に潰す選択をした。その一件を、彼の従者は『お館様の戯れに過ぎない』と言ってのけた。
 人の命がかかったことに対して「戯れ」などと、当時のノエは憤慨した。
 だが、今は違う。今回の一件もそうだ。貴族にとって、平民の命一つなど本当にただの戯れに過ぎないのだと、この上ないほどに痛感させられてしまった。
 たとえオデットが、アガテルの身代わりとなって本当に命を落としたとしても、彼女の従者や彼女の父親はさして気にもかけなかっただろう。オーバン老とて、自分の友人の忘れ形見だと知らなければ、オデットが身代わりにされたことについて、あそこまで憤慨しなかったに違いない。
 平民の命など、取るにたらぬ瑣末なもの。彼らの思想の一部を切り取れば、残虐で非道なものに思える。しかし、その考えの裏にどんな前提が隠されているかを、ノエはすでに知ってしまっている。
「貴族にとって、自分の地位や名誉を守るということは、きっと僕らが思っている以上に必要不可欠なことなんだ」
 他の貴族の治世についてはわからないが、ノエは自分の父親のことならよく知っている。
 ノエの父は、息子を見殺しにしたことを後悔していた。それでも、己の当主としての立場上、そうせざるを得なかったとはっきり告げた。
 当主の座をかなぐり捨ててでも実の息子を選ばなかったことを、かつてのノエは権力や地位を優先して家族を見捨てた、と嫌悪していた。だが、父親の座る領主の椅子の重みを知れば知るほど、ノエは父親を単純に非難出来なくなっていた。
 彼が、貴族として、領主として為さねばならないことを為したからこそ、彼の領地に住む人はランドンという脅威に立ち向かうことができたのだ。父親が為した結果の一つを、ノエは直接自分の目で見てきた。だからこそ、今では父親をただの卑怯者だと罵ることはできなくなっていた。
「ただの名誉のために、人を傷つけるなんて間違っている、と地位も権力も持たない僕らは言える。けれども、彼らは領主や貴族としての名誉の中に、より大きな責任を背負っている」
 そこで一つ言葉を飲み込んで、ノエは言う。
「もっとも、だからと言って、大きな成果のために少数の犠牲には眼を瞑れとは言いたくないし、必ずしも理解しなければいけないとも僕は思っていない」
 ノエやオデットたちのように、自分とその周辺の者だけを慈しんでいればいい者と、貴族として、領主として、為政者として立たねばならない者では視野も視点も大きく異なる。
 一概に、貴族が全て危険な人物であるとは言えない。しかし、だからと言って彼らが強権を振るった時に大人しく従うつもりもない。
 厳しい視線を向けるノエに、オデットはごくりと唾を飲む。
 彼女の緊張を察したのだろう。ノエはふっと相好を崩し、
「今の僕が言えることは、不必要にオーバンさんに敵視されないように気をつけておこうってことくらいかな。必要な話を聞かせてもらえば、僕たちはそれでいいんだから」
「わたしも、兄さんの意見に賛成です。エメーヌさんやディアヌさんを怖い目に遭わせた人だって思うと、敵のように感じてしまいますが……
 敵だ味方だと綺麗に線引きができないことなのだと、オデットもこの数ヶ月の旅路で理解させられた。
 ノエの真似をして、オデットもいくらか肩の力を意識して抜いてみる。
「先に話をしておいてよかったです。オーバンさんが何をしたかを思い出した上で、わたしはあの人からお父さんの話を聞くんだって思えますから」
「オデットは、お父さんについて思い出せていることはあるのかい」
……いいえ。兄さんのおかげでたくさんのことを思い出せましたけど、わたしの過去の中には、わたしにも分からない部分がまだ眠っているみたいなんです。ひょっとしたら、わたしの記憶を全て取り戻しても分からないことかもしれません」
 エヴラール家の没落当時、オデットは赤ん坊だったのだ。生まれたての赤子では、政治的な駆け引きはおろか、自分の親の顔すら覚えていなくても仕方ない。
「思い出さなくても、わたしはそれなりに満足した生活を送れると思います。事実、兄さんや皆さんとこうして一緒にいられるだけで……わたしは、満たされている、と思いますから」
 少しばかり恥ずかしげに俯いてから、オデットは己の気持ちを吐露する。
「それでも、自分が何者かを知らずに生きるのは、足元が見えないまま歩き出すようなことでもあるんだって……今はそう思っています」
 ゲルダだったら、己が何者であってもあっけらかんと受け入れるのだろう。自身が竜の亡骸から生まれた影だと知っても、さして態度を変えなかった彼女の姿を思い出す。
 かつてのオデットもそうだった。自分が何者であるかはどうでもよかったし、今とは異なり、むしろ己の記憶から遠ざかろうとしていた。
 過去を思い出してしまっては、ノエたちとの関係が変わってしまうかもしれないと、過去の己と今の自分を切り離そうと意識したが故の拒絶だった。
「過去と今は全く繋がらないものだと、昔のわたしはそう思っていました。でも、今のわたしを作っているのは、どうあっても過去のわたしなんです。イシュガルドに来てから、わたしはそれに気がつきました」
「僕は、君に選択肢を与えるためにも、過去を思い出すべきだと言った。今も、その考え自体を間違っているとは思わない」
 意図的にオデットを無知な状態に置き、己の心を満たすために飼い殺しとする。最も楽な道ではあっただろうが、それはノエには到底許し難いことだった。
 オデットに記憶を取り戻させる。あるいは、思い出せなくても、かつての彼女の関係者と顔を合わせて、オデットが自分で己の道を決める時、ノエ以外の選択肢があることを知ってもらう。
 それが、ノエの旅の目的の一つだ。
「過去のオデットだったら、選んでいたかもしれないこと。今のオデットだからこそ、選べること。どちらを選んでも、君が選んだことである以上、言葉を挟むつもりはなかった」
 ノエはふ、と口元に笑みを引く。
「その上で、君が僕と共にいたいと望んでくれたことは、嬉しく思っている」
 だけど、と彼は声を曇らせる。
「僕は、君にとって忘れたかったことすら暴いてしまった。この旅にはそういう側面もあったことも、僕は自負しているつもりだ。……だから、オーバンさんと話すことも、そういう結果になるかもしれない」
「でも、行かない方がいいとは言わないのですね。行かないでくれ、とも兄さんは言わない」
 オデットの確認に、ノエは間髪入れず頷いた。
 出会ったばかりの頃ならば、ノエはオデットを護るという責任を重要視するあまり、オデットが何を聞き、何を考えるかすらも制限しようとしたかもしれない。
 だが、今はもう、ノエは目の前の少女がそこまで軟弱ではないことを知っている。彼女が望まない限り、その目や耳を塞ごうとは思っていない。
「もし、わたしがオーバンさんの話を聞いて、傷つくようなことがあったなら、その時は以前のようにわたしのそばにいてくれますか」
 川で溺れかけた時に思い出した、恐ろしい記憶に呑まれそうになった瞬間を思い出す。あのとき、ノエはオデットが歩み寄れるまで待ってくれていた。
「最初からそのつもりだよ。途中でオデットの気が変わったなら、たとえ地の果てまであの人が追いかけてこようと、僕は君を守ってみせる」
「たしかに、地の果てまで追いかけられるのは、少し怖いですね」
 強面な印象が拭えない豪胆な老人が、世界の果てまで走ってくる姿を想像して、オデットは思わず笑みをこぼす。老人ではあったが、あの場にいた誰よりも健康そうな彼ならば、本当に走ってきても不思議ではなさそうだ。
「それに、今のオデットはすごく頼もしいから、むしろ僕を置いて先に行ってしまうかもしれないね」
「むう。そんなことしませんよ」
 冗談だと分かりつつも、オデットは唇を尖らせる。
「僕は、どうものんびりしているところがあるようだからね。オデットに追い越されてしまうかも」
「わたしだって、兄さんみたいにのんびりしてます。だから、大丈夫です」
 ノエの冗談めかした言葉に、オデットは拗ねたように唇を尖らせる。
 自称のんびり屋のノエから差し出された手を、彼女は迷うことなく取る。常の彼より半歩小さい歩みは、二人の体格による歩幅の差を埋めるためだ。
 二つ分の大きさの違う足跡。点々と連なるそれらは、雪に埋もれるまで、墓地に刻まれ続けていた。
 
 ***
 
 明日の朝には、シュガーグレイヴからの出立が控えた夜。誰から言うわけでもなく、六人は談話室に残り続けていた。
 宿で顔見知りとなった主人と他愛のない雑談をして別れを惜しみ、何度か顔を合わせた利用客と近況を話し合う。互いの名前すら知らない関係の者も大勢いたが、おそらくはこれきりの出会いであると思うと、知らず知らず名残惜しさが生まれていく。
 そうして、暖炉の前に陣取ってちょっとした盛り上がりを見せる者たちもいれば、談話室の隅で少しばかり冷めた薄味のワインを、グラスに入れて傾けている者もいる。
「ルーシャンさん。ご一緒してもいいですか」
「構わないが、嬢ちゃんはあっちに行かなくていいのか」
 ちょうど、誰かが冗句でも言ったのだろう。どっと笑い声が響き、暖炉のそばには、いかにも楽しげな空気が溢れかえっていた。
「挨拶はちゃんとしておきましたから。それに、こうやって遠くから皆さんの様子を見ているのも好きなんです」
 オデットは茶の入ったマグを小机に置き、ルーシャンの向かいに置かれた椅子に腰を下ろす。本人の言うように、盛り上がる一同を目にしている彼女の横顔は穏やかだった。
「ルーシャンさんも、遠くから見ている方が好きなのですか」
「似たようなところだな。挨拶回りはちゃんとしておいたさ。それに、俺の場合はあっちがね」
 ちらりとルーシャンが見やった先では、談話室に置かれた平べったくなったソファに丸くなって寝ているサルヒがあった。彼女は、賑やかな場に混ざり込むのを苦手としていたので、逃げるようにソファに避難していたのだ。そのうち、疲れが勝って眠ってしまったらしい。
「最近は、いろいろありすぎて、気疲れしているみたいだったからな。起こされないように、見張っているんだよ」
 その疲労の理由のうち、九割は自分のせいであるとルーシャンは自覚している。だからこそ、悩みから逃れられる眠りの時間を守る役割ぐらいは、自分が果たすべきだと思っていた。
 ルーシャンの視線を知ってか知らずか、サルヒはもぞもぞとソファの上で位置を変え、背もたれに顔を埋めるように寝返りを打った。動いた弾みで体からずれてしまった薄地の毛布をかけ直すために、ルーシャンが一度立ち上がる。
 彼が戻ってきて、再び腰を落ち着けたのを確かめてから、オデットは密かに抱いていた質問を彼へとぶつけることにする。
「あの……ルーシャンさん。お願いがあるんです。ルーシャンさんに、お父さんのことを聞いてもいいでしょうか」
 父親のことを知るために、オーバン・ド・ニヴェールの元に向かう。次なる地への出立と目的が定まったことにより、オデットは父親という存在を以前より意識するようになった。
 そして、父を知っているのはあの強面の老爺だけではないのだ。
「そりゃ構わないが、お嬢ちゃんはオーバン爺さんから親父の話を聞こうと思っているんじゃないのか」
「はい、そのつもりです。あの方しか知らないお父さんの顔もあるでしょうし、ご友人であったのなら、お父さんが若い頃のことも知っているかもしれません。でも、それならルーシャンさんだけが知っているお父さんの顔もあるってことだと思うんです」
 そこまで言葉にしてから、オデットは質問をしようとしたきっかけを見つめ直す。
 オーバンと出会ったときから、オデットの胸中には、小さなもやもやとした不安がうずくまっていた。
 ノエは、オデットがかつての自分より先に進む強さを持っていると言ってくれた。だが、薄暗く暖かな場所に閉じこもり、外に出るまいとしている怖がりな己が消えたわけではないことを、オデットはよく知っている。
「お父さんのことは、わたしも知りたいとは思っています。でも、わたしにとって、わたしを一方的に知っている誰かの存在は、何だか怖いものでもあるのです」
 母やミラベルのことが嫌いなわけではないが、彼らのことを思い出した直後、オデットは何度も自分が自分ではなくなるかのような不安を抱いた。
 過去の記憶と今の自分を馴染ませる過渡期に生じる一時的な感覚であったとしても、喜んで受け入れたいものでもない。
「ですから、いきなり知らない人から教えてもらうより、ルーシャンさんに教えてもらってからの方が、少しは安心できるような気がしたんです」
「たしかにそうだな。自分の父親だなんだって言われても、結局は赤の他人だ。そのくせ、血のつながりなんてものがあるから、なまじっか知らんぷりもできないってか」
 こくこくと頷くオデット。母親のことすら、最初は思い返すのを忌避していたほどだ。慣れ親しんだ今の自分に新たな人間関係を加えるには、どうしても心構えが必要になる。
「だが、いざ話すとなると、さて何から話したもんやら」
 ルーシャンは姿勢を改めて、いつになくまじめ腐った顔で思案する。
 彼にとってはすでに故人となった家族の話だ。すんなりと話し始めるとはいかないのだろうと、オデットは彼が再び口を開くのを待っていた。
 やがて、一分ほどの時間を置いてからルーシャンは語り始めた。
「親父は……子供っぽいところがある人だった。他の連中からどう見られていたかは知らんが、俺にとって親父は大人になりきれていない子供みたいに見えたものだ」
 指先で古びた机の木目をなぞる。無意識に繰り返されるそれは、取り出した思い出を何度もそっと撫でているかのようだった。
「邪竜を撃墜する魔法を編み出すことは、エヴラールっていう家の悲願だった。だけど、どんな人間にだって好き嫌いってやつがある。魔法が好きなやつもいれば、そうでもないやつが当主になったこともあっただろう。それを思えば、親父はあの家に生まれるべくして生まれた人だったんだろうな」
「ということは、魔法が好きな方だったんですか?」
「好きなんてもんじゃない! あの人にとっちゃ、魔法っていうのは殆んど自分の人生と同等の意味を持っていた」
 多くの魔道士は、魔法を『手段』として用いる。身を守るため、暮らしを便利にするため、など目的は様々であっても、魔法は過程にしか過ぎなかった。
「あの人は、魔法という現象で何ができるのか、エーテルを使った魔力操作は世界にどんな変化を与えることができるのか、考えて考えて考え続けるのがどんな美味い飯を食うよりも好きな人だったんだ」
 だから、なにか新しい閃きを得るたびに寝食を忘れて取り組むことなど日常茶飯事だった。
 だが、不幸なことに、エヴラール卿の血のつながった息子たちは、魔法に対してさしたる興味を持たず、その才能も凡庸なものだった。
 そのため、エーテルを操る才能に優れた子供だったルーシャンは、幼いながらも養父の研究に付き合わされることになった。貴族の血すら引かない貧民街出身の子供を養子にした理由は、エヴラール卿が自分の研究に付き合わせるためだからだと囁かれたこともあった。
「あの人に付き合うと、寝る時間も飯を食う時間も、何もかもが全部すっ飛んでいっちまうんだ。新しい魔法に出会うこともあったが、大概は親父の些細な思いつきからの実験だったわけで、ほとんどは失敗に終わっていた。俺の魔法体系も、偶然と閃きでなんとかモノにしたんだ。そうしたら、親父は自分の理論が正しかったって、それはもう大喜びでな」
 困った人だったと語るルーシャンは、オデットが知らない顔をしていた。嬉しそうに顔を綻ばせ、まるで彼自身も何十年も若返り、子供に戻ったかのような。
「だけど、親父はずっと遊んでいたわけじゃない。あの人は、あの人なりに真剣に邪竜を滅ぼす魔法を編み出そうって考えていた。俺も見せてもらったことはあるが、一進一退の研究の成果は、到底一人の人間じゃ考えつかないほどに綿密で複雑なものだった」
 魔法を道具や手段としてしか用いてこなかったオデットには、想像すら難しい規模の大きな話だ。だが、そこには確かに長い間積み重ねてきた魔道士の研鑽と苦労の集大成があるのだろうとは想像できた。
「邪竜を倒すことは、イシュガルドに生きる人が皆望むことなのですね」
 先日出会った竜――エレオノーラの言葉を、オデットは思い出す。彼女は、邪竜の憎悪は非常に強い者だと語っていた。同胞の竜すらあのように言う憎悪とは、果たしてどれほど深いものなのだろうか。そして、それを向けられてきたイシュガルドの人々は、どれほどの苦境に晒され続けてきたのだろうか。
「邪竜さえいなければ、より良い暮らしが待っている。誰もがどこかでそう思っているだろうし、親父もその一人だった。大昔のご先祖様が少しずつ進めていった魔法の研究を生涯をかけて進めて、自分の代では叶えられなかったとしても、いつかは……ってな」
 微かに声が憂いを帯びたのは、大願が成就される場面を目にすることなく道半ばで斃れてしまった養父を想ったからか。
 オデットの気遣わしげな視線に気がついたからか、ルーシャンは「ともかくだ」と話の空気を切り替える。
「俺は親父の研究を継ぐために、あの人の息子になった。自分の血のつながった息子たちは魔法には興味がなかったから、俺みたいに魔法の才能があって、魔法自体にもそれなりに興味があるやつと一緒にいるのは親父も楽しかったんだろう。おかげで義兄らには、白い目を向けられていたものだ」
「まさか、いじめられていたのですか?」
「いやいや、あれはどっちかというと『また親父の悪い癖が出ている』と呆れてる感じだった。もとより、俺は継承権には縁のない形で養子になっている。恨まれる理由がないんだよ」
 これが血のつながった庶子ならそうはいかなかったのだろう、とオデットは思う。それとも、ルーシャンの語るエヴラール卿は、その部分においても無頓着な人物だったのだろうか。
「ルーシャンさんにとって、お父様はとても大事な方だったのですね」
「お嬢ちゃんにそういう風に言われるのは、何だか面映いが……一言で言うなら、そうだな。普通の知り合いの範疇には収まらない人だったのは確かだ」
 たとえ十五年の月日が流れようとも、思い出すだけで心が子供の頃に戻る。ルーシャンにとって、養父であったエヴラール卿はそのような人物でもあったことは、オデットにもひしひしと伝わってきた。
 ルーシャンの父へと向けた感情が分かってしまったからこそ、自分が次に口にしたいと願う質問を言葉にしていいか、オデットは暫し逡巡した。血はつながらなくとも、ルーシャンが自分の兄であると分かったときから、オデットはこの質問を胸に抱えていた。
 オデットの躊躇を察したのか、ルーシャンは穏やかな眼差しで質問を待ってくれている。故に、オデットは彼の厚意に甘えることにした。
「ルーシャンさんがわたしに色々と優しくしてくれたのは、お父さんの娘だって知っていたからですか」
 聞いてしまった、という気持ち。聞かなければ、ずっと気になってしまっていただろうから、今のうち聞いてよかったという安堵。それらが混じり合った言葉は、不安に揺れていた。
 一方、ルーシャンは意外な質問をされたと言わんばかりに、何度も素早く瞬きを繰り返した。
「親父の娘だから、俺に優しくされているって?」
 こくりと一度頷く。それでもまだ納得がいかないように、ルーシャンは暫く眉を寄せていたが、やがて本人も納得したようにうんうんと首肯をした。
「一応言っておくが、俺はお嬢ちゃんが親父の娘だと知る前から、優しくしていたつもりなんだがな。自分で言うのもどうかと思うが」
「あ……ご、ごめんなさい。裏があると疑っているわけではないのですけれど」
 だが、結果的には同じことだ。オデットは、ルーシャンの優しさに理由があると、考えてしまったのだから。
「とはいえ、俺がいきなり兄だとか言われれば、気になっちまうのも仕方ないか。お嬢ちゃんには納得いかないことかもしれないだろうし、俺自身全く影響がないとは言い切れない。でも、俺が親父のことを考えながらお嬢ちゃんの世話を焼いていたわけではない。これが、今の俺が言える嘘偽りない本音の言葉だ」
 考えてもみれば当たり前だ。オデットにとって、ルーシャンは出会ったときから好感の持てる人物だった。
 魔法の修練の最中は厳しいところもあったが、時にわざと道化役を買って出て場を和ませ、時に皆を牽引するリーダーとして意見をまとめた。ヤルマルに続く高年齢の仲間として、感情的になりがちなノエやオデットを嗜める役割も率先して受け持ってくれた。
 オデットの知るルーシャンが見せた振る舞いに、今も昔も差はなかった。それだけで、すでに十分な答えになっている。
「そうですよね。ルーシャンさんは、最初からわたしや兄さんに親切にしてくれました」
「改めて、そう言われると、おじさんとしては恥ずかしいんだけどなあ」
「ですけど、事実ですから。だったら、ルーシャンさんは誇ってもいいと思います」
「若人らからの称賛で図に乗るような子供じゃないのさ、俺は」
 わざと大人ぶった風な笑みを浮かべながら、ワインの入ったグラスを傾けるルーシャン。彼の仕草に、オデットはくすくすと笑いをこぼす。その姿は、むしろ大人ぶってお酒を嗜もうとする子供のようだった。
「それなら、もう一つ大人のルーシャンさんに聞いてもいいでしょうか」
「おうおう。大人の俺がちゃんと答えてやるよ。また親父のことか?」
「いいえ。知っていたらでいいのですけれど……ルーシャンさんは、わたしのお母さんに会ったことはありますか」
 質問してみたものの、オデットにはすでに答えが読めていた。
 昨日も彼が語ったように、家の主人は愛人の存在すら気付かせないことが、一種の美徳であるとすら言われているようだ。ならば、家族の一員だったルーシャンは、オデットの母親の存在は察していても、対面したことはないはずである。
 ルーシャンは目を細め、透明度の薄い濁った硝子のグラスを片手で遊ばせる。ほとんど残っていないワインの表面を眺めてから、彼は言う。
「いいや、会ったことはないな。どんな風にあの親父と付き合っていたのか、少し興味はあったが」
 そこで言葉を途切れさせ、彼は「ごめんな」と謝る。謝罪などとんでもないと、オデットは首を横に振った。
「もしそうだったら、ルーシャンさんからお母さんのことも聞けるかもって、そう思いついただけですから」
「お嬢ちゃんは、もう母親のことは思い出したんじゃないのか?」
「朧げに覚えてはいますけれど、小さい頃の記憶ですから。覚えていないところも多いんです」
 母親の記憶の喪失は、記憶を一度失ったことが原因ではない。幼い頃の記憶とは、意識せずとも風化していくものだ。
 幼い頃に母を失ったオデットは、母との思い出を新たに作ることもできないため、ただただ薄くなっていく母との記憶を見つめ続けることしかできないのだった。
「だから、もしお母さんが生きていた頃にルーシャンさんが出会っていたらと思ったのですけれど」
……悪いが、そいつに関しちゃ、今の俺には手伝えなさそうだ。さて、そろそろお嬢ちゃんも休んだ方がいいだろう」
 ぐいっとワインの中身を全て呷り、ルーシャンは乱暴に手の甲で口元の液体を拭い去る。それは同時に、この団欒の場の終わりを告げていた。
 ルーシャンにお礼を告げてから、オデットは席を立ち、暖炉の前に集う冒険者の中から、ノエを見つけて声をかける。
 以前よりも物おじせず、人々の輪の中に紛れていく少女の背中をルーシャンは目を細めて見つめていた。さながら、知り合いの娘から、かつての面影を探し出そうとするかのように。