織音
2025-05-25 20:46:33
12458文字
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虚ノ籠

「また『明日』」
壊れてしまった指揮官とその傍にいたいリーの話。
救いはない。IF軸。リーは超刻機体。
本当に僅かに創作指揮官の外見に関する記述があります。
エデンの祭日Ⅱ開催おめでとうございます。
このお祭り的な雰囲気の中、メイン展示が苦しい話ですが、賑やかし程度になれれば幸いです。

 視界が赤く染まる。
 仲間が、為してきた全てが、押し寄せる赤い闇の中に跡形もなく崩れ落ちてようやく、失敗したということに気が付いた。
 何を、どこで間違えたのだろう?冷静に判断する間もなく撤退を強いられた。その撤退の過程で幾つかの戦場を歩いた。一つ、二つと喪失を続けながら。
 そして無情にも訪れた二回目の失敗。僕たちは鴉の翼を失った。失って、しまったのだ。目の前で。
「どうか生きてください、指揮官」
 その言葉だけを残して砕け散る機械の体躯とその手から滑り落ちていく戦術刀。機械片に乱反射する光。アスファルトを濡らす血液によく似た彩度の高い液体。数秒前の綺麗な、笑顔。
るし、あ?」
 掠れた声が聞こえた。絶望に染まり切ったような声。ああ、いや、そんなのどうでもいい。ただ、目の前でルシアが。
 赤いメッシュの入った黒髪が千切れ、風に攫われる。いかないでと手を伸ばしても、指の隙間をすり抜けてこの手には何も残らなかった。
 一体何を、間違った?
 僕たちは最善を尽くした、はずなのに。数え切れない失敗と犠牲が絶望という錆を全ては無意味だと言わんばかりに心に塗りつけていく。
 そんな戦場で生き残る度、まるで『主人公』のように誰かに生かされる度、僕の中に残されるのはほんの僅かな生にしがみつく本能と失敗する度に膨れ上がり、掻き消しようのない希死念慮と罪悪感。生きたい。死にたい。息をしていたい。息を止めてしまいたい。命が終わる瞬間まで絶えることのない拍動に苛まれながら、逃げるように歩き続けた。
 歩いて、歩いて、歩いて。喪失を続けて歩いた果てに、何かが折れる音を聞いた。折れて、曲がって、二度と元に戻れなくなったその瞬間、足が動かなくなってしまって。
 始点と終点の間の色をしたアスファルトの上に横たわって意識が途絶えてまた、白いベッドの上で目が覚めたから。
 ああ、これで『失敗』したのは何回目だろう?分からない。考えたくない、数えたくもない。
 いつまで苦しめば終わるのだろう。早く、早くこの苦痛が終われ。僕はそうやって籠の中でひとり待ち続けている。

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 硬質な悲鳴とともに、小さな機械が砕け散った。
 壁に叩きつけられ、位置特定装置だった機械の破片がばらばらと散らばる。これも、壊したのは何度目だろう?分からない。もう数えることさえやめてしまった。
………
 未だこびりついて消えない、悲鳴の残響。キンと貫くような耳鳴りに眉を寄せた。うるさい、何も聞きたくない。
 腕に繋がっていた点滴の針を引き抜き、物が少ないクローゼットを開く。そこにあるのは硝煙の匂いが染み付いた制服と幾つかの衣服。刹那、フラッシュバックのように色褪せた戦場が浮かぶ。
 灰色のアスファルト、それを濡らす鮮血と循環液、人型をしていたはずの機械片と物言わぬ人型の肉塊、赤い潮水とああ、思い出したくないのに。全てを振り払うように適当な上着を手に取った。きっと外の空気でも吸えば少しはマシになるはずだ。できる限り安静にしているよう言われているが、構うものか。
どうせ治らないんだ」
 体の傷が、治ったとしても。
 そう言う自分の声は酷く掠れていた。そういえば数日間、食事どころか水分も摂っていなかったんだったな。それなのに『空腹感』を感じないのはどこかが壊れてしまったのだろうか。そんなことも、今は全部どうでもいい。きっと今頃、位置特定装置の信号がロストしたことに気付いて動き出している頃だろう。脱走の真似事がしたければ此処に突っ立っている暇は無い。
こんなことしても意味ないのにね。馬鹿みたいだ」
 馬鹿みたい。その言葉の向く先は飽きもせず脱走の真似事を繰り返し療養を拒む自分か、毎回嫌な顔一つせず部屋に連れ帰ってくれる傍らの青い影か。きっとそのどちらでもある。
「もうどうだって良いはずでしょう」
 誰にも届かない言葉を呟く。言葉の行く末も見ないまま、逃げ出すように自室を出た。
 靴を履いて扉を開き、宿舎棟から外に出た瞬間。夏を思わせるような強い陽光が目に刺った。遮光カーテンを閉め切った部屋にいたせいで気付かなかったが、空は澄み切った青だった。雨だって良かったのに、こんな晴天を選んだ生態システムを睨みつけるように空を仰ぐ。
 しかしこれはたった一時の現実逃避。ただそれだけに過ぎないのだから、天気なんてどうでもいいや、と踏み出した一歩は驚くほど軽やかで。
 珍しく人の群れの中を、幾つかの通りを、居住区を行くあてもなく歩いた。以前は変装無しで歩けなかったというのに、そんなこともせず、人の目も気にせず歩けるとは実に快適だった。
 なにより、眩しかった。光が、日常が、人々が目を瞑りたくなるくらいに。
 僅かな羨望と居心地の悪さを感じながら歩き続けて、一体どれくらい経ったのだろう?最終的にたどり着いたのは空中庭園の中でも珍しい空きビル。長年放置されていたのだろうか、網目のような転落防止のフェンスは錆びていた。それを掴めばかしゃん、と軽い音が鳴る。
 聞こえるのはその音と自分の呼吸の音だけ。
 ここの屋上はいかなる喧騒も届かない、静かで数少ないお気に入りの場所。とはいえこのまま現実逃避を続けたければ長居はできない。恐らく、もう
 ああ、ほら。
 かつん、かつん、と誰かが階段を登ってくる音が反響し、余韻を残して消えていく。階段を登ってくる人物、それが『誰か』なんて既に分かりきっている。
 ガチャン、と現実逃避の終わりを告げる硬質な音が背後の扉から響いた。扉が開かれる軋むような音と足音。いかなる喧騒も届かない、静かなこの場所では僅かな息遣いすら互いの耳に届いてしまいそうだな、なんて思う。
「指揮官」
 今一番、聴きたくて聴きたくない声が鼓膜を震わせた。聞き慣れたその声の正体を、わざわざ振り向いて確認するまでもない。
リー、か今回もお早い」
 まだあの部屋を出て1時間それどころか30分も経っていないのではないだろうか。時刻を確認する術など、今は持ち合わせていないが。
「相変わらず、安静にしているつもりはないみたいですね」
 小さな溜め息混じりの小言。その溜め息と小言の裏に心配というものが隠されていることを知っているのは、ひとえに付き合いの長さによるものだ。
「生憎、もう自分の体を大切にする理由なんてなくなったんだ」
 そんな心配を一蹴するような言葉をわざと選んだ。
 此処に来た目的は分かっている。今度はこちらが溜め息をつく番だった。
「連れ戻しに来たんだろう?さっさと帰ろう」
抵抗しなくなりましたね」
 は、と乾いた笑いが零れた。誰も見ていないその目はきっと、零れた笑いと同じくらい酷く乾いている。
「抵抗したら此処に置いていってくれるの?」
 リーは黙る。実際、泣き喚こうが最終的にはあの部屋に戻される訳だし、抵抗したとしても何が変わるわけでもない。
 ただ、あの鳥籠にも似た部屋に戻って療養する。酷く退屈で味気ない、透明な日常。それに戻るだけで良いと、誰よりも自分が一番良くわかっている。
 それともと屋上の端、転落防止のフェンスに背中を預け体ごとリーがいる方へ向けてようやく向き合うような形になる。フェンスががしゃん、と先程よりも強い音を立てた。
「単に連れ戻しに来たんじゃないなら、此処から突き落として殺してくれるのかな?」
「っ、そんなこと」
「分かってる、冗談だよ。相変わらずやさしいね君は」
 やさしいねと、そう言う声には驚くほど感情が籠もっていなかった。リーはやさしい、それは事実だろう。多くの傷を負ったこちらの体を気遣っては毎日毎日様子を見に来る。過去、僕がそうしていたように。
 それが煩わしいわけじゃない。嫌なわけでもない。その優しさに支えられている部分だって確かにある。しかし、本心を言えば苦しいのだ。どうして『まだ』、こんなに優しくしてくれるのだろう、と。
君が僕のことを気遣う義務も必要も、もうないはずだ」
 僕はもう、君達の指揮官じゃない。
 一瞬、アイスブルーが哀しげに揺れる。そういえばリーフも同じような表情をしていたな。
 心を砕いて、真剣に向き合おうとしてくれる優しい彼らに彼に、こんな突き放すようなことを言うなんて。僅かながらに残った良心が痛むが全て本当のことだ。
 僕は、もうレイヴン隊の指揮官ではない。
 スターオブライフの病室から自室に移り療養を始めた日から、自ら指揮官という職を辞した。
 体の傷だってもう半分以上は治っている。幸いにも後遺症も残らなかった。前線に復帰することだってきっとできる。今までのように戦うことだって不可能ではないのだろう。そしてそれを『人類』から望まれていることも、分かっている。
 しかしそれが出来ないほど僕の精神は弱り果て、淪落していった。
 銃を持つことが出来なくなった。しっかりと整備され、長年戦場を共に歩んで来た愛銃。それを手に取ろうとする度に手の震えが止まらなくなる。あれほど鍛錬した戦術刀だって今は満足に扱えない。かろうじて指揮は執れるだろうが、戦場にいるのに自衛もできないのであれば足手まといにしかならない。
 どう呼ばれようがあまり興味は無かったが、『首席』、『人類の英雄』なんて呼ばれた人間がこの体たらくとは。自嘲するように口角を歪めた。
帰って。『グレイレイヴン』の英雄がこんなところにいるべきじゃない」
 その『英雄』なんてものも、レッテルでしかないのに。他人が勝手に期待して救ってくれと祈り、地球奪還の為の旗印の役割を押し付けただけ。大衆によって祀り上げられ、本来の『そのひと』を無視した愚かしく脆い幻影。痛いほどそれを知っているのに、それを彼に押し付ける自分もまた大衆と同じなのだろう。
 自己嫌悪に苛まれ、居た堪れなくなった人間は構造体の横をすり抜けてあの部屋に戻ろうとした。空気みたいな色をした、意味の無い日常に囚われる人形に戻ろうとして、それを連れ戻しに来たはずの青い構造体に阻まれる。
待ってください」
 掴まれる、というより包まれるという方が正しいくらい、柔らかな力で引き止められた。こんな拘束、容易に振り払える、はずなのに。何かがその手を振り払うことを拒んだ。
帰ってと言ったはずだよ、リー。それともまだ何か話したいことでも?」
 もう話すことはない。言外にそう滲ませながらリーへ視線を向ける。こちらを見つめる青にはまだ、夜明けのような希望を探し歩く強さが宿っていた。絶望に身を染めた今の僕には、眩しすぎるほど。
「話したいことなら山程ありますが、どうせ聞かないでしょうね」
「そうかもしれないね」
貴方もこのままではいけないことくらい、分かっているんでしょう」
そうだね」
 そんなこと、ずっと前から分かっている。
 だが、あの籠の中で療養を続ける自分に何ができる?点滴という糸に縛り付けられ、二度と戻らない壊れた心を抱えて指揮官という職を辞した今、司令部へ配属出来るとも到底思えない。
 僕はもう堕ちた。この背にあった翼は折れたいや、本当はこの背に翼など最初からなかったのだろう。
……今の僕に、できることなんて無いんだよ」
「それなら、僕が貴方の想いを背負います」
 リーは、優しすぎる。どうしてここまで突き放されても尚、寄り添おうとしてくれるのだろう。
「じゃあ、僕の苦しみも背負ってよ」
 優しくこちらを引き留めていた手を取り、自身の心臓に近付ける。
 全部、その目に映すと良い。そして失望してしまえば良い。君が背負えるものなんて何一つ無いと。
「僕の傷に触れてくれよ」
 体に刻まれた傷跡という烙印を、その冷たく優しい指で触れて。しかし彼が、自分だけのものである痛みを理解することは叶わない。
「その目で見て」
 もう二度と癒えることのない心を、君の綺麗なその目で見て。しかし彼が、自分しか知り得ない苦しみを理解することは叶わない。
「ねぇ、リー」
 そして気付いて。君が永遠を約束した『僕』はもう、何処にもいないということを知ってしまえば良い。しかし今、どんな想いで彼の名を呼んでいるかなんて彼が理解することは叶わない。
 今、此処にいるのは欠陥品に成り下がったもの。心さえ壊れて元の姿で生きられない幽霊にも似たもの。二度と元通りになんて戻れないまま、廃棄されるその日を待ち続けている。だからもう僕に構わないで、欲しい、のに。
………助けてよ」
 ああ、また失敗した。
 彼の前だけでは零すまいと、必死に演じ、飲み込んで、押し殺してきた言葉までもが、崩れるように落ちてゆく。
 どうして、いつも上手くいかないのだろう?リーが心置きなく僕から離れて行けるように頑張ったはずなんだけどな。
「苦しいんだ、ずっと」
 震える唇から、次々と零れ落ちていく。
 握り締めて強く爪を立てた左の前腕から血が滲み出す。痛い、なんて正常な感覚は忘れてしまったらしい。滲み出る血を見ても、もう何も感じない。
「僕は、僕たちは、何を間違ったの」
 秘め、押し殺し続けた慟哭。絶望の錆にまみれた慟哭は心と同じように崩れ落ちる寸前だった。
「どうして、僕は……生き残っているの」
 それは、サバイバーズギルトにも似ていて。
 目の前を覆い、無情に繰り返される赤い闇の中に潰えていく戦場のフラッシュバック。誰かの悲鳴の残響が、体を貫く無機質な痛みが、血腥い硝煙の匂いが、濡れたアスファルトの感触が、ざらざらとした砂の味が。鮮明すぎるくらい全ての感覚に焼き付いている。未だ、あの戦場に立っていると錯覚するほどリアルに。
見たくないもう……耐え、られない、の……
 自分の指揮で、たった一つの間違いで命が容易に失われる。失われて、いってしまう。
 今までだって、自分の手から零れ落ちた命はたくさんあった。目の前で散った命だって、たくさんあった。それでもちゃんと生きてきた。弔い、敬意を払い、彼等が望んだ未来へと彼等の名を連れて行くために、戦って、戦って、戦って。
「今まで、戦ってこられた、のにもう、戦えない」
 先に逝った者達が未来を託してくれた。たった一筋の光を、一縷の望みを僕たちに託してくれたのだ。それなのに僕は戦えも弔えもしない。足掻くことさえ今の僕には出来ない。
「それなのに……戦いしか知らない僕に、今何の価値がある?」
 今、この手に残っているものはなんだ?
 いっそ全てを手放して死んでしまえたら、もうそんなこと考えなくてもいいのだろうかなんて、震える指先で首元を撫でながら思う。
 死ぬことに対して恐怖はない。掻き消しようのない程に膨れ上がった希死念慮が、やさしい眠りに身を委ねてしまえと甘く囁く。今の僕にとって死ほど優しく、壊れた心を救ってくれる方法は無いのだと諦念が胸の奥を蝕んでいく。
 それでも自らの手が、自死を選ぶことはなかった。
「死に、たくても僕は死んだら、いけない
 目の前で灰の羽を散らして、翼を失ったルシア。彼女に託された『生きる』という行為を手放すことはどうしても許されなかったいや、自分が一番許せなかった。
「これが僕が為せる、贖罪」
 死ぬことも抗うこともできない僕に許された、唯一つの贖い。尽きぬ苦しみと心を苛む絶望とフラッシュバック。そして、希死念慮と生き残った罪悪感を抱えながら生きる。光を望むのも愚かなほど、目を刺すとも知らぬ闇の中を生きていく。
そんなに心配しなくても、僕はちゃんと生きるよ。ただ今までみたいに生きられないだけ」
「それならどうして、僕を遠ざけようとするんですか」
……君には、君の在るべき場所がある。それは僕の隣じゃない」
「どうして、そうやって勝手になんでも決めようと」
「っ、君は!」
 声を荒げて言葉を遮った。分かってる、君の言いたいことだって。でも、僕の隣に居続けること。それは最善じゃない。
君は、まだ戦える。皆がルシアが託した、未来を、選んでもう、僕になんか、構わないで」
 だから震えた声で、嘘をついた。
 本当は、傍にいて欲しい。ひとり壊れていくのが怖い。助けて。行かないで。此処にいて。君まで失いたくないと叫んでいる感情を、これは伝えてはいけないことだと警告する理性で蓋をして。
 そうやって伝えられない感情の全ては、涙という形で零れ落ちた。雫のせいで濡れ、色を変えたコンクリートは今の僕の心と同じ色をしている。
僕の分まで、戦ってくれよ」
 結局、僕に出来ることは君に『英雄』という重荷を背負わせて、戦場に立たせることだった。
「お願い僕を、救おうとしないで」
 それでも、変に傍に留め、壊れていく僕を憂いたり、レイヴン隊として共に戦場を歩き、無二の絆を結んでしまった僕を殺してくれと願うよりは良いはずだ
 そのはず、でしょう?ねぇ誰か、誰か肯定してよ。それでいいよって、誰だって、良いから。

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 少しずつ、『彼』が消えていく。そんな感覚がしていた。
 長年旅路を共にした赤き鴉の翼を失い、空中庭園に戻って白いベッドの上で目を覚ましてから。生き残ってしまった罪悪感からか日を追うごとにボロボロと擦り切れて、壊れていって。
「指揮官」
 今はもう、『彼』という意識すら残っているのかどうかも分からなかった。
 白く清潔なベッドの上、指揮官は座って僅かに俯いたままこちらへ視線を向けた。が、こちらの姿を認識しても以前のように「リー」と名前を呼んでくれることは無い。部屋を訪れた来訪者を歓迎も拒絶もせず、ただ見つめるだけで。
 感情が失われてしまったかのように微動だにしない指揮官の表情。白い肌も相まって、まるで精巧に作られた人形のようのように見える。
 しかし繰り返される瞬きと体に繋がれた点滴の管と左の前腕に滲む血と真新しい傷が、彼が紛れもない人間であるという事実を伝えていた。
……昨日、爪を切り損ねてしまいましたね」
 このような自傷にも似た行為は今までに何度もあったことだ。幸いなことに死に至るほどの怪我は今までなかったがその度に、戦場にいるわけでもないのに彼の体に増えていく傷跡を見て暗澹とした感情が心を覆うことを指揮官は知らない知るはずがない。
 ベッド横まで近くの椅子を寄せるついでに、部屋に置かれた救急箱を手に取る。指揮官はそれを何も言わず眺めていた。
 稀に自傷行為に及ぶ指揮官の為にと、毎日リーフによって確認と補充がされる救急箱はよく整理されていた。おかげで必要な物をすぐに取り出せる。
「手当てしますよ」
 傷口を広げてしまわぬよう細心の注意を払いながら、そっと前腕を握っていた手を解く。反応はなかった。
 意図的に自傷行為をしていたのか、それともそんなに強く腕を握らなければならないことがあったのだろうかと、爪と同じ形の傷を見てそう思う。
 右手で左の前腕を握るそれは指揮官が気持ちが不安定な時によくする、癖。
 だが、どうしたんですかと彼に問いかけたとして返事はおろか、声を聞くことさえ出来ないだろう。もう数カ月間、彼から呼吸の音しか聞いていないのだから。
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 意識海に一瞬だけ現れたノイズを振り払うように、柔らかく指揮官の手を取る。
………
 互いに沈黙を破る理由は無かった。無言のまま彼の前腕と指を汚す血を拭い、手早く消毒してから傷口を保護する。痛がる素振りは一切なかった。
 ただ、そこで息をしているだけ。
 普段と違うといえば、終始彼の視線が手当てしている前腕ではなく僕に注がれていたことだろうか。昔のような、こちらの感情の機微まで汲み取ろうとする温かさはもうなかったが。
爪も、切りましょうか」
 相変わらず返事はない。しかし拒絶しない以上は容認と捉える他ない。もしかしたら、拒絶する術さえ忘れてしまっているのかもしれないけれど。
 救急箱を片付け、必要最低限の物が纏められた用箪笥へ手を伸ばす。
 相変わらずリーフによる配慮なのか、元々物が少なすぎるのか。用箪笥の中はほとんどと言っていいほど物が入っていなかった。この箪笥も小さめな収納ではあるがここまで物が少ないとなるともっと小さな収納や箪笥でも良いのではないだろうかなんてあまり関係のないことを考えながら道具を手に取る。爪切りと爪やすり、ついでにティッシュ1枚。
動かないように」
 そんなこと言わなくても動かないだろうが。しかしいつか返事をするかもしれないと、藁にも縋るような思いで今も、そうやって声を掛け続けている。
 ぱちん、と硬質なものを切る音だけが部屋に落ちる。誤っても指を切ったりしないよう、慎重に。
 いつだったか、こんな風に爪を一度だけ整えたことがあった。戦闘中に割れた爪をまともに整えもせず業務に没頭するものだから、見兼ねて整えたのだ。
『すごい、綺麗に整ってる』
 その時の指揮官の表情は良く覚えている。せめて爪くらいちゃんと整えたらどうですか、という小言を浴びた後の表情も。次からはちゃんと整えるよ、なんて困ったように笑って。整った爪を見て嬉しそうにしていた、のに。
終わりましたよ」
 今は綺麗に整った爪を見せても反応を示すことはない。
 正確に言えば、『見ていない』のだ。ただ、『目に映している』だけで。
 綺麗に整えられた爪への興味を失ったのか、指揮官は視線を戻し再び、僅かに俯いたままこちらを眺める。
 その空虚な瞳に、もう僕は映っていない。
 『人類の武器』『兵器』『機械』『構造体』。それらのレッテルに囚われず、機械化され、人工的に再現された意識の奥で確かに息づく心を『見て』くれた指揮官はもう何も見てはいない。
 まだ貴方の目が僕を映していた頃。あの夏を思わせるような、生態システムが快晴だった日が脳裏に浮かぶ。
 僕は指揮官を救えなかった。いや、救わな、かった。
 彼が求める救済。それは壊れた心を無へと還すやさしい眠り死を意味する。
 しかし指揮官を救わなかった一番の理由、それは彼が望まず、拒絶したからに他ならない。
………
 そっと触れた指先。何処かへ行かないように引き留めた時の感覚と、あの日の彼の声が、まだ意識海の中に焼き付いている。
『僕の傷に触れてくれよ』
 貴方の身体に刻まれた、烙印にも似た傷の跡に触れた。しかし貴方の痛みを理解することは叶わない。
『その目で見て』
 目を逸らすことなく、貴方の空白になってしまった心を見ようと努力した。しかし貴方の苦しみを理解することは叶わない。
『ねぇ、リー』
 何度も何度も、意識の奥で僕を呼ぶ声を聞いた。しかしどんな想いで僕の名を呼んでいたのか、理解することは、叶わない。
………助けてよ』
 そうやって助けてと言ってくれた人はこの人の心はこの虚ろな籠の中で死んでしまった。
 生きる意味もなく、精神状態が良くなることもない。ただ安全で空虚な籠の中で飼い殺されていた。互いにそれが最善手でないことくらい疾うに知っていたのに、僕にはそれを維持することしか出来なかった。
助けて、なんて僕はどうすれば良かったんですか」
 彼の苦しみを背負うことも出来ず、結局あの日からもずっと、この部屋へ通うこともやめられないでいる。
 本当は、ずっと分かっていた。『助けて』なんて言われても、僕には何一つできないこと。それでも『何か』出来ることがあるのではないかと足掻いてしまった。最初から全て無意味だったというのに。
「本当に………本当に、貴方はもう、救われないんですか」
 死という形以外で、貴方が救われることはないんですか。
 いくら問いかけても、指揮官が言葉を返すことは無い。
指揮、官
 開けっ放しのままの遮光カーテン。窓から差す月明かりに良く似た機械的な光が、人形のような表情を照らす。その翳った薄灰の双眸は唯一つの結末を望んでいるようでもあり、なにも望んでいないようにも見えた。
 本当に指揮官を救う為に、残された方法はこれだけなのだろうか。
 指揮官の白い肌を撫でる。その肌は酷く柔く、脆く見えた。
 壊れそうな肌をなぞりながら、その首を両の手で包む。こんな細い首、きっと異合生物を殺すよりも容易に折れるだろう。
 この先は、なにも考えなくたって良い。
 過去に何十回としてきたことだ。それが、たった一回分増えるだけ。数々の命を奪うことで血に塗れ汚れていた指揮官が綺麗にしてくれたこの手で、その首を締め上げ、骨を砕いていくだけで良い。
 それならば何故、この手は酷く震えている?
………っ」
 構造体に不要なはずの呼吸が浅くなる。エラーアラートのように意識海が大きく揺れて苦しかった。
『僕を、救おうとしないで』
 指揮官は、きっと分かっていた。僕に貴方を殺せないこと。
……僕には、結局戦うことしか出来ないんですね」
『君には、君の在るべき場所がある』
 苦しげに、しかし見透かしていたような声が浮かんではまた意識海に消える。
「ずっと前から全部分かっていたんですか、指揮官」
 今になってようやく、あの日彼が言った言葉こそが答えだったのだと知った。
 少しでも僕が苦しまないように、憂いは少ないようにと努め、僕を疎むような演技までして。
 自分が壊れていくのを止められないと知ってしまって。きっと僕がそれを憂い、傷付いてしまうのではないかと気遣い、優しさ故に僕を遠ざけようとしていた。
 最後まで、誰ともその苦しみを分かち合おうとしないままで。
「一体貴方は……どれ程の苦しみを抱えていたんですか
 それを問うには、もう遅すぎた。
 機械の手に伝わる体温は温かい。首の動脈から感じる一定のリズムも、心臓の拍動の証。今も尚張り巡らされた毛細血管のひとつひとつに血液を送り出し、その生命を維持している。
 貴方が、生きている。呼吸をしている。それだけで酷く安心するのだ。しかしきっと、『指揮官に生きていて欲しい』なんていうのも僕たちのエゴでしかないのだろう。
 それでも、僕は希う。
 過去、貴方が望んだ結末の果て未来の中で、どうか貴方に生きていて欲しい。
 そして叶うならばもう一度、名前を呼んではくれませんか。貴方が特別にしてくれた、この名前を。
 そんな夢物語にも近い未来為に僕は選択したんですから。
「指揮官」
 拡大し続ける異災区、保全エリアを飲み込み続ける赤潮。人類の手に負えなくなり始めたパニシングへの抵抗のため、議会で決定され数日後行われる大規模な降下作戦。コードは『sacrifice』。
 それは白夜機体の時と同じ『犠牲』が前提の作戦。
 皮肉にもそれがレイヴン隊指揮官、ルシアを筆頭に多くの戦力を失った人類が、現在の戦力で取れる最善手だった。
 そしてその『犠牲』の最も近いところに、僕はいる。
 パニシングへの完全な免疫を持つこの超刻機体であれば、生き残る可能性がゼロという訳ではない。だが、その可能性は限りなく低いだろうと作戦概要を見てそう悟ってしまった。
 きっとこの戦いが終わったとしても、人類が本当の夜明けを見ることはない。
 ただこれは未来を切り開くための戦い。人類が望む『明日』という、重すぎる未来を。
貴方の傍にいられないことを、どうか許してください」
 そっと、指揮官の手を包む。以前までは包んだその手が優しく握り返してくれたのに、そうしてくれることは、もうない。
……最期くらい、もう一度僕を見て欲しかった」
 それもきっと、叶わない望みになる。
 これが、本当に最期になるのかもしれない。ルシアだけでなく、僕まで指揮官を置いて逝くのかもしれない。それでもグレイレイヴンとして、人類が望んだ未来を貴方が望んだ未来を掴む為なら。僕はこの機械化した拍動を触媒にして、重い『明日』という扉を開く焔となろう。
 ですから、もし。
「もし、『明日』という未来に僕がいなければ貴方が覚えていてくれませんか」
 せめてこの貴方に永遠を約束した名前だけでも覚えていて。だからもう一度だけ。過去に贈った言葉と全く同じ言葉を貴方に贈ろう。
「僕は『グレイレイヴンのリー』です」
 他の誰でもない、指揮官である貴方が率いたグレイレイヴンの隊員。貴方と共に戦った鴉の一翼。そして運命を共にしようと誓った、貴方の無二。
……永遠に、貴方の傍にいます」
 例え傍に在るのが、この名前だけだとしても。
 出発までのタイムリミットが迫る中、通信端末から通知音が鳴る。内容を確認せずともわかる。もう行かなくてはならない。
「僕はずっと未来で、待っていますから」
 だから……いつの日か貴方が僕たちグレイレイヴンの四人が願った未来で会いましょう。
ではまた『明日』」
 そう寂しげに、微笑んで。握った手が離れていく。
 感じた体温を惜しみながら、しかし振り返らずに青い構造体は部屋を出た。
 重なっていた指揮官の手にはいつの間にか盾と翼を象ったロゴの青いドッグタグが乗せられていた。
 それはひとりの構造体が託した、『名前』という目に見える命。