桐子
2025-05-25 20:34:06
4259文字
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まっさら②(父水)


男はぎょろりとした目を水木へ向けた。背後に立っている護衛たちも、さっと身構えた。水木を警戒しているのだろう。
――――ああ、やってしまった。
お節介な自分の性分が恨めしいが、もう後には引けない。水木はできるだけ好青年に見えるように笑みを浮かべてオーナーに言った。
「このくらいなら、クリーニングすれば落ちますよ」
……なんじゃお主は」
初めて男が口を開いた。低く抑えた声からは、隠しようもない不機嫌さが伝わってくる。
「先月からこちらで働かせていただいてる、水木と申します。よければ、少し見せていただいても?」
男はぎょろりとした目をすうっと細め、こちらを見ている。もしかしたら、余計なことをするなと殴られるかもしれない。最悪、クビにされるか、指を詰めろと言われるか。護衛たちは、どうするかうかがうような視線を男に向けた。
「かまわん」
しばらくして、オーナーがそう言った。
「では、失礼します」
水木は泣いているホステスを後ろへ下がらせ、男の足元にしゃがみこんだ。青い着物に赤ワインが点々と飛び散っている。
「お着物に触ってもいいですか?」
恐る恐る尋ねると、男はかすかに頷いた。触れると、その手触りの良さに驚いた。本当にいい生地だ。布地の光沢も仕立ても一流で、普通の勤め人なら着ることはおろか見る機会もないだろう。それを普段着にしているなんて、とめまいさえ覚えた。
とりあえず応急処置として、ポケットからハンカチを取り出し、布地を軽く押さえた。水分を吸い取るためだ。おしぼりで拭いたら、かえって染みが広がることもあるのだと聞いたことがある。
「ワインの染みはアントシアニンという色素が定着しやすいので、早く洗った方がいいですね。でも、すぐに落ちると思いますよ」
ここでできる処置はこのくらいだ。あとは和服専門のクリーニング屋なら、専用の薬剤がそろっているだろう。水木が立ち上がると、男はじっとこちらを見た。
……別に、服なぞいくらでもある。落ちなければ捨てればよいのじゃ」
まるで老人のような言葉遣いだ。だが、水木にとっては彼の言葉遣いよりも、言い捨てられた言葉の方が気になった。

「でも、こんないい物を捨てるのはもったいないですよ。大切にすれば長く着られる。汚れたら、洗えばいいんですよ」

男がかすかに目を見開いた。そんなことを言われるとは、夢にも思っていなかったという表情だ。気分を損ねさせたかもしれないが、それでもかまわなかった。
水木の今の言葉は、死んだ父親がよく言っていた言葉だった。

――――服っていうのは大事にすれば長く着られる。クリーニング屋っていうのは、そのためにいるんだよ。

父の口癖だった。優しくて、笑顔の絶えない人だった。水木の記憶の中では、父の姿は色あせることなく今も鮮やかに蘇る。だから、つい言い返してしまった。支配人が青い顔をして慌てふためいている。こんな明らかに堅気ではないオーナーに生意気な口をきいて、ただですむはずがないと分かっているが、それでも黙ってはいられなかった。
男はまじまじと水木の顔を見ていたが、やがてふと表情を緩めた。
「それなら、お主に洗ってもらおう」
「僕にですか。素人ですよ」
「かまわん。替えはいくらでもある、失敗したところで弁償しろなんぞ言わん。……うちまで一緒に来い」
男に命じられ、水木は困惑した。このまま付いていっていいものだろうか。だが、オーナーが来いと言っているのに断るわけにもいかない。
「それでよいな?」
支配人はオーナーに尋ねられ、慌てて頷いた。
「もっ、もちろんです! ミズキ君、頼むよ」
水木は内心ため息をついた。これは厄介なことになった。だが、ここで断ればクビにされかねない。水木は腹をくくると、「わかりました」と頷いた。グラスを倒したホステスは「ミズキ君、ごめんなさい」と青い顔をして小声で謝ってきたが、「気にしないでください」とだけ返す。ホステスと客、黒服たちが固唾を飲んで見守る中、水木は男に連れられて店を出た。




黒塗りの高級車の後部座席に押し込められ、水木は身を固くした。着替える間もなかったので、とりあえず私服はリュックサックに突っ込んできた。しかし、これからどこに連れて行かれるのだろう、無事に家に帰れるのだろうか。そんな不安を見透かしたように、男が言った。
「そう硬くなるな、何もせん」
男はそう言って、煙草に火をつけようとした。反射的に、ポケットの中のライターを取り出して男へ向ける。彼は黙って、水木の差し出したライターで火をつけた。煙草を持つ指は細く長く、やけに色気のある手つきだ。見た目の異様さで気が付かなかったが、ネオンに照らされた横顔は、はっとするほど端正だった。水木はぎこちなく礼を言い、ライターをしまった。
「今から行くのは、わしの仮住まいのマンションでな。生活に必要なものはない。何か入用なら買って来させるが」
入用なもの、というと洗剤のことだろう。
「それなら、中性洗剤を……
「聞こえたな?」
前に座る護衛に向かって男が言った。運転手が「承知しました」と返事をし、そのまま車はなめらかに夜の街を進んでいく。
どこへ向かうのか分からない。不安を誤魔化すように、水木は膝の上に置いた拳を強く握り締めた。
しばらく車が走るうちに、マンションらしき建物が見えてきた。タワーマンションというのだろうか。ぱっと見ただけでは何階建てなのか分からないほど高い。車はマンションの地下駐車場へと入っていき、車から降ろされるとそのままエレベーターに乗せられた。
チン、と軽やかな音を立てて扉が閉まる。男は無言で、水木も何を話していいのかわからず、気まずい沈黙が降りた。エレベーターの階数表示はどんどん上昇していき、やがて止まった。扉が開き、男と護衛が下りるのを見て、水木も後を追った。
エレベーターを降りてすぐにあるドアに、男がカードキーを差し込んだ。カチャリと音がしてロックが解除されたドアが開くと、中へ通された。
「おぬしたちはここでよい」
スーツの男たちは、「失礼いたします」と一礼して出て行った。とうとう二人きりになってしまった。また緊張感が高まったが、男は水木には何も言わずに、どんどん部屋の中へ進んでいく。
広い部屋だった。玄関だけで水木の住むアパートの部屋よりも広い。パーティーを開けそうなリビングと対面式のキッチン。その奥が寝室なのだろうか。大きな窓の向こうには、東京の夜景が一望できた。上京してきたときに見た東京タワーからの夜景とさして変わりないほど美しい。
「何を突っ立っておる、こちらへ来い」
男はリビングのソファに腰かけて、水木を呼ぶ。彼は日本酒の瓶とグラスを二つ用意しているところだった。
「おぬしも一杯どうじゃ」
「いえ、俺は……あの、それより脱いでくれませんか」
途中で24時間営業のスーパーに寄ってもらい、洗剤と新しいタオルを買ってもらった。のんきに酒を飲むよりも、早く染み抜きをした方がいい。そう思ったのだが、男は驚いたように目を丸くした。
「ずいぶん積極的じゃな」
水木は男の発言をいぶかしんだ。ここへは着物をきれいにするために来たのだ。ごく普通のことを言っているだけなのに、何が「積極的」なのだろう。男はそれ以上は何も言わず、素直に服を脱いでくれた。
「わしは風呂へ入ってくる」
長襦袢姿になった男は、そう言って風呂場らしき方へ歩いて行った。
さて、ここには専門の機械も溶剤もなく、水木は素人同然だ。自信はないが、やるしかない。
「よし」
気合を入れて、買い物袋の中身を取り出した。あとは、この広い家のどこかに掃除機があることを祈るしかない。勝手に開けて中をいじるのは申し訳ないと思いながらも、収納らしき場所をいくつか開けると、最新式の立派な掃除機が置いてあった。
「確か、汚れを吸い取りながら洗剤をかけてたよな……
そうこうしているうちに、男が風呂から出てきた。無造作に髪をタオルで拭きながら、水木が何をしているのかと物珍しそうに見ている。
「何をしとるんじゃ」
「とりあえず応急処置で汚れを落としているところです。勝手に掃除機をお借りしてすみません」
「ほう」
男は興味深そうに、水木の手元を覗き込んでいる。
「でも、やっぱり俺じゃ素人なんで、専門の業者に頼んだ方がいいかもしれません……
怒らせてしまったかと心配になったが、男は水木の予想に反して「かまわん」とあっさり言った。
「一区切りついたら、おぬしも風呂へ入ってこい」
「え? 俺はいいです」
まさか風呂をすすめられるとは思わず、水木は驚いて首を振った。さすがに初対面の、しかも明らかに堅気ではない男の家で風呂を借りるのはいかがなものだろう。全力で辞退すると、男はすうっと目を細めた。
「なんじゃ。準備済みなら話は早い」
「準備?」
何やら自分のあずかり知らぬところで、とんでもないすれ違いが起こっているのではないだろうか。どういうことかと尋ねようとしたが、男は水木の手を掴むと、強引に別の部屋へと引きずっていく。
「あの、待ってください」
連れこまれた先は寝室だった。キングサイズのベッドが部屋の中央に置かれ、サイドテーブルには間接照明が置かれている。その隣には小さな冷蔵庫。そして、枕元にはティッシュの箱とローションらしきボトル。
「え」
水木は混乱した。なんだこれは。もしかして、自分はとんでもない所へ来てしまったのではないだろうか。ふと、先輩黒服の言っていたことがよみがえった。
――――ああ、……実は、オーナーは気に入った子を『お持ち帰り』するんだよ。
今回『持ち帰り』されたのは、自分だったということだろうか。水木は青ざめ、後ずさろうとした。だが、ぐいと腰を抱かれ、ベッドの上に押し倒されてしまった。
「心配せずとも、悪いようにはせん」
そう囁く男はどこか楽しげだ。
「っちが、違うんです!俺はそんなつもりじゃ」
「わしについてきた時点で、そんなつもりはなかったは通用せんぞ」
「そんな……
本当にそんなつもりはなかった。ただ、あの場に残ればクビにされると思ったからついて来たのだ。それにまさか、男である自分も対象になっているとは想像だにしていなかった。水木は必死に言いつのったが、男は取り合う気もないらしい。
「大人しくしておれ」
そう言って、男は水木の服に手をかけた。