Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
南篠
Public
ダーリンランデヴー!
Clear cache
檻のなかの幻
ダーリンランデヴー!
/ ヴァーニャとドミトリー
沈黙がたっぷりと五分続いた。
眼前、椅子に腰掛けるその人は鷹揚に瞬きをするだけで、こちらに視線を向けることもなかった。それは指示が無いということだ。話せとも去れとも言われていない以上、オレはここで待機し続けるべきだ。
――
ドミトリーはそう確信し、椅子に座る少年の前に微動だにすることなく、重心のひとかけらも変えることなく、立ち続けていた。これは生前からの癖のようなものだ。背後に立たれることを嫌う主人の指示を待つ時には、視界に入る場所にいる。不意に動けば裏切りを疑われるため、忠信を示すには不動のままでいるべきだ。その理不尽なまでの忠誠を、ドミトリーは生前は抱き、そしてそれに殉じたのだった。
視線を逸らすことなく、瞬きの回数に揺らぎを生じさせることもなく、心音も呼吸も正確に。たったひとつの不信でさえ、主人を貶めることに繋がる。四肢と魂を縛り付けるこの忠信に、ドミトリーは生前、恍惚さえ覚えていた。今はそこにほんの少しばかりの居心地の悪さが付け加わっている。左眼が痛む。ダーリンとしての無視できない苦痛がじくじくと広がっていく。その程度、忠節の痛みに比べれば些事だった。
「ミーチャ」
「はい」
不意に、ヴァーニャがドミトリーを呼んだ。見目に違わぬ少年の声だ。透き通るような白い睫毛を瞬かせ、血のような赤がドミトリーを貫く。不釣り合いな青色の瞳孔の輝きは今は潜められ、ただ、冷たい冬のような沈黙がそこに積もっていた。
ドミトリーの記憶にあるイワンも、よくそんな目をしていた。年や姿形こそ違うものの、やはりその魂は、かつて命を捧げた男に相違ないのだと確信する。心臓に痺れにも似た物が走る。歓びばかりだったその雷には、今は、僅かに恐怖が滲んでいた。
「座れ。許す」
「ありがとうございます」
促されるままに、正面のソファーに腰掛ける。自身に敵意がないことを示すために両手を空け、背を伸ばした。ヴァーニャは生前と寸分違わぬドミトリーの仕草に気分を良くしたのか、一度満足気に鼻を鳴らし、するりと足を組んだ。
幼い子どもの骨格が布の隙間から覗く。こんなあどけない骨を、二人はどれだけ折って、台無しにしてきたのだったか。ドミトリーの思考は不意に千切れ、しかしどうにか、眼の前の男に集中した。
「貴様もこちら側についているとはな。まあ、貴様のような気質の男は、やはり飼われる方が気楽なものだろう」
「はい、仰る通りです。
……
しかし、オレの主人はいつだって、貴方だけです」
「は、馬鹿を言え。ここでは俺と貴様は同じように首輪を掛けられた飼い犬だ。犬に飼われる犬がいるものか」
片目を吊り上げたヴァーニャに、ドミトリーは思わず劈くような左目の痛みを感じていた。しかしそれをおくびにも出さず、「失礼致しました」と淡々と詫びる。ここで大袈裟に取り乱してはいけない。そうやって処分されてきた馬鹿共を、ドミトリーはさんざん見てきたのだった。
ドミトリーの謝罪など気にも留めていないのか、ヴァーニャは背もたれに体重を預けた。柔らかな髪が背もたれに触れて、新雪のようにふわりと広がる。新雪などという穏やかな形容が似合うのは、この部屋の照明がいやに優しいからに違いない。
ヴァーニャの眼差しが再びドミトリーに向けられる。
「契約は?」
ダーリンとファタールの契約を指しているのだと、ドミトリーが理解するのに数拍を要した。次いで浮かんだのは契約相手である青年のことだった。ここで言い淀むべきではない。だが、と心の枷になっているのは何か。微かに乾く舌を無視して、ドミトリーは口を開いた。
「
……
しております」
これは主への裏切りではないのか。主への裏切りだと思いながらも契約を結ぶのは、契約相手への裏切りではないのか。到底真っ当ではない思考は、ドミトリーを常時襲う苦痛のせいだ。
「しかし、いえ、しかし
……
ボス、あなたの命であれば、この契約など破棄して
……
」
冷や汗が頬を流れ、まるで弁解するように言葉を続ける。思ってもいない言葉だったが、ここで発言した以上は真実になってしまう。取り返しが付かない、しかし。生前では信じられない程に脈打つ心臓を、ドミトリーは制御しきれず、だが、ヴァーニャはやはり気に留めていないようだった。
「いらん。では、貴様は貴様の忠を成せばいい。その飼い主相手にな」
至極どうでもいいことのように告げ、細い指先が彼の足の上で退屈そうに組まれていった。
「俺の命など求めるな。俺の指示など求めるな、ミーチャ。立場を弁えろ」
「
……
立場を」
「貴様は犬だ。生前もそうだったのだから、慣れているだろ
……
今生こそ、一点の翳りもない忠誠とやらを目指してみても良いかもしれんな? 貴様にそれを果たせるかなぞ、俺には微塵も興味は無いが」
生前は裏切っただろうと、言外に言っているのだ。ドミトリーは痛む左目の奥にその記憶を見ていた。オレは最期まで貴方の味方でしたと、言葉なんぞで伝えられたのであれば、伝わったのであれば、どれだけ楽だっただろう。そんなもので証明できる程度の信義は塵だ。
ドミトリーは最期まで、イワンに尽くしたつもりだった。イワンのために誰であれ殺した。かつての仲間だろうと関係もなく、ただ一本の刃に、一頭の獣になろうとした。血まみれの部屋、「お前は」と、イワンは怒りに満ちた目で頭を垂れるドミトリーを見下ろし、「嘘を吐く時に、左目が引き攣るんだ」「知らなかっただろう?」「だから俺は、お前の左目が嫌いだ」と刃物を構えた。その瞬間からドミトリーは自分の左目が憎かった。死の間際まで憎く、だからこうして痛みを孕み続けるのは、生前の罰なのだと信じている。
なんの話だったか。やはり不意に意識が途切れるのは、その痛みのせいだろう。ドミトリーは未だ鮮やかな記憶を振り払い、「はい」と答えた。
「オレは、いつまでも犬です。であれば、貴方が仰るのだから、今生の首輪は
……
今の人間に預けます」
「ああ、そうしろ。くれぐれも粗相のないように。貴様の飼い主にも言っておかねばな」
「そのような、お手を煩わせずとも
……
」
「貴様の為などであるものか。ここの人間の顔は覚えておいて損はない。無駄な労力ではないよ」
「は、
……
失礼致しました。出過ぎた真似でした」
ドミトリーの眼差しに映るヴァーニャは、イワンそのままであるようで、やはり違っている。ドミトリーはイワンの半生を、そして彼らの家族であったヴァーリィ・ファミリーの生を見つめてきた。だからこそ違和感だろうか。ドミトリーの記憶にあるよりずっと、ヴァーニャは穏やかに凪いでいた。否、違う。何もかもを疑う気配も、張り詰めた空気もそのままに、なにかもっと大きなものに押し込められているような。
成程、と、ドミトリーは思った。これが、なにかに飼われているということか。すべてが己の一存で決まる時代とは違うのだ。生まれながらにしてファミリーを背負っていたイワンにとって、誰かが上に立つというのは初めてのことだ。他者にすべての権利を委ねてきたドミトリーは、そこでようやく初めて、自らの主人だった存在も己同様にまで堕ちていることを実感した。
全てを手に入れ、全てを疑い、全てを壊し、全ての享楽と疑心の中で死んでいった、あの人はもうどこにもいないのかもしれない。
ドミトリーの脳裏に浮かんだのが寂念だったのか恐れだったのか、あるいはもっと他の感情だったのか、それはわからなかった。
「
……
ボス、質問をお許しください」
「なんだ」
「貴方は
……
首輪をかけられるような、存在でしょうか」
わからないままに、ドミトリーは尋ねた。生前であれば許されないようなことだ。ボスが留まると言えば留まる、そこに疑問の挟まる余地はなく、ボスの真意など知る必要もない。知ろうとすることが裏切りだった。けれど、ヴァーニャは気分を害した様子もなく、ただ口角を上げるばかりだった。
「ミーチャ、ここは何のための組織だ?」
「対異能犯罪組織。ダーリンによる犯罪の抑止力となり、オルドポルターの市民の安全を守る
……
です」
「よく覚えていたな。今の飼い主は相当優秀らしい」
茶化すようにくつくつと笑ってみせると、ヴァーニャは再びドミトリーを見やった。
「そう
……
ここは正義のための組織。俺はいつだって、大義のために殺していた。知っているだろう、ミーチャ?」
「
……
は、勿論ですとも、ボス」
「俺はいつだって、より殺せる方に着く。だからここにいることも正しい選択だ。だろう?」
「はい。ボスの選択は、いつも正しいものです」
「それでいい。正義などという大義名分を背負い、ダーリンという物を壊して回れるのであれば、こんなにも清々しいことはあるまい!」
破綻している。
ドミトリーは直感的にそう感じたが、それを言葉にしないだけの理性はあった。ボスの発言が破綻しているはずはない。破綻しているのだとしたら、それは自身の理解が誤っているだけだ。生前から癖づいたその論理は、今はなぜか使えなかった。
しかし、破綻を抱えたままだとしても、それでもいいと思った。ドミトリーはやはり、もう飼い主ではなくとも、主人ではなくとも、イワンのことを敬愛していることに変わりはないのだ。その彼が自ら選んだ道に、どうしてただの犬風情が口を出せるだろう。同じ檻の中で存在できることを、むしろ喜ぶべきだった。
ドミトリーはそんな感情を飲み込んで、愉快そうに笑う幼い少年を見つめ、「全くその通りです」と返した。穏やかな声だった。
広告非表示プランのご案内