檻のなかの幻

ダーリンランデヴー!
/ ヴァーニャとドミトリー



 沈黙がたっぷりと五分続いた。
 眼前、椅子に腰掛けるその人は鷹揚に瞬きをするだけで、こちらに視線を向けることもなかった。それは指示が無いということだ。話せとも去れとも言われていない以上、オレはここで待機し続けるべきだ。
 ――ドミトリーはそう確信し、椅子に座る少年の前に微動だにすることなく、重心のひとかけらも変えることなく、立ち続けていた。これは生前からの癖のようなものだ。背後に立たれることを嫌う主人の指示を待つ時には、視界に入る場所にいる。不意に動けば裏切りを疑われるため、忠信を示すには不動のままでいるべきだ。その理不尽なまでの忠誠を、ドミトリーは生前は抱き、そしてそれに殉じたのだった。
 視線を逸らすことなく、瞬きの回数に揺らぎを生じさせることもなく、心音も呼吸も正確に。たったひとつの不信でさえ、主人を貶めることに繋がる。四肢と魂を縛り付けるこの忠信に、ドミトリーは生前、恍惚さえ覚えていた。今はそこにほんの少しばかりの居心地の悪さが付け加わっている。左眼が痛む。ダーリンとしての無視できない苦痛がじくじくと広がっていく。その程度、忠節の痛みに比べれば些事だった。
「ミーチャ」
「はい」
 不意に、ヴァーニャがドミトリーを呼んだ。見目に違わぬ少年の声だ。透き通るような白い睫毛を瞬かせ、血のような赤がドミトリーを貫く。不釣り合いな青色の瞳孔の輝きは今は潜められ、ただ、冷たい冬のような沈黙がそこに積もっていた。
 ドミトリーの記憶にあるイワンも、よくそんな目をしていた。年や姿形こそ違うものの、やはりその魂は、かつて命を捧げた男に相違ないのだと確信する。心臓に痺れにも似た物が走る。歓びばかりだったその雷には、今は、僅かに恐怖が滲んでいた。
「座れ。許す」
「ありがとうございます」
 促されるままに、正面のソファーに腰掛ける。自身に敵意がないことを示すために両手を空け、背を伸ばした。ヴァーニャは生前と寸分違わぬドミトリーの仕草に気分を良くしたのか、一度満足気に鼻を鳴らし、するりと足を組んだ。
 幼い子どもの骨格が布の隙間から覗く。こんなあどけない骨を、二人はどれだけ折って、台無しにしてきたのだったか。ドミトリーの思考は不意に千切れ、しかしどうにか、眼の前の男に集中した。
「貴様もこちら側についているとはな。まあ、貴様のような気質の男は、やはり飼われる方が気楽なものだろう」
「はい、仰る通りです。……しかし、オレの主人はいつだって、貴方だけです」
「は、馬鹿を言え。ここでは俺と貴様は同じように首輪を掛けられた飼い犬だ。犬に飼われる犬がいるものか」
 片目を吊り上げたヴァーニャに、ドミトリーは思わず劈くような左目の痛みを感じていた。しかしそれをおくびにも出さず、「失礼致しました」と淡々と詫びる。ここで大袈裟に取り乱してはいけない。そうやって処分されてきた馬鹿共を、ドミトリーはさんざん見てきたのだった。
 ドミトリーの謝罪など気にも留めていないのか、ヴァーニャは背もたれに体重を預けた。柔らかな髪が背もたれに触れて、新雪のようにふわりと広がる。新雪などという穏やかな形容が似合うのは、この部屋の照明がいやに優しいからに違いない。
 ヴァーニャの眼差しが再びドミトリーに向けられる。
「契約は?」
 ダーリンとファタールの契約を指しているのだと、ドミトリーが理解するのに数拍を要した。次いで浮かんだのは契約相手である青年のことだった。ここで言い淀むべきではない。だが、と心の枷になっているのは何か。微かに乾く舌を無視して、ドミトリーは口を開いた。
……しております」
 これは主への裏切りではないのか。主への裏切りだと思いながらも契約を結ぶのは、契約相手への裏切りではないのか。到底真っ当ではない思考は、ドミトリーを常時襲う苦痛のせいだ。
「しかし、いえ、しかし……ボス、あなたの命であれば、この契約など破棄して……
 冷や汗が頬を流れ、まるで弁解するように言葉を続ける。思ってもいない言葉だったが、ここで発言した以上は真実になってしまう。取り返しが付かない、しかし。生前では信じられない程に脈打つ心臓を、ドミトリーは制御しきれず、だが、ヴァーニャはやはり気に留めていないようだった。
「いらん。では、貴様は貴様の忠を成せばいい。その飼い主相手にな」
 至極どうでもいいことのように告げ、細い指先が彼の足の上で退屈そうに組まれていった。
「俺の命など求めるな。俺の指示など求めるな、ミーチャ。立場を弁えろ」
……立場を」
「貴様は犬だ。生前もそうだったのだから、慣れているだろ……今生こそ、一点の翳りもない忠誠とやらを目指してみても良いかもしれんな? 貴様にそれを果たせるかなぞ、俺には微塵も興味は無いが」
 生前は裏切っただろうと、言外に言っているのだ。ドミトリーは痛む左目の奥にその記憶を見ていた。オレは最期まで貴方の味方でしたと、言葉なんぞで伝えられたのであれば、伝わったのであれば、どれだけ楽だっただろう。そんなもので証明できる程度の信義は塵だ。
 ドミトリーは最期まで、イワンに尽くしたつもりだった。イワンのために誰であれ殺した。かつての仲間だろうと関係もなく、ただ一本の刃に、一頭の獣になろうとした。血まみれの部屋、「お前は」と、イワンは怒りに満ちた目で頭を垂れるドミトリーを見下ろし、「嘘を吐く時に、左目が引き攣るんだ」「知らなかっただろう?」「だから俺は、お前の左目が嫌いだ」と刃物を構えた。その瞬間からドミトリーは自分の左目が憎かった。死の間際まで憎く、だからこうして痛みを孕み続けるのは、生前の罰なのだと信じている。
 なんの話だったか。やはり不意に意識が途切れるのは、その痛みのせいだろう。ドミトリーは未だ鮮やかな記憶を振り払い、「はい」と答えた。
「オレは、いつまでも犬です。であれば、貴方が仰るのだから、今生の首輪は……今の人間に預けます」
「ああ、そうしろ。くれぐれも粗相のないように。貴様の飼い主にも言っておかねばな」
「そのような、お手を煩わせずとも……
「貴様の為などであるものか。ここの人間の顔は覚えておいて損はない。無駄な労力ではないよ」
「は、……失礼致しました。出過ぎた真似でした」
 ドミトリーの眼差しに映るヴァーニャは、イワンそのままであるようで、やはり違っている。ドミトリーはイワンの半生を、そして彼らの家族であったヴァーリィ・ファミリーの生を見つめてきた。だからこそ違和感だろうか。ドミトリーの記憶にあるよりずっと、ヴァーニャは穏やかに凪いでいた。否、違う。何もかもを疑う気配も、張り詰めた空気もそのままに、なにかもっと大きなものに押し込められているような。
 成程、と、ドミトリーは思った。これが、なにかに飼われているということか。すべてが己の一存で決まる時代とは違うのだ。生まれながらにしてファミリーを背負っていたイワンにとって、誰かが上に立つというのは初めてのことだ。他者にすべての権利を委ねてきたドミトリーは、そこでようやく初めて、自らの主人だった存在も己同様にまで堕ちていることを実感した。
 全てを手に入れ、全てを疑い、全てを壊し、全ての享楽と疑心の中で死んでいった、あの人はもうどこにもいないのかもしれない。
 ドミトリーの脳裏に浮かんだのが寂念だったのか恐れだったのか、あるいはもっと他の感情だったのか、それはわからなかった。
……ボス、質問をお許しください」
「なんだ」
「貴方は……首輪をかけられるような、存在でしょうか」
 わからないままに、ドミトリーは尋ねた。生前であれば許されないようなことだ。ボスが留まると言えば留まる、そこに疑問の挟まる余地はなく、ボスの真意など知る必要もない。知ろうとすることが裏切りだった。けれど、ヴァーニャは気分を害した様子もなく、ただ口角を上げるばかりだった。
「ミーチャ、ここは何のための組織だ?」
「対異能犯罪組織。ダーリンによる犯罪の抑止力となり、オルドポルターの市民の安全を守る……です」
「よく覚えていたな。今の飼い主は相当優秀らしい」
 茶化すようにくつくつと笑ってみせると、ヴァーニャは再びドミトリーを見やった。
「そう……ここは正義のための組織。俺はいつだって、大義のために殺していた。知っているだろう、ミーチャ?」
……は、勿論ですとも、ボス」
「俺はいつだって、より殺せる方に着く。だからここにいることも正しい選択だ。だろう?」
「はい。ボスの選択は、いつも正しいものです」
「それでいい。正義などという大義名分を背負い、ダーリンという物を壊して回れるのであれば、こんなにも清々しいことはあるまい!」
 破綻している。
 ドミトリーは直感的にそう感じたが、それを言葉にしないだけの理性はあった。ボスの発言が破綻しているはずはない。破綻しているのだとしたら、それは自身の理解が誤っているだけだ。生前から癖づいたその論理は、今はなぜか使えなかった。
 しかし、破綻を抱えたままだとしても、それでもいいと思った。ドミトリーはやはり、もう飼い主ではなくとも、主人ではなくとも、イワンのことを敬愛していることに変わりはないのだ。その彼が自ら選んだ道に、どうしてただの犬風情が口を出せるだろう。同じ檻の中で存在できることを、むしろ喜ぶべきだった。
 ドミトリーはそんな感情を飲み込んで、愉快そうに笑う幼い少年を見つめ、「全くその通りです」と返した。穏やかな声だった。