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桐子
2025-05-25 01:18:03
4089文字
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まっさら①
初めて会った時には、男相手にこんな気持ちを抱くことになるとは、想像もできなかった。
「おいで」
差し出された手を取ると、有無を言わさず抱きしめられた。男の上等な着物からは、かすかな白檀の甘い香りが漂っている。この香りをかぐと、嫌でも体が反応してしまう。そういうようにしつけられた。だが、ふと、その香りの奥に別の香りが重なっているのに気が付いてしまった。
甘ったるい女物の香水だ。
「どうしたのじゃ。浮かない顔をして」
「
……
別に」
「何か気にかかることでもあるのか?」
男の手が頬を撫でる。その手が白いシャツのボタンにかかり、一つずつ外していくのを、水木はただ黙って受け入れていた。首筋に唇を落とした男の髪が少し湿っていることにも気が付いてしまう。ここへ来る前、香水の匂いがうつるほど近くに女がいて、シャワーを浴びるようなことをしたのだろう。誰と会っていたのか、どこで何をしてきたのか、水木よりもその女の方がいいのか。そんなことを言ってしまいそうになる唇をきつく噛みしめた。
「水木」
名前を呼ばれて、我に返った。
「興が乗らんのか」
「そんなこと
……
」
「ならば、なぜ、そんな顔をする」
男の指が唇を撫でた。
「
……
なんでもない」
水木は男の手を掴んで押しのけると、そのままベッドへ横になった。
「水木?」
「好きにしてくれていい。俺の機嫌なんて取らなくても、足なんていくらでも開くさ
――――
俺は、あんたの愛人なんだから」
見せつけるようにシャツとズボンを脱ぎ捨てると、かすかなため息が聞こえてきた。あきれられたかと、ちらりと上目づかいに見た男の目は、すでに欲情の色に染まっていた。
「おぬしという奴は
……
」
羽織を床へ落とした男が、ベッドに上がってくる。そのまま押し倒され、唇をふさがれた。舌を懸命に絡めながら、男の広い背中へ腕を回した。この背には、恐ろしい蛇が刻まれていることを知っている。
「ん
……
はあ
……
」
ゆっくりと唇が離れ、耳元にささやかれた。
「わしを挑発して、泣きをみるのはおぬしじゃろうに」
手加減せんぞ、と呟かれて望むところだと思った。女にはできなくて水木にはできること。それは、どんなに荒々しく情欲をぶつけられても、壊れたりしないという点に尽きる。他の誰かではなく、水木だけを抱いてくれる、この瞬間が愛おしかった。
「早く
……
」
両手を広げて誘った水木に、有無を言わさず男がのしかかってくる。重さと体温を全身で受け止めながら、男の背に腕を回した。この重みも匂いも全て自分のものなのだという幸福感と同時に、ぽつりと心に染みが広がっていく。
それに気が付かないふりをして、水木は男の腰に足を絡ませた。
◇◇◇
水木が出勤すると、店はどこか浮足立ったような空気に包まれていた。
「どうしんですか」
開店前の準備をしていた黒服の先輩に声をかける。彼はグラスを磨いていた手を止め、やけに厳しい表情で言った。
「オーナーが来るって、さっき連絡があったんだ」
「オーナー」
この店で働いて日が浅い水木は、オーナーの顔を見たことがない。
ここはいわゆる、高級クラブだ。華やかな女性が、客に酒と会話を提供する。だが、どこにでもあるようなありきたりなキャバクラとは一線を画すのが、このクラブの売りだった。働いているキャストは美しいだけではなく知性もあり、会話も巧みで、客を飽きさせない。客もまた、一見さんはお断り、会員か会員の紹介がないと入れないので、自然と客層が狭まる。政治家や実業家、大手企業の会長クラスなど、一見の敷居の高さに見合っただけの客が来てくれる。
「それだけで嬢たちが、あんなにソワソワするんですか」
ここのキャストはみな一定以上の容姿を求められるため、美女揃いだ。しかし今夜はメイクや衣装にやたらと気合いが入っている気がする。キラキラというよりはギラギラした雰囲気に、水木は首を傾げた。
「ああ、
……
実は、オーナーは気に入った子を『お持ち帰り』するんだよ。それに選ばれたら、まあ服やらバッグやら買ってもらえるって、みんな張り切ってるんだ」
「お持ち帰り、ですか」
なんだ、助平親父が女漁りに来ているというだけのことか。水木は皮肉げな笑みを浮かべた。金があれば毎日の生活の心配をすることもなく、いい酒、いい車、いい女と好きなことだけをして生きていける。羨ましい限りだ。
「ま、オーナーには気を付けて。怖いから」
「わかりました」
どうせ自分は関係ない。水木は話を切りあげると、開店準備を手伝うべく更衣室へ足を向けた。黒のズボンに白いシャツ、蝶ネクタイとベストをつけ、髪を後ろに撫でつける。目の傷が目立たないように、度の入っていない眼鏡をかける。この店で気にいっているのは、高い給料と糊の効いた白いシャツだ。これを着ると、しっかり働こうという気持ちになるのだ。
開店時間になると、店に客が入ってきた。フロアを軽やかに歩きながら、水木は次々に酒の注文や煙草の吸い殻の交換などをこなしていった。常連の男たちは鼻を伸ばして気に入りのホステスとの会話を楽しみながら酒を飲む。
「ミズキ君、フルーツ盛り合わせ」
「こっち、焼酎水割り濃いめで」
「わかりました」
目の回るような忙しさだ。水木は酒や氷の交換、トイレ掃除などを次々にこなした。
「ねえ、ミズキ君」
客の一人から呼び止められ、水木は振り返った。
「はい?」
「君さ、いくつなの? まだ二十歳そこそこだよね」
「今年で二十七になります」
水木は愛想よく答えた。
「えっ、君、その顔でアラサーなの?」
「童顔だとよく言われますよ」
余計なお世話だと思いながら、水木は穏やかに言った。
「へえ、そうなんだ。それにしても、二十七にもなってこんな所でバイトって、人生設計大丈夫? 僕は卒業して新卒で今の会社に入って、すぐ出世街道にのってねえ
……
」
しまった、この客は自慢話を垂れ流すタイプだ。適当に相づちを打ちながら、水木は心の中でため息をついた。することは山積みで、他の黒服からは『早く話を切り上げろ』と目くばせがくる。だが、話をこちらから切ってしまえば「生意気な」と叱られるのは目に見えている。ホステスや先輩からの視線をひしひしと感じながらも、水木は愛想よく「すごいですね」「知らなかった」と繰り返した。
しかしそれは、一人の男の登場で唐突に終わりを告げた。
「いらっしゃいませ」
支配人の上ずった声がフロアに響き、水木ははっと顔を上げた。
入ってきたのは、スーツの男が二人。どちらもサラリーマンとは言い難い、筋肉質な体つきをしている。どうも堅気には見えなかった。そして、彼らに守られるようにして、もう一人の男が現れた。
カラン、コロン。
大理石の床に、その場に似合わぬ下駄の音が響く。
青い着物に白い羽織を羽織った、白髪の男がそこにいた。老人なのかと思ったが、長い前髪の間から見える肌は若々しい。その全身からは、異様な雰囲気が漂っている。彼らは支配人に連れられ、奥のVIPルームへと入っていった。ということは、あれがオーナーなのだろう。
しつこい客が場の雰囲気にのまれている間に、「では」と声をかけてそそくさとその場を去る。助かった。カウンターの上にたまった酒を持っていこうとして、先輩黒服に声をかけられた。
「水木、悪いんだけどVIPルームに行ってくれるか」
「俺がですか」
「あっちが最優先。頼むよ」
そう言って、ワインや日本酒、フルーツ盛り合わせの乗った盆を押し付けられた。水木は「わかりました」と頷くと、すぐにVIPルームへ向かった。
ノックをしてから室内へ入ると、一斉に視線がこちらへ向けられた。スーツの男たちが値踏みするように水木を見ている。
「ミズキ君、悪いね」
「いえ」
支配人に促され、水木はローテーブルに酒を並べ始めた。その向かい側に、青い着物の男が黙って座っている。着物を見るとつい、どんな仕立てか気になって、グラスを並べながらこっそりと値踏みしてしまった。正絹だろうか。色は地味だが、生地も仕立ても一級品だ。背の高い男にぴったりな丈をしていることから、デパートなんかでは買ったものではなく、一から仕立てたものだろうと見当がついた。相当な金持ちだ。
その横には、店の№1と№2のホステスがはべり、おしぼりを手渡したり、話しかけたりしていた。彼女たちはいつもと違い、頬を赤らめて嬉しそうにしている。よほど男に気に入られたいのだろう。しかし、無口なたちなのか、彼は何を言われても黙ったままだった。ちら、と一瞬だけ男の顔をまともに見たが、片側だけ長く伸ばした前髪といい、ぎょろりとした大きな目といい、
どこか人間離れした不気味さがある。
――――
こんな男のどこがいいんだか。
内心でそうひとりごち、水木は盆を手に立ち上がった。
「失礼しました」
一通り並べ終わり、一礼をして部屋を出ようとした、その時だ。
「あっ」
ワイングラスにホステスの手がぶつかり、華奢なグラスはテーブルに叩きつけられて粉々に砕けた。中身はテーブルの上を汚し、あろうことか、オーナーの着物の裾にまで飛び散ってしまった。
「ご、ごめんなさい」
ホステスが青い顔をして言う。今にも泣きそうな顔をして、おろおろとオーナーの着物の裾を見つめている。
「何をしているんだ!」
支配人の怒声が飛んだ。ビク、と肩を揺らしてホステスが泣き出す。
「申し訳ありません。ホステスの教育がなっておらず、親父さんに不快な思いを
……
」
支配人は平身低頭、必死に謝っている。だが、オーナーの男は怒るでもなく、ただじっと汚れた着物を見つめていた。無感動なその目に、周りのホステスたちも青ざめてお互いに顔を見合わせた。
――――
明らかに堅気ではないオーナーの服を汚して、あの子は無事に帰ることができるのだろうか。
彼女たちの不安は、水木にも手に取るように分かった。
「あの」
気がついたら、水木はオーナーに声をかけていた。
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