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那須野
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寿月
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朝を迎えに
【寿月】数年後同棲プロ時空*「羊のひそむすきもなく」の翌朝の話。
やっぱ、夢みたいやなあ。
窓の外からほのかに届く淡い朝日と雀の鳴き声をぼんやりと意識の隅に捉えながら、毛利寿三郎は考える。
広々として柔らかなベッドがひとつ、並ぶ寝具は二人分。同じ高さに並べられた枕に頬を載せ、横伏せで向かい合うように眠る恋人の寝顔を眺めていた。
朝に強く、早朝の散歩を日頃の習慣にしている彼の寝姿を、その真逆を地で行く自身が眺める機会は多くない(というより、ほとんどない)。おそらくわずかな差とはいえ、彼より早く目が覚めた奇跡に気が付けば、心持ち意識もクリアになってくる。
――
昨晩はいっときどうなることかと思ったが、気掛かりがほどけたおかげで随分とよく眠れたらしかった。
(
……
いや、いくらベッドの話が解決したいうても現金すぎやろ、自分)
寝起きとは思えぬほどすっきりとした頭で、口元だけで苦笑する。確かにベッドに入ったときには心臓が逸りもしたものの、彼の静かな声に明日の練習メニューについて話題を振られ、あれこれと話をしているうちに心地好く眠りに落ちていた。
目を閉じる間際にちいさく聞こえた「おやすみ」の響きの優しさは、きっと夢ではない。夢のような現実に、かれの存在が確かな輪郭を与えてくれている。
「
…………
、」
声に出さず彼の名を呼ぶ。
月光
つき
さん。
彼のひとみはまだ開かない。すう、すう、と、規則的で穏やかな寝息がかすかに聞こえる。目を細めた。
ただ、これからも彼とテニスができればいいと思っていた。それこそが彼と自分の関係にとっての至上命題で、強欲にもそれ以外を望むことなど
――
否、それ以外の望みを伝えるつもりなど、なかったのだ。
彼への恋情を自覚したあと、練習上がりに広い背中に向けて心のなかで好意を重ねることが、いつからか習慣になっていた。
好きです、だから、明日も隣にいられますように。
それは夜空に昇る月を「きれいだ」と思うことと同じで、届けるための、成就させるための感情ではなかった。
……
何度繰り返したかもとうにわからなくなっていたその願いが、声のかたちで彼の背を叩いてしまうまでは。
ベッドが軋まないよう気を払いつつ、静かに身を起こす。掛け布団を共有していればさすがに彼も目を覚ましてしまうだろうが、幸いいまはそれぞれに分かれている。
色素の薄い雪色の髪が、伏せられた瞼、整った横顔の輪郭にやわらかく掛かっている。自身より三十センチほどなお高い彼の顔を見下ろすことができるのは、彼が座っているときか、いまのように寝台で眠っているときくらいのもので、無防備な表情にことりと心臓が逸るのがわかる。
伝えるつもりがなかったのは事実だったけれども、いざ彼に想いを受け入れられてしまえば、身のうちにふかく根付いたそれは些細なきっかけで容易に心を揺らす。ただの男としてかれにふれることを許されてから、欲深くなるばかりの自分を少なからず自覚していた。
ふれるたびに覗くあたらしい彼の表情を、温度を、感触を、もっと近くで見ていたい。もっと近くで
――
とけあうほどに。
体軸を前に傾け、手のひらをそっと彼の両脇に下ろす。重心の移動を受けたベッドのスプリングが、今度こそぎしりとちいさく鳴いた。
かれの長い前髪の下、睫毛が震える。わずかな身動ぎとともに、夜の色をした切れ長のひとみがまっすぐに自身を映した。
「
……
、もうり」
「おはようございます、
月光
つき
さん」
「珍しいな」
「よお寝れたみたいですわ」
「
……
そうか」
起きていたのか。言外に尋ねてくる彼の掠れ声に「自分でもビックリです」とおどけてみせれば、眦を緩めた彼の腕が緩慢な動きで持ち上がって自身の背に回る。長い指先が首筋を掠め、後頭部に大きな手のひらがふれた。
「
……
今宵さんとちゃいますよ?」
「知っている」
そう答えながら気の向くままゆるゆると髪を梳く五指は、朝食をねだりに来た実家の愛猫を撫でるそれとおそらく大差ないだろう。(歳を重ねて今なお健在、彼のきょうだい同然の愛猫氏については、敬意を込めて「今宵さん」と呼んでいる。)
ともすれば寝込みを襲おうとしたかのような体勢のはずだったが、声にもしぐさにもまったく動揺は感じられない。まだすこし寝惚けているのか、信頼されているのか、あるいはそのどちらもか。どちらにせよ、あまりに当たり前に受け入れられてしまったものだから、言い訳をするタイミングすら逸してただ撫でられるに身を任せるほかなくなっている。
ああ、これ、どないしよ。
自分への慈しみを感じるなにもかもが、なんだかすこし鼻の奥がつんとするほどに心地好いのは確かで、
……
けれどもそれと同じだけ、いたたまれないような気持ちがした。
しずかに降り注ぐ月明かりのような愛を自分のものにしておきながら、まだ足りないというのだろうか。頭の中で投げかけた自問自答は、しかしすぐさま是が返る。
足りない。足りない。この身のうちにある愛しさも、恋しさも、くるおしさも、満足に伝えることすらできていない。足りるわけがない。
「
月光
つき
さん」
「なんだ」
もとより言葉にするべき答えなど持ち合わせていない。いらえの代わりに目元にそっと口付けると、癖毛を撫でていた指先がかすかに揺れた。自身を見上げる彼のひとみと視線が噛み合う。かちり。
「
…………
」
数瞬のインターバル。
息を吸って、吐く。
もう一度ちいさく彼を呼んだ。
つきさん。
「
……
朝の散歩、ついてってもええですか?」
「
――
……
、」
こちらを映したままの両目が、二、三、まばたく。
ああ、と応える彼の低音は聞き慣れた朝の響きを帯びていて、よく知ったそれに安堵する。持て余した感情と向き合わざるを得なくなる日が、きっといつか来るだろうと思いはするけれども、少なくともそれはいまではない。うす明るい早朝が過ぎ、日差しに温もりを感じ始めるころには、自分は彼とともにコートに立っているのだから。
しばらく静かにこちらを見つめたあと、ぽつり、彼が口を開く。
「毛利」
「はい」
「
……
おはよう」
「
……
、」
「言いそびれていた。 それから、」
それから。
疑問符を浮かべる前に長い腕に抱き寄せられて、
――
目元をかれの唇の感触が掠めていった。
「返さないわけにはいかないだろう」
ささやくような低音が耳朶を打つ。照れ隠しにか、こちらが呆けているあいだに(力強くも自身ごと)早々に身を起こしに掛かった彼を、飛びつくように抱き締めていた。ぼふん!
「
…………
毛利」
「
……
いや、あの、すんません
……
」
いささか間の抜けた音ともに揃ってベッドに倒れ込む羽目になった彼が、呆れ声で自身を呼ぶのが聞こえる。申し訳程度の謝罪を口にしながら無駄なく鍛えられた胸板にぎゅうと額を押し付けて、かれのぬくもりと匂いを腕いっぱいに抱き竦める。あたたかい。
「あと五分だけ、ギュってさしてくれんせーね」
「
……
二度寝はするなよ」
「
月光
つき
さん」
「なんだ」
「あんがとございます」
「
……
さして問題ない」
馴染みの口癖に、もうひとつ腕を強くする。
また、今日が始まろうとしていた。