細い注射針がテオドールの肌の下へと潜り、一瞬の痛みにテオドールは片目を細める。プランジャーが引き上げられると透明なシリンジが赤い鮮血で満たされる。
「針、抜くよ!」
藍桐はそう言うと注射針を引き抜く。また一瞬の痛みにテオドールが目を閉じるとその間に无諦が注射針の痕にガーゼを当てる。
「うん、今日の検査はこれで終わり! 僕らの部屋でお茶をしよう! アップルパイはないけれどチョコレートのケーキがあるんだ!」
藍桐がテオドールを立たせて診療室を出て行こうとする。ここはランドール診療所の診療室の一室で、テオドールの特異体質に興味を持った无諦と藍桐が定期的にテオドールの検査を行っている。検査の後は无諦と藍桐が下宿している部屋で小さなお茶会を楽しむことが慣例になっていた。
藍桐は扉の近くで壁に寄りかかって検査を見ていたルメルトにも声を掛ける。
「ルメルトも行こう!」
「いや、俺は无諦と話があるから先に行っていてくれ」
「そう? 待ってるよ!」
藍桐はそう言うとセオドアを立たせて引っ張っていく。
「藍桐、力が強い!」
「ごめんごめん!」
二人は軽く言いあいながら診察室を出ていき、階段を登っていく。二人分の階段を登る足音が止むとルメルトは壁から背を離し、検査の後片付けをしている无諦へ大股へ近付いていく。
「无諦、お前たちのやっていることは本当にあいつのためになるのか?」
ルメルトの緊張を孕んだ質問に无諦は手を止めてルメルトを見上げる。
「どうした、いきなり」
「お前たちがあいつを見る目は時々実験動物を見る目のように見える」
「心外だな。私はテオドールのことを人間として、友人として接している」
「喩えは悪いが、人は家族のように接していた家畜を屠殺することのできる生き物だ」
苦々しく言ったルメルトに无諦は鼻先で軽く笑う。无諦は手に持っていた試験管を試験管立てに置き、腕を組んでルメルトに言葉を投げつける。
「確かに悪い喩えだ。それで、君は何に怒っている? 我々がテオドールを害すると?」
「……今は一般的な検査をしているようだが、本当は人道にもとる人体実験をしたいんじゃないか?」
今度はくつくつと无諦が笑う。ルメルトの言葉をまるで待っていたかのように。
「それで? 我々の狙いが人体実験だとして、彼がそれを受け入れれば何も問題はないのではないか? 彼の体質の解明は人類の利になると私も藍桐も信じているし、テオドールも我々に同意しているように見える。君に止められようか?」
淡々とした表情のままに見えるが、无諦の声音には興奮が滲んでいた。新しい玩具を贈られた子供のように。そのような无諦の様子すら、ルメルトの義憤を焚きつけ、ルメルトは无諦の手首を掴む。
「お前には医者としての倫理がないのか」
「人類が前に進む時には時として古い倫理は不要だ」
「无諦……!」
ルメルトは无諦の手首を掴む力を強くする。日本人の中では長身の无諦でもルメルトの手に掴まれると細く見える。しっかりと握力がかかっているはずだが、无諦は涼しい表情を崩さない。
「テオドールが同意すれば何も問題はないと思うが?」
「俺はあいつの保護責任があるし、お前たちも友人と思っている。友人が人の道を外れようとしているのなら止めるのが友の役目だ」
「それは篤い友情だな。繰り返し言うが我々はテオドールの同意なしに進めようとは思っていない。君が彼を引き留めればいいだけだ」
「俺はお前たちの、特に藍桐の話術に勝てる気がしない」
「なら黙って我々の行く先を見守ることだ」
无諦はルメルトの腕を振り解き、検体を整理してルメルトの横を通り過ぎ扉に手をかける。
「私は君が立ちはだかるのもそれはそれで面白いと思うよ」
无諦はそれだけ言うと診察室を出ていき、足音を立てて階段を登っていく。ルメルトはやりきれない想いのまま无諦を追った。
「ルメルトさん! ……あれ、なんか落ち込んでますか?」
无諦たちの下宿の部屋へ入るとテオドールがルメルトを出迎える。部屋の奥では先程の会話などなかったかのように无諦が藍桐と談笑している。
「いや、何もない。気にするな」
「そうですか?」
心配そうに見上げるテオドールにルメルトは深く息を吐く。友は、守りたい。
「あれっ!? すみません、俺何かしました!?」
「いや、本当に何もないんだ。それより喉が乾いた。茶を飲みたい」
「あっ、そうですね! お茶用意してます! 藍桐が新しい茶葉を買ってきてくれたみたいですよ」
そう言いながらテオドールはルメルトに席に着くように促す。ルメルトの向かいは无諦だ。
まだ開戦前だ。ルメルトと无諦は同時にカップに口を付けた。
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