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あさかわ
2025-05-22 16:15:53
2671文字
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縋る仏もありはしない
893パロの鬼水
『紋々彫るなら菩薩にしな』
その言葉は水木の中に残っている。
水木は布団からそっと這い出し枕もとのピースとマッチ、灰皿を手に取る。廊下に出て煙草に火を付けた。自分では見えない背中をするりと撫でて壁に凭れかかる。
「水木」
背中からかかる声に振り向くと、鬼太郎が羽織を持って立っていた。
「ん、起きたのか?」
灰皿に吸い始めたばかりの煙草を押し付ける。とたん、鬼太郎は眉を寄せ大股で水木に近づいた。
「起きたらあなたがいないなら。外は冷えるだろう
……
これを」
鬼太郎は熱心に水木に羽織を被せた。ちらりと周りを探る様子がいじらしい。
「別に誰も見てないだろ。警護の奴らに見られたって減るもんでもねえし」
「
……
僕が嫌だ。部屋に戻ろう」
鬼太郎に手を引かれ水木が立ち上がる。片膝を立てた時にふいに付け根の力が抜けた。寝間着の裾を踏んで背中の布が滑り落ちそうになる。
「っ水木!」
鬼太郎が水木を支えずり落ちた襟足を掴む。極彩色で彩られた背中の菩薩のが少しだけ露になる。
「大丈夫か? 怪我は?」
「心配するな、転んでねえよ」
「もう少し気を付けてくれ」
鬼太郎が水木の寝間着を直して帯を締め直す。起き抜けに整えもせずに出てきたせいで、だらしのない恰好になっていた。
「
……
誰かさんが好き勝手したから、足の付け根がだるくて歩きにくいんだが」
とげのある言葉を投げつけると鬼太郎の髪がぶわりと広がる。かっかと火照る首筋と震える唇が年下の可愛らしさをにじませる。
「それは
……
すまないと思っている」
行こう、と鬼太郎に手を引かれ水木は部屋に戻った。
「紋々彫るなら菩薩にしな」
水木は灰皿に押し付けられた吸殻を見る。水木が部屋に入ってきて早々に親父は吸い始めたばかりのホープの火を消した。学校の教師は職員室で生徒を気にせずスパスパやっているのに、親父はガキの前で吸うもんじゃねえだろと言う。ヤクザの方が地方公務員より倫理観がしっかりしてるとは世も末だ。
「菩薩って」
「露骨に嫌そうな顔をするな。盃交わしてくれって散々言っておいて親父の要求は飲めねえってか。俺はお前をヤクザにするために育てた訳じゃない。高校出たら都会に出てカタギの仕事をしろと何度言っても聞きはしねえで」
「でも菩薩って。親父は鍾馗でテツ兄さんは虎なのに。
……
なんか弱そうで」
親父がぶはっと吹き出して畳を何度も叩く。テツ兄さんの紋々の虎はしなやかで躍動がある。力仕事に精を出す兄さんの背中で躍動する姿は憧れだ。親父の背中の鍾馗はいつでも睨みを利かせている。着流しでも背広の中に納まっていても、親父の背中を見るだけで水木は背筋が伸びる思いがする。
「俺やテツのは威を借る意匠なのよ。弱い者が強い者を背負って力を貸してくだせえとお願いする。水木、お前が背負う菩薩は本来縋るもんで背負うもんではねえ」
親父が水木をちらりと見てから目じりに皺を寄せて笑った。
水木は子供の頃にこの家の前に捨てられた。捨てた親は田舎の町でそこそこ立派な門構えを見て、金持ちの家なら何とかしてくれると思ったのだろう。実際はヤクザの家で、早起きの姐さんはびっくりして腰を抜かしたらしい。チャカやドスが落ちていても動じないが、オシメを巻いた赤ん坊が転がっているのにはびっくりして家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
閉鎖的な田舎で捨て子の立場は悪かった。加えてヤクザの家に捨てられたのが水木の立場を悪化させた。ヤクザもんの内輪もめで生まれた子供だと白い目で見られ、行政は及び腰、警察は知らんぷり。法律に従い戸籍だけは用意されたが、町長は名付けを嫌がり姐さんが名前を考えてくれた。水木はこの家で拾われて育った。中学の頃に姐さんがガンでなくなってからは家事を積極的に手伝い、いずれは盃をくれと願った。見ず知らずの子供を育ててくれた恩を返したい。盃が無理なら小間使いとしておいて欲しい。親父は渋い顔をして兄さんたちにも止められたが高校三年の秋に親父が折れた。
「お前は優しい子だ。不幸な身の上だと蔑まれて見下されて苦しい思いもしただろう。馬鹿にした奴らと喧嘩しても滅多打ちにすることはしなかった。その優しさではヤクザとして生きるには業が深い」
自分はそれほど優しいだろうか。学校では目の敵にされ、大人も子供も水木を遠巻きにした。荒れていた中学の頃は家の中でも反抗的な態度を取り、姐さんの病気に気が付いた時は、自分の事ばかり考える浅ましさに反吐が出た。
「お前は誰の威を借りることはねえ。縋る仏もねえ。その覚悟だけ背中に背負っていけ。彫師はいつもの先生に頼んでおく」
彫師が見せてくれた意匠は見事なものだった。蓮華座に立つ菩薩の顔が穏やかで苦界を眺める目が優しい。自分はこんなに立派なもんだろうか。疑問を抱きつつも親父が選んでくれたものだ。期待に恥じないよう腹を決めて、水木が背に紋々を入れた。
「水木」
鬼太郎は水木を再び布団に引っ張り込んだ。子供の頃のように背中に抱き着くと水木はカラカラ笑ってから、力を抜いた。まどろみに身体を預けた体をいたわるように撫でた。
「うん?」
水木の背には菩薩がいる。誰の威を借りることもせず、縋る仏もない業を表すために彫ったのだという。この彫り物が一等彼に似合っていた。水木が大切にしている親父さんとは趣味があう。鬼太郎は寝間着の上からそっと水木の背中に触れた。幼い頃はこの背中によく負ぶわれていた。
幽霊族一家の一粒種。抗争で辺鄙な田舎に連れ去られ、生き埋めにされたのを助けたのが水木だ。土まみれの自分を抱きしめて連れて帰ってくれた人。全国を探し回っていた父母が見つけるまで守ってくれた人。あれから鬼太郎が大人になるだけの時間が経ち、盃ではなく情を交わした。
額を押し付けると人肌の温もりがじんわり伝わってくる。
「後悔しても離してやれない」
この人は自分のものだ。この背の菩薩に祈るのも縋るのも自分だけだ。厨子の中に閉じ込めで自分だけが拝むようにしてやりたいと、薄暗い感情が湧き上がる。恐ろしい男から菩薩は水木を守ってはくれない。
「いいよ」
優しく温かな声が返ってくる。水木は優しい人だ。その心根を現したような慈悲深く優しい面差しの菩薩を背に負っているのに、この人はそれに縋ることも救われることもない。
鬼太郎が額を背に押し付けると人肌の温もりがじんわり伝わってくる。鬼太郎は両手で菩薩を抱きしめて眠った。
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