ぐるりと天井が回った。ガタン大きな音がしたのはきっと自分がその場でぶっ倒れたから。同僚社員の悲鳴と救急車を呼ぶ上司の声が聞こえたような気がしたけど、俺の記憶はそこでぶっつり途切れている。
次に気がついたらドラマとかでよく見るあの白い天井がぼんやり視界に入って、カーテンに囲まれたベッドに寝かされた俺の腕には点滴の管が刺さっていた。
「ん……ぁ」
目を開けると室内灯が眩しくて目がしょぼしょぼした。ろくに寝ていなかったせいでドライアイが酷いし、そもそもメガネがないから周りがよく見えない。匂いと状況からここが病室であることはわかる。俺、職場でぶっ倒れて病院に運ばれたのか。よく見えてない目で枕元を探ると、ナースコールと思しきスイッチに手が触れた。たぶんこれを押したら看護師さんが来てくれるはず、漫画とかドラマで見るやつだから。
「はぁ……」
なんか申し訳ないなあ……こんなことぐらいで。遠慮気味にスイッチを押して、俺は目を閉じた。まだ少しクラクラする頭と微かな吐き気がある。ちょっと二徹しただけなのに、ぶっ倒れるなんて情けない。これでもほんの数年前まではガチ運動部のレギュラーで、全国大会にだって出たんだぞ。人よりも体格と運動神経が良くて体力があるのが自慢だったのに、このザマだ。まあ週刊少年漫画誌の編集者って時点で、いわゆる普通の会社勤めとは違うのだけは確かなんだけど。
「赤葦さん、目が覚めましたか?」
シャッとカーテンが開いて、溌剌とした看護師さんの声が病室に響いた。
「あの、俺のメガネって近くにありますか?」
「あるにはあるんですけど……」
点滴のスピードを確認しながら俺の質問を聞いていた看護師さんが口ごもった。
「けど?」
訝しがる俺に看護師さんはベッドサイドに手を伸ばした。遠慮がちに差し出されたのは俺のメガネ──フロント部分とテンプルが折れて分離してしまったのか、見るも無惨な姿になったそれ。
「これじゃ、掛けられないですよね……」
「そうですね……」
壊れたメガネをもう一度ベッドサイドに戻して、看護師さんは代わりにスマホを取ってくれた。
「頭部の検査は一通り終わっていて問題はありませんでした。点滴はまだ小一時間ぐらいかかります。あと今日は念のため一泊入院です。診断は極度の疲労……まあ過労だったんですが、血液検査でちょっと貧血傾向が見られたので明日退院前にもう一度診察になりますね」
「入院、ですか……参ったな締切が」
「救急車を呼んでくださった会社の方が〝とりあえずゆっくり休むように〟っておっしゃってたので、休んだ方が良いですよ。ちゃんと食事と睡眠をとって、元気になって戻ってくださいね」
体を起こしかけたのをやんわり押し留められて、俺は観念してベッドに横たわった。メガネのスペアは家に戻らないと無いし、会社の人に頼むのも申し訳ない。とりあえず実家に連絡して持ってきてもらおう……とスマホの画面を覗き込んだら、鬼のような着信履歴が。いちいち画面を近づけて見るまでもない、木兎さんからの履歴だ。
「もしかして、もしかするのか……」
恐るおそるスマホのロックを外すと、通知の一番最初にあった文言が『宇内先生から聞いた!』だった。
「余計なことを……」
担当作家が何の因果か元バレーボール関係者。取材の関係もあって連絡先の交換なんかもしているから、会社から宇内先生に伝わってそこから木兎さんに連絡が行ったんだろう、まったく。
普段からあまり長文のメッセージをよこさない木兎さんは、とにかく短い文章をどんどこ送ってくる。メガネの無い目で必死にスクロールして、一番最後にあった文章を俺は思わず二度見した。
「は?」
『ちょうど都内に居るから、今から行く』
「はぁ?」
自分の口からこんな素っ頓狂な声が出るなんて思わなかった。送信時間を見ると、今から数時間も前。スマホの時計に目を凝らしたら、俺はどうやら救急車で運ばれてからかなりの時間気絶していたらしい。その間に検査やら処置やらが終わっていたにしても、どれだけ疲れが溜まっていたんだと自分でも呆れてしまう。
「今から行くって……」
前回木兎さんのところに行ってから数週間、しばらく極悪なスケジュールだからと木兎さんからのメッセージの返信もおざなりになっていた。今日彼が都内に居ることも、ちょっとスケジュールを確認したらわかっていたはずなのに俺の莫迦。
『……すみません、ありがとうございます』
ドアの外で元気の良い挨拶が聞こえて、メッセージが間違いでなかったことが証明された。いつでも誰にでも明るくハキハキと挨拶ができるのは、木兎さんの良いところその45だ。
「あかーし?」
引き戸をそろりと開けて、中の様子を窺う気配がした。一応俺もキョロキョロしてみたけれど、ここは二人部屋で隣のベッドは空らしい。
「俺だけなんで、入ってきても大丈夫ですよ」
おっかなびっくり病室に入ってきた木兎さんは、これまた遠慮がちにカーテンを開けた。おおよそ病院とは縁遠そうな健康優良青年が病院にいると、なんか変な感じだな。
「宇内先生が慌てて連絡くれた」
「別に大したことなかったのに」
「救急車で運ばれたのが、大したことないなんて言わないで」
ピシャリと言い切られて、返す言葉がなかった。大切なひとに心配をかけるなんて、社会人失格だ。
「ちょっと前に〝都内で仕事あるから合流する?〟って連絡入れたのに〝無理ですすみません〟だけしか返ってこないし、そこから先は返信全部スタンプだし」
「ちょっと……だいぶ忙しかったので……」
全面的に俺が悪いから、言い訳もしどろもどろになってしまう。プロのアスリートに健康管理の甘さを指摘されたら、たぶん何も言い返せないだろう。それぐらいにちょっとどころじゃなく無理をしてた。
「メガネ壊れるぐらい派手にぶっ倒れたんでしょ、頭は大丈夫だったの?」
「頭は大丈夫らしいですが、貧血っぽいから明日また診察があるそうです」
「エナドリとゼリー飲料はご飯じゃないんですぅ。お前俺には作り置きとかしてくれるのに、ほんっと自分のことはテキトーなのな」
「返す言葉もありません」
学生時代と立場が逆転しているな、と思ったらなんだかちょっとおかしくなってしまった。着々と普通のエースの道を歩んでいるこのひとは、社会人としても俺の一歩先を進んでいる。さすが普通、さすがプロ。
「まあ赤葦が頑張り屋さんなのは知ってるし、今が頑張りどきだから頑張っちゃったんだろうってのもわかるよ」
「はい」
俺がメガネをかけていないからか、木兎さんはいつもよりかなり近い距離まできて俺の目を覗き込んだ。
「でもぶっ倒れちゃったら、意味ないよね?」
「はい」
「俺が〝無理しないで〟って言ってもお前聞かないし」
「面目ない」
「メンボクなくてもいいけどさ、とにかく俺は心配なんだよね」
「すみません」
バサバサと音がしそうなぐらいに木兎さんの濃いまつ毛が瞬いて、もう少しだけ顔が近づいた。あ、キスされると思った時にはもう唇が塞がれていて、その心地よさに俺はゆっくりと体の力を抜いた。入院してるベッドでもまだ、体に力が入っていたらしい。
「今日はちゃんと寝て、明日迎えにくるから。予備のメガネは家にある?」
「たぶんデスクの右上の引き出しに入ってると思います」
「了解。着替えとかはいる?」
「病院の寝巻きを借りているので、とりあえず大丈夫そうです」
「おっけー。あと今日はスマホ触るのもダメ、俺からはもうメッセージは送らないから」
「わかりました」
自分が全面的に悪い時は、こんなにも素直に返事ができるものなんだなあと感心してしまった。それになんだか、木兎さんが年上っぽい……って年上なんだけど。
「それじゃ帰るね、また明日」
「はい」
離れていく恋人の姿に、少しだけ胸がキュッとなる。病院ってこんなに心細くなるもんなんだ。なんとなく感情が表に出てしまったのか、たぶん俺はずいぶんと変な顔になっていたらしい。いったん背中を向けた木兎さんが振り返って戻ってきて、最後にもう一度俺にキスをした。
「さびしんぼうの赤葦に、良いこと教えてあげる」
「いいこと……?」
「明日の俺は夕方大阪に戻るまで半日オフです」
「……!」
「なので、赤葦を迎えに来て家まで送ってからもまだ、一緒に過ごせます」
ニコニコしながら得意げに話す木兎さんは年上っぽさが一気になくなって、イタズラっ子みたいに目をパチクリさせた。
「でも赤葦はヤミアガリなので、残念ながらいろいろお預けです。明日も会社はお休みね」
笑いながらそう言うけれど、どちらかというとこれは説諭に近い。木兎さんにこんな風に言い聞かされる日が来るなんてなあ。
「俺が帰ったら、すぐ寝てよ!」
「了解です」
「元気になったら、お返ししてね」
「そりゃもう全力で」
「楽しみにしてる。おやすみ赤葦」
今度こそ颯爽と帰っていった木兎さんの気配を感じながら、俺はゆっくり目を閉じた。まぶたに浮かぶのは、俺を覗き込んできた時の心配そうな木兎さんの顔。一瞬潤んでいるのかと錯覚するぐらいに、大きな瞳が揺れていた。自分の軽率な行動で大切なひとにあんな表情をさせるのは、もう絶対に嫌だ。
『無理しないで』という優しい木兎さんの言葉を噛み締めながら、俺は迫り来る微睡みに身を委ねた。
2025.5.22
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.