僕がこの隠れ家で世話になってひと月が過ぎた。兄さんは毎日忙しくヴァリスゼアの各地を飛び回り、隠れ家にいることは少ない。僕とジルは身体の石化を心配され、あまり一緒には連れて行ってもらえなかった。
それでも兄さんは忙しい合間を縫って2、3日に一度は隠れ家に姿を見せ、それぞれの役割を果たす皆を労って回っていた。18年ぶりの再会とはいえ、ゆっくり話をできる時間などはほとんどなかった。
そして、それはジルも同じだ。それゆえに、兄さんが私室にいる時は極力彼女がそばにいられるよう、隠れ家の皆と勿論僕もジルの背を押した。
「……ジョシュア様は、それでよろしいのですか?」
医務室のベッドに腰掛けて無意識のうちにため息をついた僕へ、薬を調合していたヨーテが遠慮がちにそう問うた。
「なんのことかな。ここでこんなによくしてもらって、僕は感謝しているよ」
「クライヴ様と、お話はされたのですか。お目覚めになられてからずっと、あんなにもジョシュア様はクライヴ様のためだけに……」
皆まで言わせないという僕の視線に、ヨーテは小さく、申し訳ありません、と目を伏せて呟いた。
僕だって、叶うなら兄さんとゆっくり話がしたい。18年分、聞きたいことや伝えたかったことが山ほどある。それでなくとも、僕は10歳の昔から兄さんを兄弟以上の想いで見てきたのだから。
そんな話をしたことはないが、ヨーテはきっと僕の内心を察しているのだろう。昏睡から目覚めてずっと僕の世話をして、その後も長く一緒に旅をしてきた。気づかない方がおかしいくらいだ。そんな彼女が僕のために気を揉んでくれるのはありがたくもあるが、今兄さんにはジルがいる。一度は死んだ身の僕がそれを押し退けてなんて、できるわけがない。きっと残り少ないと思われる最後の決戦までの時間は、僕ではなくジルがそばにいるべきなのは明白だった。
「全部僕が勝手にやっていることだ、兄さんには関係ない。君も、何も言わなくていい」
軋む寝台から痛みを押して立ち上がり、ヨーテに背を向けそれだけ告げた。ヨーテは深くお辞儀をしたまま、それ以上何も言わなかった。
◇◇◇
「クライヴ、あなたジョシュアとはちゃんと話せているの?」
作業机で手紙の整理をしていた俺に、ジルが眉を顰めてそう言った。腕組みをして真っ直ぐに俺を射る視線が痛い。
「いや……、なかなか忙しくてな。俺も話したいと思ってはいるんだが」
「あんなにジョシュアジョシュア言っていたでしょう。今は目の前にいるのに……」
呆れたようにため息をつき、ジルは俺が手にしていた手紙の束をひょいと奪い取った。
そんなにジョシュアジョシュア言っていたのだろうか、俺は。
俺だって、ジョシュアとゆっくり話をしたいのはやまやまだ。合間を見て医務室のジョシュアの元を訪ねたこともある。しかし、昔とあまりにも違う成長した姿に戸惑ってしまい、ろくに話もできないままその場を辞してしまった。俺を見る碧眼は昔と変わらないはずなのに、その瞳に別の炎を見てしまうのはきっと俺の不徳だ。そんなジョシュアが「大切な兄さんをあんな奴に渡せないだろう」なんて微笑んだものだから、余計に意識してしまう。
もしもフェニックスゲートの事件がなかったら、俺はあのジョシュアに不死鳥の騎士として生を捧げていた。そう思うと、何か据わりの悪いような、それでいてじわりと身体の芯が熱くなるような不思議な感覚に襲われた。その正体から目を逸らしたまま、ただ困惑して何もできないでいるのだ。
「……そのうち話せる時間もできるだろう。今は俺にできることをするだけだ」
ジルの手から手紙の束を受け取り、そう笑って誤魔化した。ジルはまだ何か言いたげにしていたが、俺はそれに気づかぬふりをして席を立った。
「出掛けてくるよ。ダリミルからの依頼だ、砂漠で何か起こっているらしい。君はここに残って身体を休めてくれ」
◇◇◇
教団の用向きで単身タボールに赴いたはいいが、隠れ家へ戻る道中また胸の発作に襲われた僕はやむを得ずダリミル宿場に立ち寄っていた。今日のうちに戻る予定でヨーテにはストラスを飛ばしたが、まだ今は余計な無理をするべき時ではない。大事をとって宿場町で一泊することにして馬を降りた。できれば彼女にはそれも伝えておきたいが、飛ばしてしまったストラスはまだ戻っていない。
薬を煽り、町はずれの人気のない水場で木陰に体を休めていると、背後から大きな一声が「ウォン!」と鳴いた。振り向くより先に、ふわりと日光の香りの柔らかな毛並みが座り込んだ肩へ擦り寄った。
「トルガル、こんなところで……兄さんも一緒なのかい?」
鼻をすぴすぴ鳴らし、トルガルは思いもよらない偶然を喜ぶように僕の頬へ鼻先を寄せた。血の気の引いた冷たい頬を舐める舌が、柔らかくて温かい。なんだか安心してしまって、その大きな体に腕を回し思わずもふもふの被毛に額を埋めた。
「こらトルガル、急にどうした。……っと、なんだジョシュアじゃないか。どうしたんだ」
がさりと草を踏む音がして、兄さんの声がした。トルガルがいるのなら近くにいるのだろうとは思ったが、実際声を聞くとその安心感は段違いだった。離れがたいもふもふから顔を上げると、トルガルの背中の越しに片膝をついて僕を覗き込む兄さんがいる。
「大丈夫か?」
「平気だよ、ありがとう兄さん。薬を飲んで落ち着いてきたところなんだ」
立てるか、と差し出された手を取ると、ぐいと力強く引き上げられた。もし兄さんがこのまま隠れ家に戻るなら、僕も一緒に連れて行ってもらおう。それならヨーテにも心配をかけずに済む。
「兄さん、このあとは隠れ家へ戻るのかい?」
「いや、俺はもう少しやることがあってな。明日までここに滞在するつもりだ。お前こそ、そんな体で今からどこかへ発つのか」
「……隠れ家へ戻るつもりだったんだけど。時間的にも少し厳しいかと思っていたところだよ」
兄さんはそれを聞くと、それならちょうどいい、と握ったままだった僕の手を引いて歩き出した。誰かに手を引かれて歩くなんて本当に子どもの頃以来で、なんだか気恥ずかしい。大の大人が手なんか繋いでどう見られてるだろうなんて、ダリミルの街中を真っ直ぐ突っ切ってずんずん進む兄さんの背中を見ながら考えていた。人の波をかき分け公衆浴場の角を曲がり、その奥の少々値が張りそうな宿の前で兄さんは振り返った。
「ここに部屋を取っている。ルジェナ・ダリミルの配慮で俺ひとり使うには広すぎる部屋なんだ、話を通しておくから先に休んでいろ」
再会してから、こんな柔らかい表情の兄さんは初めて見る気がした。昔、子どもの頃はよくこんなふうに笑いかけてくれたけど。
世話ついでにストラスの手配を頼み、兄さんの言葉に甘えて先に部屋へ入った。兄さんの言う通りそこは広く立派な部屋で、大きな寝台が二台も入っていた。前にこんな立派な寝台で横になったのはいつだったか。もう忘れてしまいそうなほど、ずいぶん久しぶりだ。残念ながら大浴場は胸の痕もあって使えそうもないが、十分だ。
忌々しい封印の発作だが、今回ばかりは僥倖だったかもしれない。たった一晩でも、また兄さんと過ごせる時間ができたのだから。
◇◇◇
思わぬ場所でジョシュアに会うことができた。クライヴは用事を済ませた茨の接吻から戻る道すがらパン屋に寄り、ふたりでは食べきれないほどのパンが入った紙袋を抱えて歩いていた。
トルガルがいなかったら、水辺に座り込むジョシュアを発見することも叶わなかったかもしれない。トルガルにも分厚い肉を買って、一緒に宿で食べよう。ダリミルの街を歩くと、バイロン叔父さんとここを訪れた日を思い出す。色々と小競り合いはあったが、その後。皿に残った人参を見て、ジョシュアの存在を確信したあの日のこと。無事に生きていてくれたことがわかっただけで嬉しかった。それが、今日は一緒にここで過ごすこともできる。大罪人と呼ばれる俺だが、そんなささやかなひとときくらい許されるだろうか。
羽織ったマントが風を孕んでひらりと舞うように揺れた。一歩先行くトルガルの足取りも心なしか軽く、早く来いと言わんばかりに意気揚々と俺を先導した。
「沢山買い込んだと思ったが、食べきってしまったな」
弟が来ていることを伝えると、ルボルは宿にワインの手配までしてくれた。それをふたりで開け、気が付くと袋一杯に入っていたパンはいつの間にすっかり腹に収まっていた。トルガルも早々に肉を平らげ、満足そうに部屋の隅で寝息を立てている。上機嫌でワインのゴブレットを傾ける俺に、ジョシュアは食べ過ぎだ、と笑った。ひと月以上もまともに顔を合わせないまま、俺たちは何をしていたのだろう。こうして向かい合ってしまえば、昔のようにわだかまりもなく話ができることを知っていたはずなのに。
上機嫌のまま浴場へ誘った俺に、ジョシュアは残念だけど、と首を振った。僕に構わず行ってきて、と笑った胸元に例の痕が僅かに覗いていた。一度医務室で見ているはずのそれに動揺してしまい、直視できなかった。怖いとか禍々しいとか、そういうことではない。淡く妖しい色で脈打つそれを埋め込んだ白い肌が、不謹慎ながら何故かやたら官能的に見えてしまったのだ。
まるでジョシュアの前から逃げるように浴場へ向かった。
ひとり熱めの湯に浸かりながら両手で頬を叩いた。
この据わりの悪いそわそわした心地の正体がなんなのか、俺はもうとっくに知っていたのに。
◇◇◇
兄さんが浴室へ向かった後、僕は窓際に眠るトルガルの隣で夜になっても賑やかなダリミルの街を眺めていた。
もしこの部屋に浴室がついていて、兄さんから一緒に入ろうと言われても僕は入れなかっただろう。胸の痕のことじゃない。僕は兄さんをそういう目で見てしまうから。
窓の下では娼館の娼婦や男娼と思われる者が甘い言葉で通りを歩く客を誘っている。娼館なんて珍しくもない。栄えている街には必ず一軒や二軒、あるものだ。見慣れた光景だし、そんな稼業もあるものだと理解している。それなのに、今はその光景がまるで薄汚い自分を見せられているようで居た堪れなかった。なのに窓も閉めないでそれを眺めているのは、そんな自分を戒めるため。兄さんにはジルがいるし、そんなことには天地がひっくり返ってもならないだろうけれど。
ゴブレットの底に少し残ったワインを飲み干し、葡萄色のため息を落とす。足元で寛ぐトルガルの耳が何かを払うようにピクリと動いた。
「ねえトルガル。もしも僕が兄さんになにか悪いことをしようとしたら、その時は迷わず兄さんを助けるんだよ」
兄さんは、きっと僕が何をしても強く拒むことはしないだろう。頭を撫でると、トルガルは不思議そうに僕を見上げくうんと鼻を鳴らした。
がたりと重い扉の開く音がして、兄さんが戻ってきた。濡れ髪を無造作にかき上げただけのラフなスタイルは、いつもより兄さんを若く見せていた。
「俺だけ、すまなかったな。どうしたんだ、そんな部屋の隅で」
「なんでもないよ、飛ばしたストラスがちゃんと届いたかと思って」
ああ、と兄さんは短い返事をして寝台の縁へ腰掛けた。
「ヨーテ嬢か。お前が昔から随分と世話になっているんだったな」
「彼女がいなかったら、僕はきっと今ここにいないからね。……それよりも兄さんこそ、ジルにちゃんと言伝はしているのかな」
窓際から離れ、僕も空いたもう片方の寝台へ移動する。兄さんは僕の問いには答えず、乾いた笑いだけを返した。ワイン片手に食事をしていた時と違い、今はお互いどこかぎこちない。
「……胸の封印は大丈夫なのか、今日苦しそうにしていたのもそれなんだろう」
「それは気にしないで。僕が勝手にしたことだ。今はただ兄さんの役に立てればそれでいい」
これは心からの本心だ。フェニックスゲートのあと昏睡状態から目覚めてずっと、僕は兄さんのためだけに生きてきた。何か禍々しく大きな運命に捕らえられようとしている兄さんを守るためだけに。本当は、名乗り出る気もなかった。それなのに、今は同じ目的を共有してこんなふうに話すことができて。十分すぎるほどに幸せだった。
なのに。あなたはどうしてそんな目で僕を見るの。もっと求めてしまいたくなるじゃないか。
「しかし――その痕は俺のために……」
僕を見る藍の瞳が頼りなく揺れる。そんな目、他では絶対に見せないで。喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
薄い軽装のシャツから覗く、灯りに照らされ艶めく鎖骨。その下へなだらかに続く鍛えられた胸筋。湯上がりの頬には髭がしっとりと水分を含み、ベアラー紋の傷痕すら僕の邪な目を悩ましく誘った。
魔が差したんだ。ほんの少しできた隙を狙って、魔が差した。
「それなら、一度だけ僕のお願いを聞いて」
――今日だけ昔みたいに、僕と一緒に寝てくれる?
◇◇◇
ひとつの寝台にふたりで横になり、ジョシュアが後ろから俺の背中へ寄り添った。昔みたいにというから、俺が腕枕でもするのかと言ったら、ジョシュアは流石にそれは恥ずかしいからと笑った。
しかし、後ろでごそごそと動かれると擽ったいし、気になって仕方がない。向かい合うよりもずっと、互いの身体がその形に沿って自然に密着してしまう。腰を抱くように添えられた手をどうしていいのか分からずに、俺はただ何もできず固まっていた。脇腹の辺りに置かれた手の大きさに動揺を隠せない。俺の知るジョシュアの手は、小さくて柔らかかったはずなのに。湯で火照った肌にじわりと汗が滲む。暑いのか、熱いのか。腹の底で渦巻く熱を逃がそうと、密かに長い息を吐いた。
項を撫でるジョシュアの呼吸が襟足の髪を揺らし、ぞわぞわと擽ったい。何とも言えないむず痒さが背筋を這いあがり、思わずぶるりと身体を震わせた。どうにもじっとしていられず、膝を擦り合わせて身じろいだ。せめて灯りはつけたままにしておけば良かった。この暗闇が、余計な想像ばかりを掻き立てる。眠ろうと目を瞑れば、ジョシュアの吐息と体温がダイレクトに伝わって到底眠れない。脇腹に置かれた手が僅かに動いたその刺激だけに、自分でも驚くほどびくりと身が跳ねた。
「兄さん、緊張してる?」
わずかに笑い含んだからかうようなジョシュアの口調に、かっと頬が熱くなった。こんなことに動揺しているのは俺だけか。
落ち着けと自身に言い聞かせ、ひとつ大きく息を吐く。すっかり大人になったジョシュアの手に自分の手を重ね、きゅっと力を込めてみた。やたらと熱い自分の手と違って、ひやりとして気持ちよかった。
「……ああ。そうかもしれない。昔のように、というわけには……いかないな」
「僕もそう。――同じだね」
そう言って、ジョシュアは額を俺の肩へ押し当てた。まるであの頃みたいに、ぐりぐりと擦り付けるように。
同じなのか、ジョシュアも……。そう思ったら少し緊張が解けて、ぽふりと枕に頬が沈んだ。首の筋が軋む。そんなにも力が入っていたのかと、我ながら可笑しくなった。
「ごめん。わがままを言ってしまったね。もういいよ」
ふっと背中が軽くなって、風が通り抜けた。暑いほどだった空気が霧散し、汗を吸った生地がひんやり冷たく感じた。ふたりきりの空間の境界だった掛布が剥がれて、また元の世界と同化した。あんなに緊張していたのに、いざ離れてしまったらぽっかり穴が空いたような淋しさに後ろ髪をひかれている。
半身を起こしてそちらを見れば、暗い中で既にこちらへ背を向けたジョシュアがいた。もういいのか、と思わず尋ねるとジョシュアは振り返らないままふっと短く息を吐いた。笑ったのだろうか。それにしては、やけに哀しい音だった。
「――眠れないと明日に響くから。でも、嬉しかった。ありがとう、兄さん」
それだけ言って、ジョシュアは立ち上がり隣の寝台へ移っていった。窓の外から入る少しの光がぼんやりとその影を映し出す。少しの衣擦れの音のあと、その影も動かなくなった。
おやすみ、と声をかけたがジョシュアの返事はなかった。
代わりに窓際から、くうん、とトルガルが一度だけ鼻を鳴らした。
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