都心の地下街の飲み屋の並びの奥に古い喫茶店がある。突き当りにある赤いレンガ調の外壁には、そこをくりぬいたかのような茶色の扉の上に掲げられた看板は深緑色の琺瑯引きで、白い「珈琲館R・G」文字が今も輝いている。
中に入れば暖かな照明の色に染まった壁に包まれ、店と同じ時を過ごしてきた珈琲色の調度品が心を落ち着かせてくれる。赤い皮の椅子にかければ、この場所で得られる体験への期待に体がはずむ。
早朝から始まるモーニングサービスタイムは長い通勤時間の果てにたどり着いたサラリーマンが目覚めの一杯と暖かな食事で英気を養い、常連の老人は介助犬と共に定位置で居座る。
ランチタイムは周囲の企業のオフィスから避難してきた者がエネルギー源をかき込み、外では腹を空かせて苛立つ行列ができ始める。客のクレーム対応などという無駄な仕事を増やすまいと調理場はありったけの仕込みを最大火力で放出する。ホールは注文の猛攻を伝票と記憶で捕らえ、各個撃破していく。
やっとたどりついたアイドルタイムには朝の仕込みでいっぱいだった冷蔵庫は空になっていった。
人の多い場所ゆえに昼下がりであっても客は入り続けるこの店では、ランチを乗り越えた体に鞭を打って第三波に備えなくてはならない。
「たりぃ」
制服の白シャツの襟元を飾る黒い蝶ネクタイを緩め、イグアスはステンレス張りの配膳台にもたれかかった。
丸太のように太い腕の店主が火力を調整するサイフォンからコーヒーが香り、背後の調理場では調理と並行してカフェタイムに備えた仕込みが行われている。
「イグアス、お客様の視界に入る!」
「わーった、ずれりゃいいんだろ」
店主のミシガンに注意されたイグアスは「うっせえな」とぼやき、一歩ずれてドリンク用冷蔵庫にもたれかかる。慣れた手つきで冷えていたオレンジジュースをグラスの縁まで注いで枯れかけたのどを潤す。
ミシガン愛用のちびた竹べらで混ぜるサイフォンがボコボコと泡を立てながら下層のフラスコにコーヒーを送り出した。
「レッド、10卓のCにハウスブレンド」
「了解!」
配膳台に置かれた店のロゴが入った白いコーヒーカップをトレンチに移し、片手で運ぶ新人のレッドの動きはぎこちない。カチャカチャと音を立てるソーサーと共にイグアスの視界から消えた。レジに溜まった伝票の整理をしていた副店長のナイルの手が止まる。
しばらくして空のトレンチを脇に抱えて戻った。見守っていたナイルは伝票を揃えて事務所へと持って行った。
「おまちどう、どっちが行くんだ?」
レッドが一息つく暇もなく配膳台にはヴォルタが作ったふっくらきつね色に焼き上げられた二段重ねのパンケーキとシナモントーストが並べられる。
「おう、提供は俺がやるから、ドリンクと仕上げはレッド、お前がやっとけ」
「はいっ」
レッドが見本写真を見ながら皿へホイップクリームを絞り、冷蔵庫で冷やしたグラスをメロンソーダと氷で満たし、白いバニラアイスと真っ赤なサクランボをあしらいクリームソーダにする。その間にイグアスは空にしたグラスを洗い場に置いて蝶ネクタイを締め直し、足首まで届くロング丈の黒いサロンを整えた。
準備された全てはイグアスの指先に支えられたトレンチの上に吸い付くように乗せられ、ミシガンの用意したホットコーヒー片手にホールへ導かれていった。
――いつか自分もできるようになるのだろうか。
一杯のコーヒーを運ぶだけで精一杯なレッドが背中を目で追う。すり減った床板の凹凸は意識しなければ躓くのに軽い足取りで難なく乗り越える。ホールに立てば一本の木のように不動を貫き、隅々まで行き渡らせた目で客の注文を見つけ出して対処する。それでいて真面目かと思いきや話してみれば気のいい兄貴で、今日も銀色にきらめくフープピアスをつけているわ、シャツの下はいつもタトゥーでにぎやかだ。
洗い終えたフラスコを拭いていたミシガンがレッドを手招いて耳打ちをする。
「見るだけならカメラでもできる、自分の体で再現できるようここでも真似ろ」
「はい!店長!」
元気にトレンチを持つ練習を始めていると、ドアベルが軽やかに歌った。
「いらっしゃいませ、こちらのお席へどうぞ」
レッドが客の姿を視界に入れるよりも早く、営業スマイルのイグアスが客を席に案内した。膨らんだトートバックを提げた客達は四人掛けの席に荷物を降ろし、真っ赤な合皮のメニューブックを開いて相談を始めた。
とりあえず自分にできることはこれしかないとレッドはトレンチにお冷を二個用意した。
「サンキュレッド、今暇だし注文取ってみろよ」
「なっ!」
戻ってきたイグアスがトレンチをレッドに押しやった。
「しょ、承知しました!」
元気な返答にイグアスが顔をしかめる。
「……うっせえ」
イグアスがシッシと手を振ると、ぎこちなくも確実にレッドはホールへと進攻していった。
「言葉遣いに注意しろ!」
「ジジイもうっせえわ」
「セットオムレツサンド、セットスペシャルオムレツサンド、食後にプリンです!追加の御注文があるかもしれません!」
高らかにオーダーを唱え、厨房のヴォルタに注文用紙を見せる。
「午後のプリンは14時過ぎからの提供だってのは言ったか?」
「はい先輩!今回は言えました!」
レッドに尻尾があったら取れんばかりに振っていただろう。伝票のチェックを終えたヴォルタは冷蔵庫から卵のトレイを引き出し、リズムよく両手でボウルに割っていく。この店の名物の、分厚い卵焼きを挟んだオムレツサンドイッチになるのだ。
「ヴォルタ、卵サンドのトマト間に合うか?」
「ギリいける」
「じゃあ、五花海が帰るまで様子見で、無理ならレッド速攻で行かすぞ」
「OK」
油で光るフライパンがコンロに並び、ヴォルタは10個の卵と調味料の入ったボウルを勢いよくかき混ぜはじめた。
レッドはミシガンにサイフォン式コーヒーのレクチャーを受けつつドリンクの準備を進めていく。
料理が出来るまで手持無沙汰になったイグアスはレジに立ち、満席の店内を見回した。
アイスで口をべたべたにした子供、神経質そうな眼鏡のサラリーマン、イベントの感想会で盛り上がるアフターの席、生活の一部にこの店を取り込んだ近所のバーのママが各々の時間を過ごしている。
異なる背景や目的で訪れた彼らだが、いずれも店で一休みをして外に出て行く。真っ赤な銃から飛び出す銃弾のようにその日一日の役目を全うしていく。
レッドは家計の支えとして、ヴォルタはいつか店をする日のための修行を兼ねて、他の従業員は小遣い目的だったり、生業として喫茶R・Gで働いている。イグアスはただの繋ぎのつもりでここにいる。この先どうするかは決めていない。とりあえず、給料を貯めて買ったシルバーのフープピアスはイケているし仕事中にもつけられるから気分がアガる。
「どうすっかな」
これから先のことは本人にも分からない。
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