窓からの陽光をロイのベッドで遮るように、丁度今朝古書店で買った本を床に蒔いて、それから積み上げて、その中の一冊を読んでいた。日焼けしたページの上で掠れても字形を留めたそれをただ読み下す。
与えられるものを与えられたまま受け流しながら、脳裏には真っ白な空間と全く反対に真っ黒でけらけら笑う人影が手を振っていた。
昨日、依頼主本人もとい不条理に執心の神様から正式な許可を頂いたものだから、ロイは益々張り切って人を呼んで、わたしはまずまず書き切って記憶を溜めていた。書物机を見上げれば、その名残の白い紙が光を舐めていた。
今朝は話の予約がなかったし、ロイは明後日の観劇が随分楽しみなようで、うきうきと宿に居る仲間達の部屋をあっちこっち行き来しているので静かな朝だった。目が覚めて、ただ鳥の声と布が擦れる微かな音だけが聞こえた時、ふと、喉の詰まりを覚えた。
だから、街に繰り出して黴臭い古書を買い溜めていた。ちらちら埃が光る店内で、目についたものを片端から買い漁った。
こうやって溜めた所で最後は、と考えて首を振る。
意図してぱちり、と瞬いては、活字を指でなぞる。掠れた字。読み上げる脳内の声。微かな凹凸。少し焦げた臭い。無からちょっと離れた気になる風味。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、些か怪しい味覚。読書とはつくづく感覚的な営みだと、思う。そんな感覚をかき集めて、研ぎ澄ませてみて、結局。
眼前に並べられた言葉の意味を、どこまで掬えるのだろう。
掌一杯の一片の塊を放り出す前に、コンコンとドアを叩く音がした。うっかりした衝動を抑えて、ページを捲る。それから紙を一枚捲る間が空いて、カチャリとドアノブが回った。微かに冷えた空気が流れてくる。床の擦れる音が数回。視界の前方、端で黒い裾から暗褐色の革靴が覗いて、隠れた。
「相変わらず、本、読んでるんだね」
ゆったりと声を掛けられてから、読みかけの一文をそのままに、漸く顔を上げる。真っ黒な法衣に暗い茶髪、下がり眉。
「よく来たね。ソウくん」
親友に習ってゆったりと、特にこれといった理由はなく、くん付けで呼ぶ。部屋の鍵は寝たり外出したりするのでもなければ開けてあるし、今回の客は堂々開けてくるのを知っていたから驚くような事もなかった。
「マリィから聞いたよ。旅の事、全部話したって。ついでに内容もちょっと聞いたけど」
「ああ、話したんだ。変な話だったでしょ?」
「変というか壮絶というか、不思議な感じ」
ソウは苦笑して、首を軽く振った。
彼の背後には誰の影もなく、ドアは開く気配がない。
「今日は一人? 初めてじゃない? 一人で話すの」
「そうだね。たまにはサシで話そうかなって思って」
彼の言う通り、わたしの部屋で旅の話をする時は、何時もミカが一緒に居た。少なくとも今日この時までは例外なく、そうだった。
彼は旅の事を少しだけ覚えている。話すのは皆の魔物との戦い方だとか実際のその場面とか、その後の治療の事だった。野営もそこに入ってくる。旅の戦闘面――旅の中では日常だったけれど一般的な日常ではなかった部分の種々を良く覚えていた。
逆に宿屋の中、本当の日常生活の事は余り、と言っている。が、数回に分けて、本人の覚えている全部を話してもくれていた。わたしがソウに放蕩息子の喩えに言及したときの事だとか、ケントのクリスマスと救世主の捉え方だとか。専ら彼の不信心に触れられた事が彼の宿屋の中の記憶であるらしかった。
ミカとは全く正反対だ。こんな所でも補完し合うのか、と諧謔混じりに感心していたのは記憶に新しい。
二人とも内容も中々正確で、わたしの書かなければならない事に一番近かったから、二人とも協力的で非常に助かっている。ただ魔物の姿、形だけは人の器官を貼り付けたグロテスクなものではなくて極々一般的な姿に改変されていたけれど。そこは、覚えていない方が良いものであろう。
そういう訳で、精度も高く、奇しくも非日常な日常と本当の日常を分担しているから、何時もソウとミカは二人組で話すのが常だった。時折、わたしと同じように周縁を辿るマリィも来ては、静かに二人の話を聞いていた。
とはいえ、一人で話してはいけない理由も道理もない。別に、大した問題ではない。
ちら、と途中で千切れた文を見下ろし辿ろうとすると、ソウはくすり、と息を漏らした。
「買ったの? 今朝、外に出るのは見かけたけど」
「うん。買って来て、消費してた」
「ざっと見た感じ、十冊はありそうだね。一月保ちそう?」
「さあ。保たなかったらまた買いに行くよ」
視線は黒い文字に向けたまま肩を竦めて、空いた左手で本の山を軽く叩く。長編の文学も哲学書も、気まぐれでこの山の頂点に置いた神学書も、空き時間の暇潰しのためにここに在る。所詮暇潰しで、構えても言葉は素通りして行く。時間を掛けて読むような理由もなかった。
「路銀まで使わないようにしてよ」
「え〜……善処はするよ」
「また城下街の僻地まで行くのは嫌だからね」
口調に反して柔らかな声に、そういえばそんな事もあったな、と思い返して、喉に小骨が掠めたように痒くなる。
城下街に括られてはいれど、殆ど城下外だった馴染みの本屋で一度うっかり金を使い果たした事がある。幸い、なけなしの小銭一枚はあって、公園で宿に電話を掛けたらソウに繋がったから、ソウに迎えに来てもらった。うららかな日暮れの事だった。誰の秘密も突かない、詰まらない日常の事だった。
無事、部屋に戻った時、去り際だったか。「また城下街の僻地には行くのは嫌だからね」と、珍しく取り繕わずとも穏やかに言われたのを覚えている。
そう、今と全く同じように。一字一句、違わず。
あれ、と疑念を飲み込み、咳払いを一つした。
これぐらい、大した事はない。良くある台詞なのであるし。また、と言ったのも、無自覚の残滓なのであろう。なんと言ったって、今回の喪失自体が杜撰であるのだから。
見つめていた茶けたページの文字も途切れて、隣で一字下がる。段落の切り替え。丁度良いからと視線をソウに戻せば、彼は柔らかい笑みでわたしを見下ろしていた。
「本は好きじゃないんだっけ、一昨日のミカとのやり取りを聞くに」
「ああ、うん。まあね」
一昨日したのは奇怪な人皮装丁本の話だったか。手に入れた経緯も判明した訳も明かすとき、ミカが純粋に、混じり気なく「シオンちゃんは本が好きだから、詳しくって」と言うから。定型文のように、好きではないと否定すれば、彼女はくすくす笑って「でも日焼けしないようにとか、大事にしているでしょ?」と返されて。
そんな事はないよ、最後まで持ち歩く訳ではなくて。結局最後は。
そう言えていれば、ミカの純粋な勘違いもない訳だ。
「でも、結局何で好きじゃないんだっけ? 一昨日は適当に誤魔化してたでしょ」
「良く気が付くね」
「適当に笑って流す所、ケントと良く似ているからさ」
「うわ、不名誉」
案の定、決してこの部屋に近づきすらしない奴の名前が出てきて、けらけら笑う。
それから、ページの端の文字を、特に意味も無くなぞった。
「でもね、本に価値なんかないよ、とは思ってる」
ぱたん、と閉じる。栞は挟まない。この本を開いた理由がないなら、挟んだ所でこれといった意味がないから。
「……古本屋で散財する奴の言う事じゃないでしょ」
全くその通り。返す反論もなく「ぐうの音も出ない」とけらけら乾いている笑声と一緒に返してやる。
そうすれば、ソウはわたしの前にある本の山を見下ろして、呆れたように腕を組んだ。それに、ふと既視感を覚えた。瞬き一つする間に思い出す。頭の引き出しは軽い方なのだ。
そういえば、旅の途中、全く似たやり取りをした。
わたしがベッドとベッドの隙間の地べたに座って、本を積んで。ソウは真正面に立っていた。丁度ソウと、たった二人。あの時も紙の匂い、よく燃えそうな臭いがする中、話していた。そんな詰まらない日常の事。
丁度閉じた本も神学書だった。
忘れているのに、立ち位置も小物も含めてもう一度再演するとは。ソウも、ソウに限らず何も根は変わりがない、と言う事なのだろう。自己同一性と呼ばれるもの。失われても過去は確かに存在するとか、そういう形而上的な話。
「ソウも読む?」
手にしていた本を差し出す。黒い表紙が光を浴びて黄味を帯びる。デジャヴに駆られて気が付けば、こんな意味のない事をしていた。
ソウは右目を微かに眇めて怪訝な顔を隠さない。暫く表紙を眺めて、それから小さく息を吐く。
「何の本」
彼は腕を組み直しながら、至極当然の台詞を、呆れを隠さずに尋ねる。だからわたしは、へらへら笑って次の言葉を続けた。
「神学書。最後まで御言葉たっぷり」
「うわ、すこぶるいらない」
「仮にも牧師が言う事じゃないでしょ」
テンポ良く返ってくる拒否に、つい、くすりと息を漏らす。それを見て、ソウはわたしが揶揄っていると思っているのか、はあ、と大きく息を吐いて、首を少し傾けた。
ここまで同じだ。ソウの返答も態度も、あの時と同じだった。
でもずっと同じでない事も知っている。
「もう辞めるから良いでしょ。あと、読んだ事あったから」
「……それは仕方ないね」
差し出した本をそのまま隣のベッドの上に置く。表紙の布がさりさりと指を撫でていった。
今では不信心を隠して努めるアンバランスはなくなっていて、ずっと根が穏やかだった。
変わったけれど変わっていない。不思議と喉が詰まる感覚がする。
一呼吸おいて、積んだ本を指差す。どれもこれも日焼けや湿気から逃れられなかったので、厚い表紙の隙間から見えるページは茶色で時折へなっと歪んでいる。文学、哲学。そういった類のものだった。
わたしが持っていてどうする、と思わないでもなかったので。
「他に何か読みたいのある? 貸すけど」
雑な提案をした。結局同じ轍を踏む。
ソウはまるで慣れた調子で間髪入れずに答えた。
「漁れる程の量もないでしょ。読み終わって面白かった……いや、やっぱり。面白くなかったのを貸してよ」
妙な提案だった。迷いない仕返しに若干戸惑う。
「一捻り入れたね。面白くない本を読みたいなんて」
「たまには趣向を変えるのも手かな、と思って」
「はは、何の手?」
何もないだろう、と口にした始めの一音に被せて、ソウは口を挟んだ。
「何だと思う?」
自分の手で顎を支えて、きゅう、と彼の白っぽい瞳が細く、緩い弧を描いた。
直ぐには何も言えなかった。ソウの足元を見ても影が伸びるだけである。分け入らなければ見えるのはこんなものだ。
「……わたしと話すのに何の目的もないでしょ〜。あっても旅の事とか?」
からから、乾かした笑いと共に空いた手で、だからお終い、と空気を払った。
ソウは一瞬眉を顰めたが、それから大きな溜息を吐いて肩を小さく竦める。不満気にも諦めたようにも見えたので、見なかった事にしておいた。
「それもそうだから、まあ、良いよ。きみが何かセンチメンタルぶってるし、今の所は」
「あはは。どの辺りが感傷的だって?」
「人に聞いておいて答えを決めてそうな所」
「真逆、買い被り過ぎだよ。そもそも何かを決められる程の身分じゃあないし」
「そういう所。自分の土台を自分で取り去ってどうするの」
「どうするって言われてもな〜」
ソウの視線はいやに鋭い。正直に答えている筈なのに、慎重な懐疑は変わりがない。だからこそ不信心牧師なぞをやれたのだろうけれど。
取り繕う皮がなければ、ただただ純粋な武器である。
正に今も同じ轍を踏もうと、踏ませようとする自分を穿ちかねない。
わたししか知らない、筈の記憶を手繰り寄せて言う事を決めていく。現状を反映させる改変を挟みながら。
「ソウはシニックなの、隠さなくなったね」
「解釈次第な言葉は使えるようにしたから。仕事の賜物で」
「ふ〜ん。言葉は神だったから頑張った?」
「万物が言葉から成る事だけは正しいと今も思っているから、だよ」
それにしたって良く出来過ぎてはいないか? 淡々と返ってくるソウの答えは一々、あの頃の言葉と重なり過ぎている。ちらりと掠めた自己内省は、万物たる言葉についての思考で流されていった。正しくは流したのかもしれない。もう手元にはないから、良く分からない。分からないと、思っている。
万物が言葉なら、人間の言葉で出来たと言うのなら。
「……良く言うねえ」
何ともなしに目の前の本の山に触れる。装丁が凝っているようで、掘られた溝が指に引っかかっていく。指を離しては、その指先を見つめて引っかかった感覚を確かめるように、親指ですり潰している。つい、未練がましいよな、と自嘲する。言葉を感覚で捉えられる筈もないのに、頼れるものはこれしかないから。
見上げれば、ソウは眇めた顔を隠しもしない。
「本を扱き下ろすきみだって良く言うよ」
「扱き下ろしている訳じゃないよ。ただ単に本自体は、引いては言葉単体に、価値がないなって思うだけ」
「良く分からないな。人間じゃないから人間の言葉が正しく理解出来ないって言うのが、一番」
掠れた呟きが転がって、目を瞠る。乾いた空気が鼻腔を通って、喉が乾く。
それは、この既定路線の最終結論に他ならない。
「その話、したっけ?」
吃らないように注意を払って、動揺は疑問符に包んで。口元を緩く押さえたソウの瞳を見据える。
揺れも色もなく、淡々と周期的に瞬くだけだった。
「……マリィから聞いた。言葉の解釈に困ってるって。だから話してるんでしょ。後はロイからも。きみが原稿で篭っている間に色々聞いたよ」
後は、とソウは顰め面とは真反対に、口調だけは緩るかに続ける。
「会議の時、保留した答えの整理するからってニアとハチを連れて一回出てったでしょ。記憶の状況じゃなくて、人外連中か、で迷いなく選んでさ。旅よりケントが嘘吐いてるとか吐いてないとか話したんだろうけど」
「で、そこから推測した? 人間の言葉がキーだって」
「……まあ、そんな所」
結構な精度の推測だ。話し振りと変わって、彼の歯切れの悪い纏め方も頭の中であっちこっち引っ掛かりながら腹まで落ちていく。
ソウは更に続ける。
「きみって人間とそれ以外を明確に区別するよね。マコトとカキの事も結局それでチャラにしたし」
「痛い所を突くね」
何と言うか、良く分かっているよな、とけらけら笑う他ない。二人の事を持ち出されると、明白に頷くしかなくなるから、本当に。
「まあ、それはそうなんだけど。でも、それで?」
本当に、喉が詰まる。目の前に何もなかったと気が付いたのが、全部全部千切れて、滑落し切ってからで、どうにもならなくなった時の感覚。完了形の惨さとも言うのだろう。
ソウは一層怪訝そうにわたしを見下ろす。
「そこが忌々しいよ。全然分からないから」
忌々しいって。それは、わたしの方が、よっぽど。
先日、ロイに感じたそれと同じ形をしているから、口に出せる筈もない。こんなものを蓄えて何になるんだ。
切り上げようと手を払ったら、雑に作った本の山の頭ににぶつかった。
ぐらぐら揺れて、どさどさ切り崩れていくのを見つめる。わたしも、ソウも黙っていた。
見るも無惨とは言わないが、それでも山の残骸と呼べる位に方々に流れていった、本を集める気力はなかった。折り重なって未だに集合であった本が、蛇腹の輪っかのおもちゃみたいだと、ぼんやり詰まらない事だけ考えて、ソウを見やった。
ぶつけた手の甲は微かに熱を持っている。痛いのかは良く分からない。擦れた感触だけが乗っていた。それが暫く居残りそうだったので、演技をするみたいに声を張る。演じるような役割だって何処にもないのだが。
「……分からなくて結構! ソウにとって神の言葉が分からなかったみたいに、わたしには人間の言葉が分からないよ。人間の言葉は人間の為にある。賢者ではないからね、越境は出来なかったよ」
「成る程ね。上手な言い訳を思い付くのが上手いよ」
「そういう事で、これはお終い」
パチパチ、乾いた拍手で締める合図をすると、ソウは首を横に振りながら「それでもね」としゃがみこんだ。頭の高さが漸く合ったな、と思う側で、ソウは崩れた本を拾い上げた。軽く表紙の埃を払う。
「やっぱり本を積んでるような人に言われても、説得力が皆無だと思うんだ」
ソウは伏し目に柔く笑って、本の縁にかけた親指でそこを少しだけ擦った。「よりにもよって哲学書に文学書ばかりだしね」と皮肉っているけれど、そんなに穏やかに笑うのか、と思った。ふとこの間も考えた事とそっくりだった。わたしの手を握ったロイが重なって、目線を彼が拾った本に落とす。知らない作家の短編集だった。
「きみは、きみが思うより人間臭いよ。分からないものに囲わせちゃってさ、ずっと」
そうして差し出された、臙脂色の表紙がいやに明るかった。
「……どういう意味?」
「多分、きみは人間の言葉が相当に好きなんだろうなって事」
「真逆。反語と皮肉?」
答えはない。ただ、元から困ったように下がっていた眉を更に下げられただけ。
手を伸ばしてつるりとした滑らかな感覚が乗ったら、当然だがソウの手は離れていく。支えがなくなれば重みが増える。
表紙のビニルみたいな加工がぴかぴか光っている。脇に置く気は湧かず、ソウが本の山を再建設する所をぼんやりと眺めていた。丁寧に、本の端を揃えながら重ねていく。
大した量ではなかったから、直ぐに復元された。その一番上に渡された本を置く。
紙の重さの分だけ軽くなる。これがわたしにとっての言葉の重さに他ならなかった。たったこれっぽっち。
これで、本心から言葉が好きだと言うのなら。ソウも随分他者を信頼するものだ。
そもそも積み上げたこれらは、終局、どうするかと言えば。それを話せば、話せれば、きっと詰まらない誤解も消える。誠意というものもあるだろう。神様に向かって言った事の後ろめたさも減るのだろう。それが出来れば、もっと真正面から、素直に。
こうやって取り立てて繰り返して自問するなら、今すぐ自由に動く口を使えば良いだろうに。話さなければ分からないのだから。
裏を返せば、話さなければ分からないままになる。だから、そうしている。
足元に何かを隠している。誠意とは程遠い。自覚だけぶくぶく膨れている。自分の手の中に在るのに、ままならないものの事。
内省と自己批判の中から、ぱちり、ぱちり、と燻る音が聞こえてきた。
***
本というものはマッチ一つで良く燃える。所詮、紙の上に音象徴の記号の染みを乗せただけの紙束だから仕方がない。
実家の、朝が来るには早すぎてまだ薄暗い庭の、家の窓からは隠れた所。燃え盛る炎にマッチの燃え殻を投げ入れた。それから白い袖についていた煤を払った。
はらはらと舞う紙片の灰はさながら雪のようだった。真っ黒な色、焼ける臭い、焦げ臭さは全く対照的だったが。
禁書も魔導書も、文学然とした言葉の塊も全部放り込んだ。ぱちり、ぱちり。灰になって原型もなくなって、原則では復元も不可能になる音が続いている。
一重に旅に出るための準備だった。母は読み終わった本は二度は読まないし、父は読めない質であったから、私がいらないと言えば、それきり肥やしになるだけだったろう。勝手に燃やしても何ら問題はなかった。
灯りに誘われて虫が飛び込んでいく。命が焼ける。そういうものだ、とずり落ちた眼鏡を押し上げる。
読んだ本は全部焼くつもりだった。読めども読めども、本当の所、胸の根っこの部分では、本と言葉の裏に在るものも世界も良くは分からなかったから。
だから実際に見てみようと思った。私を外に連れ出してくれたあの人――数百年前だって輝かしかった白いローブを来たあの人のように、朝日を浴びたって灰にならないのを知ったように。多少自分の宿命に反したって、最後はそれに従うしかなくったって、今ぐらいは勝手にしたって良いんだと思っていた。多分、信じていた。
畢竟、自分が世界の中心だった。
すぐにでも足を踏み出しても良かったけれど、どうにも私の中に吸血鬼の本質がある事が後ろめたかった。
土くれより酷い存在。因果律の狭間に横たわった屁理屈による不死。それが吸血鬼だった。伝承上の同名の怪物みたいに夢も微かな浪漫も何もなかった。
これが気に入らなかった。これがあっては世界に慣れない気がしていた。
だったら、どうにかすれば良いと思った。自分の気に入らない部分は取り除くか、それが無理なら抑えるようにしたって良いと思った。結局最後帰るとしても、勝手が許されるのなら、足掻いてみたって良い。
幸い、そして不幸にも、心当たりはあった。書斎の隅に母の手記があった。
魔法に関する研究。乃至、魔法の取得方法。
それが内容のすべてだった。結局上手くいかず、最終ページの最終結論、つまり魔法を身に着ける方法は真っ黒に塗りつぶされていた。「碌なものじゃない」と書かれて余白はなくなった。母はもう二度と究めようとはしないだろうから、私が拝借した。
その結果、本を焼いている。言葉と私の距離が更に遠ざかった事に目を瞑るために。
母の手記も焼くつもりだった。が、どうしても火の中に投げ込むのを躊躇って、結局胸に抱えていた。当時は自戒とか自罰とか、そういうものではなく、単純に塗りつぶされたページがある理由の答え合わせがしたかった。
こうやって分かるもの、分かれないものを、無意識だろうが何だろうが、選別していたに違いなかった。白くて重たい服を着ていた私には分からなかったのだろうけれど。若気の至りと呼ぶには余りに未熟だったし、過去は今更どうにもならない。
結局今も、読み終わった本は手ずから燃やしている。よく分からないものを、分かれないから火にくべる。
自分で燃やす事の意義。
過去の情景の火の前で、立ち上がる煙を辿って空を眺めても、ただ真っ黒いだけだった。満点の空は齎されない。足元も段々と失われていく。
書を焼く者は人を焼く。白昼夢の中、そんな警句が過った。
では、人を焼く者はどうなるのか。時折飛び出す火の粉が足元のすぐ側まで跳ねて、落ちて来ては消えていく。
答えは、多分、ちゃんと見えている。
***
「好きではないよ、きっと」
「……じゃあ難儀な執着心だね」
譫言よろしく零れた言葉を拾い上げて、ソウは目を伏せた。微笑にも見えれば、真顔にも見える曖昧な顔をしていた。
「それは」
違うよ、と首を振ろうとして。足元の再建された本の山を見れば、かつて書斎で見覚えがあるものが殆どだから、先の言葉は引っこ抜かれてしまった。
「そうかも」
「はは、素直でよろしい」
「何か親目線じゃない?」
「だって、きみはもうちょっとずけずけしてたから。腕とか何でも、犠牲というか、使い飛ばしてへらへらしてるし、さ?」
「……ごめんて~。治療役を過重労働させてばっかで」
「別に良いよ。割合、ちゃんとした使い方ではあったからさ。うん、ぎりぎりだけど」
本当に痛い所を突いてくる。くすくす息を漏らすソウに、わたしはへろへろ萎びた声で謝るしかない。
ソウのような治療役はとても貴重で、教会の仕事がどうこう言うのを無視して、あの旅に同行させたのはわたしだった。
「大体、旅する前からそういう役回りだったからね。回復魔法より便利な自覚はずっとあったし、今更気にもしないよ」
「……その方面の魔術って全然実用的じゃないからね。本当に重傷の、応急処置というか、延命にしか使えないから」
便利なんてレベルじゃない、と続ければ、ソウは「あはは」と本当に可笑しそうに笑い声を上げた。
「細胞分裂の加速じゃあね。とても怖くて、使うべきじゃないよ」
回復魔法、もとい傷の治療や回復に関する魔術も例に漏れず因果律に従うから、生物学の仕組みに則る。要は、傷付く前の状態に戻すのではなく、治癒にかかる時間を加速させる仕組みだ。
これの重大な欠陥は、治療される側の負荷が大きい事。この一点が致命的だった。
無理やり活性化させて、魔術が掛け終わった後、細胞の分裂が自然な周期に落ち着く保証がなかった。複雑な因果の集合体である自然のペースを無視して、単純明快な非常用スイッチ一つで強制起動するものだから、エラーを吐く可能性は高い。そして、それは致命的なエラーである。病気のリスクや予後のリスク等々、憂慮する点は多い。使う要件も法律で十二分に規制されているのは、こういう背景がある。
回復魔法は欠陥の方がずっと大きい。あったものをなかった事にするわけではない、因果の産物だから。
だから、医術は廃れなかったし、あの旅をするときも医術に詳しい者、できれば専門の騎士を連れていくべき原則があった。
「それだけ、生物の仕組みはそんな単純じゃないって事なんだろうけど。でも回復魔法に実用性があれば、おれの仕事が減って助かるのにな、とはずっと思っているよ」
「それはそれで、医者の仕事が減って困っちゃいそうだけど」
「おれだって傷を治すだけなんだけどな。何なら医者の下位互換だよ。病気は専門外だから」
「傷でさえあればどんな状態であれ、一瞬で出血も異常も、息があるなら死にかけた事もなかった事にするのは治すだけ、とは言えないでしょ。謙遜が下手」
「それは、まあ。……そうだね?」
が、魔術の国にはソウが居たので、そんな原則は吹いて飛んで行った。
回復魔法の欠点はあったものをなかった事にできない事にある。なら、あったものをなかった事にできれば致命的な欠陥は消し飛ぶ。
そして、この世界にはそんな不条理が実現できる力がある。極稀にそれを使える者が生まれる。効果は個人ごとに固定されていたが、因果律から外れたロジックで動く力は確かにあった。
魔術とは区別されて、祝福や呪いと呼ばれるそれは、魔法とは違って何でもかんでもできる訳ではないが、それでも十分魅力的だった。学術的な意味でも、権力的な意味でも。
ソウはそれが使える。しかも人の傷を治す、というのだから。
当事者である彼は、ゆったりと続ける。
「改めて人に言われると、無法だね。おれが持っているものって。寧ろ、旅で一年も国を離れていても許されたんだって結構驚いているよ。始めから世界が大変っていうなら分かるけど、でもそれって結構後の方で分かったらしいし」
「本当にね~。王様もよく貸してくれたよ。祝福持ちって、中々……難しいから。立場とか、対応とか、ただでさえ忙しくて厳しいだろうに」
「皆、基本は病院行くからそうでもないよ。ここはとても平和だし。陛下も余り、頓着しないみたいだよ。……頓着出来ないと言うべきかもしれないけれど」
目の前の灰色の瞳が柔らかく細められた。その目の中にある意図は柔和な笑みに丁寧に隠されている。
「教会所属だもんね。政教分離を掲げている以上、余り近いと不味いから」
「そうかもね」
「でも、牧師辞めたら、それこそ公務員にさせられない?」
滅多にない力、しかも強力だから、国家は喉から手が出る程、独占したいに決まっている。何百年も平和で安泰な魔術の国であっても、寧ろ安泰であるからこそ抑止力になり得るものは手中に置いておきたいだろう。旅が始まるときから、隣の遺址の国の情勢は怪しかったのだから尚更。
そしてその本人が俗世間に戻るというなら黙っている筋合いはない筈だ。
「色々話し合って、何だかんだ教会には居る事になったから。牧師でなくなるってだけ」
「ああ、そういう……。流石、教会は政治が上手いね」
「伝統が残るってそういう事なんだろうね。そこは素直に凄いよ、反語とか皮肉とかじゃなくて」
「珍しいね。教会関連で素直なの」
「教会に居る人達の事は、基本嫌いって訳じゃないから」
ソウはふう、と息を一つ吐きながら、すっくと立ち上がった。次いでわたしも立ち上がる。両腕を天井に向けて思いきり伸ばしたら背中がぽきぽき言った。
随分前置きが長くなってしまったか。わたしもソウも後に予定もないのに、そもそも誰が乱入しようと誰も気に留めないのに、わたしばかりずっと気にしている。そもそもこういう会話をしてほしかったと望まれているのに、何だか、ずっと。
首を横に振る。そしてソウがベッドとベッドの間を抜けるのに続いて、わたしはまた本を倒さないように跨いでいく。それから今朝ロイが使ったきりのドレッサーの椅子を持ってきて、書物机の前に置いた。書物机の椅子を、そちらへ向けてわたしが座る。この部屋に来て、話す時は大抵こうしていた。
目配せして、ソウがちょっと眉を下げて座ろうとした時。
こんこん、とドアを叩かれた。まだ立っていたソウが、そそくさと寄っていって、きいっと軋むドアを開く。
開いていく隙間から、ひょっこり顔を出した真っ青な瞳に、吐きかけた息を肺に戻した。
「ふふ、すみません。どうしてもソウさんが必要になってしまって」
「……研究関連かな」
「その通りです。少し、協力して頂きたくて」
「あー、うん。分かったよ」
突然のマリィの来訪に驚いている間に敷居を跨いだソウを「ちょっと」と呼び止める。
「ええと、ソウってマリィの研究の手伝いをしているの?」
「手伝いというよりかは、サンプルとか調査対象とかかな」
「そう言えば言っていませんでしたね。祝福と呪いについてが研究テーマなんです。ですから、当事者としてソウさんの事、お借りしたくて」
はにかみながら、ふわりと微笑むマリィに「それは」と呟く。裏で、だから魔術の国か、と腹落ちしながら。
「結構、ニッチだね? 割と研究し尽されてるっていうか、何と言うか……」
「匙を投げられている題材、ですかね」
「研究者本人がそれ言っちゃって良いの?」
歯に衣着せぬ物言いについ咎めると、マリィこてり、と頭を傾げながら、声を弾ませた。
「何せ、事実ではありますから。因果関係とは関係ない所で働くものは、手に負えないって。学校の先生方も教えてくれました、物凄く微妙な顔をして」
話しながら職員室、あるいはどこかの準備室にいた先生方の表情を思い返しているのだろうか。人を振り回すのが生来好きだと、旅の終わり際にマリィの父親から聞いた時はピンと来なかったが、今なら分かる。
結構、かなり、我が強い。提案の押し切り方を思い返すたび痛感する。
「それで、おれの予約はなくなっちゃったけど、代打は居るの?」
ソウがマリィに尋ねると、彼女は頷いた。
「代わりにハチさんを呼びました。さっきすれ違って、丁度暇になるみたいなので快諾して頂けました。ただ、先にニアさんに用事があったみたいなので、いらっしゃるのはもう少し時間が経ってからだと思いますが」
「態々ありがとう。埋め合わせまで考えて貰っちゃって」
「ふふ、気にしないでください。わたくしの調査の一環でもありますから」
マリィはさも当然と言ってのけるが、そんな事はないだろうと眉を下げる。急用で予定が失くなったら普通わたしが埋め合わせするべきではなかろうか。
調査も研究に奔走しているのに、代打も用意しているのは、少し。
足元に目線が行く。青いドレスの裾がたわんで足先まで隠れている。裾を踏みかねないだろうに、何時も先を歩くものだから、立ち止まっている今でも何だか軽やかに見えた。
その中に何を忍ばせていても、きっと。
過ぎった思考に首を振る。ここは素直であるべきで、だから「ありがとう」と手を軽く上げた。
ソウがマリィに囁くように尋ねる。
「……ハチってシオンには話すんだ。旅の事」
「ええ。話すみたいですね。目的は旅そのものじゃないって予め言われているから、と伺っていますよ」
「後はわたしが話したから今更話す必要もないですしって言ってたよ」
ハチが初めてこっちに来た時に聞いた事、マリィにも言ったらしい台詞を口調を真似すると、顎に手をやって思案顔で呟いた。
「あー、成る程。中々食えないね」
「ハチさんらしいですね」
はあ、とソウが溜息と共に腕を組む一方で、マリィは本当に楽しそうに声を潜めて笑っていた。
「改めて本当に申し訳ありませんが、ソウさんのことお借りしますね」
「良いよ。頑張ってね、研究」
「ふふ。ありがとうございます」
「じゃあ、そういう事で。……また今度ね」
ソウは軽く頭を下げてから、ぱたりとドアを閉じて、マリィの後に続いたのだろう。足音が段々と遠ざかって、やがてすっかり一人になる。
本の山はベッドを遮蔽物にして上手く隠れていた。だから、手持ち無沙汰なままハチを待った。
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