richnaturaltobaccos
2025-05-18 23:38:42
2998文字
Public
 

或る夜

占と祖と玉儀


「阿祖、これが俺の愛する女だ。じきに結婚する。玉儀、こいつが俺の惚れた男だ。敵方の大将だからいずれ殺し合うことになるだろう」
 そのどうしようもない言い草に呆れながらテーブルの向こうを見ると、同じく呆れ返った男がこちらを見ていた。
 男の名は張少祖といった。

 ---

 誰にも会うつもりはない、と言ったのだ。殺人王の連れ合いになるつもりも、黒社会の“家族”になるつもりもない。ただ陳占と一緒にいるだけなのだから、知らない人間に紹介されたり、挨拶させられるのはごめんだと。占は笑って「わかった」と言った。
「わかったが、一度だけ例外を作ってくれないか。会ってほしい男がいる」
「誰?」
「張少祖という。昔馴染だ」
「どんな人なの」
「面白い男だ。会えば気に入るさ」
 私がいつも触れたくなる笑い皺のある目元に、楽しげな色を滲ませて占は言った。

 そして今に至る。
 まだ宵の口で外は明るかったが、占が選んだ店は薄暗かった。店の奥まった場所にあるテーブルは、ランプのオレンジ色の光にぼんやりと照らされていた。島国のビールが3本運ばれ、私の前にだけ置かれたグラスに自分で酒を注いだ。
 話すことなどないだろうと思ったけれど、会話は意外にも途切れずに続いた。占がこの店の名物だと言った鵝片拼盤は確かに味が良く、なかなか美味しいと言い合った。近頃鬱陶しい雨が続くこと。先週封切られた粤劇映画のこと。通りの物売りが売っている風船の値段のこと。他愛ないことばかりだったが何とはなしに話は続き、不思議と気詰まりではなかった。

 男二人の酒がビールから白酒に変わってしばらく経った頃、占は「煙草を買ってくる」と言って席を立った。しばし無言になり、向かいの男を見ると相手もこちらを見ていた。目が合うのはこれで二度目だ。
 これまでのところ、この男は面白い男というより静かな男だ。そして美しい男だった。なめらかな頬の線。形の良い顎は大人の男らしくしっかりとしているが、もう少し若い頃は今より細くて繊細な印象を与えただろう。すっきりと通った鼻梁に、やはりすっきりとした形の眉。眼鏡の奥の目は落ち着いた色をしていて、ゆったりとした瞬きは鷹揚な性分を思わせる。眦は甘さを残して切れ、目を伏せると睫毛が影を作るのが見えた。
 男は今日初めて会った女と二人きりにされても気にする様子もなく、穏やかな口調で言った。
「お針子だと聞いたが」
「叔母がやってる店で働いてるの。この旗袍も自分で作ったのよ」
 濃紺に蝶のような、葉のような白と赤の模様が散った旗袍は、店で不要になった布を貰い受けて仕立てた気に入りのものだ。男は私の服にちらりと目をやると「腕がいいようだ」と言った。
「ちょっと見ただけでわかるの」
 私は笑い、何か聞き返さなければいけないような気分になって言った。
「普段は何をしているの」
 相手は少し考えてから答えた。
「何もしていない」
「何もしてない人なんているの」
「たまにはいるだろう」
 男はまた少し考えると、言葉を続けた。私が何か聞き返さなければいけないと思ったように、もう少し話した方がいいと思ったのかもしれない。
「そのうち床屋をやりたいと思っている」
「将来の計画ってこと?」
「そうだな」
 床屋をやりたいなどと呑気に言うその男が、黒社会で龍捲風と呼ばれていることを私は知っていた。龍捲風がひとたび動けば激しい刃の風が渦巻いてすべてを薙ぎ倒し、夥しい血が流れると言われていることも。目の前の男からはそんな苛烈さは感じられなかった。凪いでいる。今のところは。
 男は何も言わなかった。私が予想していたようなことは何も。堅気の女がとか、覚悟はあるのかとか、怖くはないかとか。だからもう少し話してみる気になったのだ。
「猫を連れてたのよ」
「猫?」
「占が。初めて会ったときに。血塗れで、腕に猫を抱えてた」

 その日は店の帰りに友人と会う約束をしていた。少し遅れそうだったので近道をしようと通った狭い路地で出くわしたのだ。腕に何かを抱えたその男は私を見て一瞬立ち去るそぶりを見せたが、思い直したのか声をかけてきた。
「すまないが、教えてほしい」
 あのときなぜ平静でいられたのか自分でもわからない。その男は普通ではなかった。服の胸元から腕、腰のあたりまでが赤いもので濡れていた。赤は男の頬にも飛んでいる。私はまず血の色を見て、次に血の匂いを嗅いだ。男は腕に猫を抱えていた。
「怪我をしてるの?」
 男は自分で声をかけておきながら、私が応えたことに驚いたようだった。
「俺ではなく猫が怪我をしている。車に轢かれたらしい」
「でも服に血が」
「これは俺の血じゃない」
 では誰の血だと言うのだろうか。
「このあたりに猫を診られる医者はいないだろうか」
 大量の返り血に塗れながら猫の心配をしているらしいその男の顔を、私はやっとはっきり見た。

「人殺しが猫を助けたのが良かったのか」
 人殺し、という言葉をあっさり口にして男は煙草に火をつけた。
「猫は関係ないわ。占の目を見たとき、この人を知ってるって思ったの」
 何か言いたげに軽く眉を上げた男に向けて言葉を続ける。
「そのとき初めて会ったわ。でも知ってるって思った。あの人のすべてを、昔から。たぶん生まれたときから」
 初めて占の目を覗き込み、その奥の仄暗い炎のような煌めきを見たとき、ただわかったのだ。
「占にあなたも生まれたときから私を知ってるはずだと言ったの。今はわからなくても、すぐわかるって。そうなったわ」
「狂気の沙汰だな」
 眼鏡の奥の目は、どこか面白がっているように見えた。
「自分は違うみたいに言うのね」
 正面から投げた視線は逸らされなかった。占のボスである雷震東とこの男は仇同士だ。九龍城砦を巡る争いは激化の一途を辿っている。決着がついたときには雷かこの男か、どちらかが死んでいるはずだった。
 占が雷から離れることはない。雷より後に死ぬこともないだろう。そんな状況で、占とこの男は何事もないかのように平然と振る舞っている。そんなことで自分達の関係は変わりはしないというように。

 男はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「猫はどうなった」
「猫は助かった。医者の家の子供が気に入って飼ってもらえることになったの。少し足を引きずってるけど元気よ」
「そうか」
「占に二度目に会ったときに聞いたのよ。猫が好きなのって」
 男は目を細めてこちらを見た。
「特に好きなわけじゃないけど、猫が好きな奴を思い出してつい拾ったと言ってた。猫好きはあなたなのね」
 そのとき初めて気詰まりな沈黙が落ち、それが答えだった。店の表でどっと笑う声が聞こえ、誰かが歌い出す。しばらくして男は言った。
「犬も好きだ」
 私は笑ってしまい、それからふと空腹を感じた。テーブルの上にはまだ料理が残っていて、私の好きな海老の胡椒揚げは冷めても美味しい。私は皿へと箸をのばした。
「本当に殺し合うの?」
「海老をつつきながら聞くことか」
 男はそう言いながら私のグラスにビールを注ぎ足した。

 夜はまだ浅く、初夏の街には白蘭花のひんやりとした香りが漂っていた。この夏のように、まだすべては始まったばかりだと思っていたのだ。
 あの夜は。