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零ミリ
2025-05-18 23:24:13
1611文字
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空のホルマリン漬け
藍桐おじいちゃんと徳幸+植成
无諦の肉体が残っていて首を藍桐が持ち帰っていたらというIF
宇津木家の隠居・宇津木藍桐は生首を持ち歩いている。
その異常事態を知っているのは宇津木家の家族と使用人だけだ。家長の桂市が気が触れたような自身の父の振る舞いを恥に思い、家族と使用人に緘口令を敷いているためだ。
藍桐は車椅子に座った自身の膝に男の生首がホルマリン漬けになったガラスの容器を載せて広い宇津木家を徘徊している。藍桐がこうなったのは七十を前にして海外から帰った際、突如この生首を持ち帰ってからだ。何の説明もなく男の生首を持ち歩くようになった藍桐に対し桂市たちは取り上げようとしたが、老人とは思えない力で抵抗され桂市たちを口汚く罵ったため、桂市たちは藍桐の奇行を止めることを諦め、ないものとして扱うことにしたのだった。既に藍桐の妻は亡く、桂市たちは藍桐をほとんど放置し使用人だけが義務として身の回りを世話をした。
藍桐の奇行が始まってから生まれた孫たちは藍桐が持ち歩く生首が誰のものかを知らなかった。藍桐に聞いても無言で笑ってガラスケースを撫でるだけだった。両親は生首について言及することを無言で感じている。しかし、子供の好奇心は抑えられず、古くから宇津木家に仕える使用人に強請って聞き出すことができた。
生首の男は藍桐の古い友人の原田无諦という男らしい。誰も確証が得られなかったのは宇津木家の使用人が最後に无諦を見たのは中年の頃で生首の老人と同一人物かは断言できなかったからだ。藍桐と无諦はそれはそれは親しい友人だったと言う。一人の使用人が言うには无諦が死ねと言ったのならば藍桐は何の躊躇いもなく自身の命を断てるだろうというような、危うい信仰のような感情があったと言う。
痴呆が進み自身の子供のことも分からなくなってからも藍桐は无諦の生首を手放さなかった。もはや藍桐もその膝にある生首が自身の友のものか分かっているのか怪しかったが、食事を共にしガラスケースを抱えて布団に入った。
筆がからん、と硯の上に落ちる。これで最後だ。人生で何通も書いた无諦への手紙は、これで最後。
文机から手を離し床に横になり、自分の横に置いていた无諦の首を胸にかき抱く。本当はこの抜け殻に无諦の何も宿っていないことは分かっている。彼が今自分たちは異なる位相にいるだろうことは分かっている。しかし、彼の肉体があるのだとすれば縋らずにいられなかった。
ぼろぼろと涙が溢れる。自分の弱さへの情けなさと、そして、
「会いたいよ、无諦
……
」
この呟きはきっと届かない。けれどもう抑えることが出来なかった。抱きしめたガラスケースはなんの体温もなかった。
「兄さん、お爺様が持っていたあれのことなんですが
……
」
通夜が終わり邸宅に戻った徳幸は廊下で兄の植成を呼び止めた。
「あれ?
……
ああ、あれのことか」
「流石に棺には入れなかったんですね。何が何でも棺に入れろ、くらいの遺言を残していると思ったんですが」
「いや、あれは消えた」
「
……
消えた?」
意味が分からない、といった顔をした徳幸に植成は声を潜め思い出したくもない、というような表情で説明をする。
「病院に運ばれる時に確かに寝室に置いていった筈なんだ。立ち会った何人かが見ているし、自分も確かめた。けれど、お爺様が亡くなって寝室を見たら
……
消えていたんだ。煙のように」
「そんなことが
……
」
植成はこの話は終わりだ、と手を横に振る。
「正直、みんなほっとしている。あんなもの処分する道がない。お前ももうこの話題はするな。特に父上の前では」
植成は徳幸に背を向け自室へ入っていく。徳幸は自室に戻りベッドの上で消えた生首のことを考えずにはいられなかった。祖父だけが愛した首。祖父がこの世に居なくなった今、消えるのはある種当然なのかもしれなかった。いっそ祖父が見せていた幻だったと考えるほうが自然だ。
何一つ事実を知らない徳幸にはただ気味悪さだけが残った。
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