シノハラ
2025-05-18 20:30:06
3946文字
Public イフオロ♀
 

ノックは三回、小さめに

イフオロ♀ イベントの読書感想文です

 前回診察した翼を痛めたイクトミ竜の子の経過は順調だったが、遊びたい盛りなのでまた無茶をしないかが心配だった。付き添ってくれていた親の竜も翼を広げようとする子に文句を言っていたようなので、イファと似たような不安を抱えているのだろう。かと言って、もう胴体に翼を縛り付けている方がストレスがかかって良くない段階になってしまったため、ゆっくり治して行くしかないだろうとイファは考えている。
 どれくらい伝わっているかは分からないが、イファは親のイクトミ竜にそんな話をした。最後はイクトミ竜の親子が長く会話をして、子が不満そうにしていたのであんまりはしゃがないように、なんて言いつけられたのだろう。
 他にも少しばかり竜達の様子を見たあとに、二、三挨拶回りをしてからイファは謎煙の主を出た。朝一番に来たのもあって、まだ昼前の頃合いである。まっすぐ帰れば昼過ぎに自分の家兼診療所に着くが、イファにはもう一つ用事があった。
 謎煙の主から少し外れた場所に、その家はある。通り道を外れてどんどん歩いて行くと突然立派な野菜畑に行き当たり、運が良ければ野生動物がぼんやりしているところなんかも見られる事もあった。その脇に畑の主のさして大きくもない家が建っている。
 そこには謎煙の主の孤児として育ち、保護者がやたらめたらと多い一人の女が住んでいた。イファの悪友と呼ぶべき存在でもあるその人はオロルンと呼ばれている。
 オロルンの家の扉は鍵がなくても開く。何故イファがそんなことを知っているかと言うと、本人が目の前で実演してくれたからに他ならない。
 彼女曰く、鍵を持ち歩くのが面倒なので頭の中に鍵を用意しておけば良いと結論づけたとかなんとか。加えて、森や山を探索しているうちに落としてしまいそうで嫌なのだと彼女は言っていた。オロルンはあくまで仮定として話していたが、多分既に前科があるのだろうとイファはほとんど断定している。
 とんとんと戸をノックすると、頭の上に止まったカクークが耳を澄ましてくれるのを待つ。しばらくすると帽子を蹴って合図をされたので、どうやらオロルンはいつも通り眠っているらしい。的確な判断に言葉で礼を言う代わりにぽふぽふとまん丸な胴を撫でてやれば、ちくちくとカクークの嘴がイファの手を突いた。
 専ら夜型のオロルンは夏が近づく頃からその傾向が余計に強くなる。寝る前に野菜の世話と収穫を済ませやすくなるからどうしても、というのがオロルンの主張だった。実際、野菜は日の出前に収穫するのが良いらしいので、農家としては良くある作業時間らしい。まあ、普通は夜明けの前に起きてくるはずなのだけれど。
 大体日の出の頃に仕事を済ませたオロルンは収穫した野菜を少しだけ食べて、布団に潜り込んで眠ってしまう。後は何事もなければ昼過ぎまでくうくうと眠るらしい。
 一度これくらいの時間にイファが粘って戸を叩いたところ、それなりに機嫌の悪そうなオロルンの顔を拝むことになってしまった。その時の彼女はまぶしい日の光に目をしぱしぱさせながら僕の家に用があるだけなら、勝手に済まして行けば良いなどと言い出した。
 黒曜石の老婆ことオロルンの祖母の代表でもあるシトラリが耳にすれば叱責は免れなかっただろうが、何を隠そうここは彼女の城である。彼女の蛮行を止める者は目の前にいるイファくらいしかいなかった。
 誰にでもそんな態度であれば問題ではあるが、ばあちゃんとイファくらいならそれで良かろうと彼女は考えているらしい。そう言われてしまえば、後はイファが問題を起こさねば良いというだけの話となる。
 そう、自分が彼女に悪ささえしなければ良いのだと改めて言い聞かせ、イファは教えられた手順でドアノブを開けた。イファの目的はいつも同じで、台所の大きな壺に保存されている蜂蜜である。
 小ぶりの瓶に二つ程移し替えさせてもらい自宅に戻り、一息ついてから昼食を食べ、その後にクッキーを作り始めるのがちょうど良いのだ。昼過ぎに目覚めて蜂蜜のストックが減っているのに気がついたオロルンが蜂蜜分の分け前を寄越せとやって来る頃に、ちょうど第一陣が焼き上がるという寸法である。
 既に見慣れたこぢんまりとした家はほとんど壁で区切られておらず、台所と居住空間も衝立で区切られている程度だった。基本的に出歩いている時間の方が長いし、家にいても寝ているばかりだからばあちゃんの家みたいに立派でなくていいというのが彼女のスタンスらしかった。実際、オロルンがこの家で不便をしているところをイファは見たことがない。
 イファがまっすぐ台所に向かう途中にカクークがイファの頭から離れて、すやすやと眠るオロルンの様子を見に行くのもいつものことだった。魂の状態が不安定であるらしい彼女の生死確認をしようとしてくれているのかもしれない。
「マジかよ、きょうだい!」
 棚の下段にある壺を引っ張り出して、蜂蜜を詰めるための小瓶を取り出した時だった。小さな家にカクークの声が響き渡って、こそ泥の真っ最中だったイファは思わず肩を縮めてしまう。
「どうしたきょうだい、オロルンが起きちまうだろ?」
 瓶を戻して衝立の向こうに囁き声を投げると、天井との隙間を器用に潜り抜けてカクークがイファの腕に飛び込んでくる。パタパタと羽ばたく様子にちょっと異常事態かもしれないと思って、イファはオロルンの寝所を覗く決意をした。
「おい……
 女性の寝室を覗き込む男という要素を薄めるためにカクークを腕に抱きながら衝立を回り込んだ瞬間、イファはびくりと固まってしまった。いつもならぐうすか寝ているはずのオロルンがむくりと起き上がってこちらを見ていたからである。
「おはよう、きょうだい。いや、今は泥棒の方があってるかな」
……おはよう、きょうだい。今日は早いな」
 寝起きのせいかちょっとぼんやりとした声で物騒なことを言われたが、イファは否定材料を持ち合わせてはいなかった。一応蜂蜜分を献上する形で合意は取れてはいるものの、今のイファは妙齢の女性の家に勝手に上がり込んだ蜂蜜泥棒に他ならない。
「そろそろ君が来る頃合いだと思ったから早寝してみた。うまく行ったみたいだ」
 悪戯が成功して気分がいいのか、オロルンが得意そうに口にして怒ってもないのにへの字になっていることも少なくもない口角を緩める。その唇をふわりと大きく開けてあくびをするオロルンは薄っぺらいタンクトップしか着ておらず、いつもよりずっと体の線が分かりやすくなっていた。普段の格好では全く意識しないのだけれど、彼女の胸もちゃんとふっくらとしたラインを描いて服を押し上げているらしい。
 いや、そうじゃなくて。
「なら最初のノックで返事くらいしてくれればよかったのにな」
「それは無理だ。カクークの羽音で起きたんだ」
「うまく行ってるかそれ?」
「早起きには成功している」
 何が問題なのだとばかりに主張されて、イファは思わず苦笑してしまう。寝込みを襲われる形で起きるかどうかは、どうも彼女からすれば問題点ではないらしい。
「ご飯を用意してくれないか。この家にある物と野菜は好きに使って良い」
「仕方ないな」
「クッキーもここで作っていったら良い。君が特殊な隠し味を使っていない限り、蜂蜜以外の材料も揃ってる」
 それくらいで己の悪行が許されるのなら従うべきだろうと、イファは溜め息交じりに承諾する。そうすれば調子づいてきたらしいオロルンが重ねてリクエストを出してきた。
「竜達の分は持って帰るからな」
「材料は僕が全部用意したのに?」
「なにデタラメ言ってんだ?」
 心底納得いきませんとばかりの口調にイファが反応する前に、カクークが甲高い声を上げた。どうやら、オロルンがイファのクッキーを総取りするつもりなのを察したらしい。カクークもイファの作るクッキーは気に入っているようなので、オロルンの意向は受け入れられないようだった。
「そうだなきょうだい、酷いデタラメだ。……作るのは俺だからな、オロルン。人件費ってやつだ」
 カクークの頭を撫でてやっても気持ちは収まらないらしく、カクークはイファの腕から離れてオロルンのベッドに舞い降りた。
「きょうだい、マジで言ってんのか?」
「ならイファには三回焼かせて三回目は全部ここに置いていってもらおう。いつもは二回分しか焼かないだろう? そうしたら君達の取り分はいつもと変わらない」
 真面目腐った口調でオロルンがイファの作業量を増やしながら提案すると、やれやれとカクークが納得したようだった。最後の火の面倒はオロルンに任せればいいだろうから、イファも受け入れられる要求ではあった。
 そこまで話して満足したのか、オロルンがぱたんとベッドに背を付ける。そのまま腰回りに溜まっていたブランケットを引き上げながら、むにゃむにゃと某か言っている様子があるが寝室の入り口にいるイファの耳には届かない。
 何事かと尋ねても、彼女は手を持ち上げてイファを招くだけである。追加の注文であればややこしくなるので仕方なしに近づけば、イファの影が自分に落ちたのを察した彼女がちらりとこちらを見上げてきた。
 農作業でそこそこ鍛えられているからか、寝転がっても彼女の胸はさほど型崩れはしないらしい。いややっぱりそうではなく、と自身に言い聞かせてイファはオロルンの言葉を待つ。
「ご飯ができたら持ってきてほしい。ここで食べる」
「はいはい……
 さすが一国一城の主、やりたい放題である。なら汁物は避けた方がいいだろうと思いながら応じると、まるで返事をするようにオロルンの耳がぴるぴると動いた。