来羅
2025-05-18 16:38:30
3443文字
Public トワウォ
 

営巣(風信)

オメガバ。巣作りする信一の話。

 洗濯をするのだと言っていたはずの信一がいなくなった、と阿七に聞いたのは午後の客が引けたあとだった。
 まだヒートまでは日にちもあるし大丈夫、と笑っていた今朝までは確かにいつも通りだったはずだが、龍捲風が寝床として使っている部屋より下の階にいてもわかる芳香はすでに甘い。
 薔薇の華やかさの中にあるバニラの甘さ。そこに官能的な麝香を混ぜたような、どろりとした背筋を震わせる信一特有の香りは、今や龍捲風だけを呼んでいる。
 番になる前は、ベータの阿七ですら感じとれてしまうオメガの香りにヒートが来るたび気苦労が絶えなかったものだが、番になればなったで興奮を呼び起こす信一の香りは龍捲風には耐えがたい誘惑だ。
 自室に近づくとより濃厚になる、毒々しいまでに甘い香りにめまいがする。
「信一?」
 返事はない。
 奥へと足を進めれば、寝室のドアが開いていた。香りはそこから漂ってくる。
「信一」
 床に点々と脱ぎ捨てられている信一の服を一枚ずつ拾って椅子に放る。当の本人は龍捲風のベッドの上でこんもりとした山を作って埋もれていた。
 それなりに綺麗に畳んでおいたはずの服は全て取り出され、薄手のカーディガンからシャツ、下着に至るまでくしゃくしゃに広げたまま信一の周囲に円を描くように置かれている。その中央で、洗濯するはずだった龍捲風の服を裸の胸に巻き付け、上掛けを頭から被り、おそらくは枕をぎゅうぎゅうに抱きしめているんだろう信一は、龍捲風からは姿さえ見えない。
 何度それを目にしても息苦しくないんだろうかと思うが、信一に言わせると「その方が大佬の匂いがして落ち着く」とのことで、最後まで枕と、一日分の汗を吸ったであろう服を離さないのをどう反応すべきか困ったのもだいぶ前の話だ。
「信一」
 龍捲風は服のサークルを壊さないように慎重にベッドの端に腰掛ける。
 その僅かに沈んだスプリングの衝撃よりも、部屋に入ってきた気配よりも先に、龍捲風の持つアルファの匂いに反応した信一が上掛けから蕩けた顔を出して小さく喘いだ。
「ごうごう……
 薄く水の張った瞳が大きく瞬くと雫になって頬を伝う。その刺激すら感じ入るのか、眉根を寄せて呻いた信一が抱きしめた枕に鼻を押し付けて身を捩る。本人が目の前にいるというのに服や寝具ばかりを抱きしめられるのは、なかなか複雑な心境だ。
 けれどもそれがヒート前のオメガを何より安心させるものらしい。だからちりりと焼けつく想いに龍捲風は蓋をする。
「俺もその中に入れてくれるか?」
 ベッドは龍捲風のものだが、巣の中は信一のテリトリーだ。
 伺いを立てた龍捲風にへにゃりと笑った信一が唇を尖らせた。
「んー……だめ!」
「駄目なのか?」
「だって哥哥、来るのおそい」
 舌足らずにぶすくれた顔で言う信一は、身動ぐたびに熱い吐息を漏らす。けれども頬を摺り寄せる先は龍捲風の枕で、片方の眉だけを上げた龍捲風に信一がふふ、と笑った。
「でもこれはいいよ」
 店仕舞いも他のスタッフに任せて途中で抜け出してきた龍捲風はまだ仕事着のままだ。そのキューバシャツの裾を引っ張って信一がねだる。そこにはパーマ剤などの薬剤と煙草の匂い、に混じる龍捲風の汗とアルファとしての匂いが染み付いている。
「俺よりこっちがいいのか?」
 拗ねた響きは幾分芝居がかってはいたが、信一は満足だったらしい。
「だって。どうせすぐに仕事に戻るんだろ」
「今日は皆に任せてきたから、ここにいるぞ」
「ほんとう?」
「もちろん」
「じゃあ、哥哥も入っていいよ」
 得意げな顔は大層可愛らしかった。
 オメガの『子を孕む』ための体の準備ともいうべき巣作りの時期は、精神的に不安定になるのか、信一の場合はまるで幼子のように無邪気になることが多い。だからといって酒に酔ったり薬でトんだりするわけではないから記憶は確かで、ヒートが終わると同時に毎回自身の痴態に頭を抱えるのだが、それもまた龍捲風にとっては可愛く見えるのだった。そしてそれを知っている信一の無意識下のオメガの本能は、またさらに巣作り時の言動を普段の信一からは考えられない甘えたものにさせる。信一にしてみれば悪循環だ。おそらく今回もまた正気に戻った信一はミノムシのように上掛けに包まって羞恥に唸るのだろう。
 愛おしくてたまらない。そう言えばまた顔を隠してしまうだろうか。
「哥哥」
 伸ばされた手を取って、ベッドに乗り上げる。
 とろりとした瞳は今にも瞼がくっつきそうで、それでも潤んだ虹彩に龍捲風を映し続けて信一が抱きついてきた。そうして胸元に顔を埋めて深く息を吸い込む。
「哥哥の匂いがする」
 うっとりと囁く声がシャツに吸い込まれて、龍捲風は軽く眉を顰めた。
 巣作りに必要なのは番のアルファの匂いが色濃く残った私物だ。わかっている。
 それでもこうして触れ合っていながら、衣服にばかり注意を向けられれば面白くない。
「信一」
 深く胸元に沈んだ顔を上げさせて指先で頤を掴む。そのまま身を屈めた龍捲風に、そっと瞳が伏せられた。ので、龍捲風は小さく笑ってわざとその鼻先に口付けた。
「! 哥哥!」
 非難の声に今度こそ声を上げて笑う。
 ちょっとした意趣返しは他愛ない戯れだ。尖らせた唇に音を立てて口付けた龍捲風は、笑いながら衣服と上掛けでぐるぐる巻きになっている信一をその上から抱きしめた。
「服だけじゃなく、俺のことも欲しがってくれ、信仔」
「意地悪する哥哥はイヤ」
「意地悪する俺は嫌いか?」
「~~~~~~好き!」
 がばっと抱きつかれて肋骨が軋む。幼い言動とはいえ、体は成人男性のそれだ。思わず呻いた龍捲風に、してやったりと舌を出す信一は、やはり、可愛かった。
 突き出された舌先ごとキスの中に閉じ込めて、吸い付く。待ち望んだ口付けに開いた隙間から舌を差し入れ、唇を甘噛みすれば、信一の喉が鳴った。舌先だけを擦り合わせると気持ちよさそうに目を細める信一は、与えられる甘さを享受して嚥下する。
「ん――、ごう、ごう」
 もっと、と乞われるままに角度を変えて何度も口付ける。
 けれども熱を孕んだ吐息は、まだ理性の欠片が残っている。それは信一の体の準備が終わっていないことを示していた。
「哥哥」
「大丈夫だ、ここにいる」
 しがみつく指先を握ってやる。そうしてとんとんと優しく背を叩けば、うとうととした瞳は何度か瞬いたあとでしっかりと閉じられた。
 甘い、甘い、どろりとした背徳の匂い。
 安心しきった顔で眠る青年の頬を擽り、その手で髪を梳き、首の後ろに滑らせる。そこには薄くなってもなお龍捲風にはわかる噛み跡が残っている。
 番の証といえば耳障りがいいが、なんということはない、これは執着の証だ。
 あの頃はまだ少年の域を出たばかりだった。慣れないヒートに苦しみ、城砦に限らず通りすがりのアルファを惑わすオメガの色香に、見ていて耐えられなかったのはおそらく龍捲風の方だ。可哀想だった。危険すぎた。守るにも限界がある。表向きの理由はたくさんあって、それらをひとつひとつ説明した上で番ったのは、今にして思えばただの保身だったのだろう。
 龍捲風は信一の運命の相手ではない。
 この青年には他に番うべき相手がきっといた。
 奪ったのは龍捲風だ。
 それに後悔はない。
 誰にも渡したくなかった。
 誰にも触れさせたくなかった。
 それがアルファとして支配したいという欲求が抑えられなかった結果だったのか、己の意思だったのかは今もってわからない。が、少なくとも今は信一を愛しく思う気持ちに嘘偽りはない。
「信一……
 この執着から永遠に逃れられない青年を、不憫にも愛しくも思う。
 けれども、もう手放してやることなどできやしない。
 諦めてくれ、というのも酷な話で、だから代わりにそっとこめかみにキスを落とす。
「今はおやすみ、信一」
 目が覚めればヒートが待っている。
 龍捲風にのみ反応し、龍捲風だけを求め狂う、地獄のような至福の時が。
 それを愉悦とともに待ち望んでしまう本能に瞠目し、龍捲風は深く息をつく。
 自分の気持ちひとつままならないとは、実に情けない。それでもこれが紛うことなき真実だ。
 番の匂いに囲まれて穏やかに眠る愛し子に僅か頬を緩める。苦悩は胸の中に押し止め、龍捲風は抱きしめるその背を何度も優しく撫で下ろした。