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mineml
2025-05-18 09:44:36
7430文字
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【SS】タムガの紅い旗 ネタバレ
※実在の宗教に言及していますが誹謗中傷の意図はありません。筆者の解釈、理解に誤りがある可能性があります。
記録
閉じた扉の向こうから、女ふたりの話し声が漏れている。ひとりは古い訛りのついた若い声、もうひとりはたどたどしい婦人の声。どちらも交易の共通語を使っているから、時折、笑い声が立つくらいには意思の疎通ができているらしい。
少しの間それに耳を傾けて、サラヘディンは扉を軽く叩いた。
「サラーだ。入っていいか?」
「うん。いいよ」
会話の調子から変わらず、明るいまま答えたのは若い声の方である。扉を開ける。寝台に身を起こしたエレグと、布で髪を隠した婦人がサラヘディンへ顔を向けていた。
『彼女の具合は?』
この街の言葉で、婦人へ尋ねる。先ほどの会話とは打って変わって流暢な言葉が返ってくる。
『熱は随分下がりましたし、傷もひとまず塞がっています。でも、』
そこまで言って言葉を濁し、婦人は悲しげに眉を下げた。サラヘディンは頷く。続く話題にいくらかの幅はあるだろうが、その余地は広くない。
『つらいものを見せて申し訳ないが、もうしばらくの間だけ手を貸してほしい』
『それは、もちろん。女が女を助けるのは当然のことです。それが異教徒であってもです』
ふたりの話す内容を、エレグは理解できないだろう。ただおとなしく、聞き慣れない言葉に耳を傾けているようだった。
やがて、取り替えた当て布や包帯を入れた盥を手に婦人は部屋を出た。扉は半分開けておく。サラヘディンや婦人の生きてきた文化圏では、異性同士が密室にいることは望ましくないからだ。
とはいえ異性の距離感に関する制限は、距離の長短はあれど他の文化圏にも共通すると、サラヘディンは知っている。エレグの傷の手当を、この商隊宿の女中、先ほどの婦人に頼んだのもそのためである。はじめこそサラヘディンが治療をしたが、治療行為とはいえ異性の肌を見るのは望ましくないし、サラヘディンは割り切るとしてもエレグがそうとは限らない。
人体というのは不思議なもので、傷を負っていても危地にあれば傷を忘れる。グレルグゥの鬼の陣地から脱出を図った折、エレグは怪我の状態など感じさせないような動きで弓を引いていたが、その場を逃れてから身体が傷を思い出したらしい。高熱に朦朧とする彼女をドルラルが馬上で抱えて、この街へ戻ってきたのだった。
それから数日が経っていた。
「ドルラルたちは、出かけたのかな」
「ああ、ルカとエギルと3人で街へ出てる」
開けた窓に目を向けてエレグが言う。それに答えて椅子に腰を下ろす。
強い日差しさえ遮れば、風が入っていくらか過ごしやすい。よく晴れていた。
サマルカンドは絢爛たる街だが、大通りから路地の奥へ入り込んでしまえば浮き立った喧騒も遠くなる。ここにあるのは、商売の賑やかさでなく街に生きる人びとの生活の音であり、それも午後は少し眠たいものになる。
「そう
……
」
物思わしげな呟きに、釘を刺す。
「エレグ、わかってるだろうけどな、今の君がやるべきは身体を治すことだ。ドルラルもこんなことで君を急かしはしないだろう?」
「うん」
笑い声さえ立てるほど気が紛れていたのはほんの少し前のことだというのに、黒ぐろとした瞳の色に増して、短く肯いた目は暗い。
遊牧民の彼らと過ごして、日数にすれば幾ばくも経たない。しかもそのほとんどは彼らの日常である営地での出来事ではなく、サラヘディン、それにキャラバンの主のルカは旅の巡り合わせの結果、彼らの非常事態に立ち会い続けているということになる。
ドルラルとエレグは急いでいる。殺されたイェスゲイはいわば、領主のような立場だったと思われた。強力な守り手を失った彼らを、幼馴染であるという青年は追うだろう。そして手をこまねいていれば、無慈悲な冬もまた。
そうはいっても医学の心得のあるサラヘディンから見れば、無理を許すわけにはいかないのである。
「それで、具合はどうだい」
「いろんなところが痛いのは、痛い。でも熱が下がったから、楽になった」
「出血が止まっても皮膚の下は傷ついているから、もうしばらくはおとなしくしてなさい」
「でも」
「駄目だ」
きっぱりと語気を重ねると、娘はそれ以上反発しなかったが固い表情をして俯いた。彼女を拐った青年に対して垣間見せた気性の激しさに加えて、思いの外意固地な性格らしい。それだけ焦っているのかもしれないが。
「直接診ない人間の言うことは信じられないかな」
「
……
そうじゃないよ。はじめ、サラーが手当してくれたのも知っているし。おれはよく覚えていないのだけれど」
首を振り、顔を上げる。表情が少し和らいでいる。これ以上をサラヘディンから引き出すのを諦めたのだろう。意固地だが自分自身の状態もわかっているのか、聞き分けはいい。
「ねえ、世話をしてくれているあの女のひとから聞いた。砂漠のひとたちは、男女が関わっていいことといけないことを神様が厳しく決めてるって。サラーもそうだって」
「まあ、生まれ育ちで言うなら実際、俺もそうだな」
「サラーはよかったの」
問いかけをすぐには掴み損ねて、見つめ返す。エレグが付け足す。
「おれの怪我を診てくれたんでしょう」
「ああ、その話か」
とうの昔に折り合いをつけたことについて答えるのは、即答で構わない。顎に手をやって少しばかり言葉を選んだのは、それ以外のことについて答える必要があるからだった。
「
……
うん。俺の宗教観はともかく。君は怒っていいんだぞ」
「怒る?」
「嫁入り前の娘さんが男に肌を見られるのは、民族どうこう以前に嫌なもんだろう?」
目を瞬き、サラヘディンと同じように少しの間をおいて、ああ、とエレグは呟いた。そっと両手の指を絡める様子を見るまでもなく、据わりの悪さが見て取れる。爪を剥がされた指先が数本、痛々しく覗く。
「
……
でも、具合がよくなったのはサラーのおかげだから。怒らないさ。それに、なんというか
……
」
「えっ何? そこで言い淀まないでくれる?」
「あ、うん。ごめん。えっとな、」
やや大袈裟にたじろいでやるとエレグはくすりと笑みをこぼし、彼女の知っている言葉を使って、考えを組み立ててみせた。
「サラーはおれのことを、怪我人として見るだろうし、怪我人としてしか見ない、と思う。だからおれもなんだか、それならいいか、と思って」
そこに何ひとつ、彼女の感情についての明言はないが、そのようにしか表せないこともまたあるのだろう。直截に表現する語彙、あるいは概念が、彼女の中や彼女の生きる世界に存在しないということも考えられる。
少なくとも、そのように折り合いをつけ、伝えようとしてくれたらしい。
「そりゃあ、学者の一環といっても医者の真似事をするからには、そうあることが当然だし、そうあらなきゃいけない。わかるかい」
「うーん。たぶん」
「エレグは俺の宗教観
……
そうだな、神様の目を気にしてくれたわけだが。神様がそう決めてるから、例えば今回の例で言えば男女が、お互いを傷つけずに済むこともあるわけだ」
このあたりの話は本来神学者の専門であろうし、生憎サラヘディンの詳しくない分野である。だがここに論の粗を指摘する神学者はいない。
であればこの場で神の意思を解釈するのは、不遜ながら、自らの言葉のみである。
「だから女性の診察をするのを禁忌(ハラム)だって言う派閥もあるが、じゃあご婦人方の治療はどうする、ってことになる。目の前のひとを助ける方が俺にとっては大事だからなぁ。神様(アラー)もそれを駄目とは仰らんだろ」
「そう」
異民族の彼女に、どこまで伝わっただろうか。
エレグが真剣に耳を傾けていたことだけは確かだった。考え込むように短く応じて、真面目な顔をしてサラヘディンに向き直る。
「助けてくれて、ありがとう」
「そんなに畏まらなくても構わんのに」
「いいや。サラーもルカも、おれたちにほとんど関わりがないのに助けに来てくれたろ。ドルラルは強いさ。でもあいつひとりだったら、きっとおれもあいつも殺されていた」
脳裏に蘇るのは悪臭と、凄惨な光景である。
異形の陣地の一隅、立ち並ぶ天幕のひとつに、気を失ったこの娘と、知人の遺体が押し込められていた。ドルラルの話とエレグの反応がなければ、それが誰とはわからなかっただろう。死後数日とは思えないほど、その遺体は腐り果てていたのだ。
つい、口をついていた。
「イェスゲイ殿の人徳かもなぁ」
エレグの手が、寝台の掛布を握り込むのが視界に入る。
「あの御仁に会っていたから、ルカは君たちに手を貸すんだろう。俺もそれに異論はない。今でもイェスゲイ殿に守られてるみたいじゃないか」
食い入るようにサラヘディンを見つめていたエレグの瞳から、ぼたりと涙が落ちた。声を上げず、肩を落としたまま、擦過傷の残る頬としわの寄った掛布をしとどに濡らしていく。どこもかしこも癒えてなどいない。
憐れみと興味は両立し得る。
一定程度の人数が集団を築けば、頭脳労働を担う者が現れる。それは集団の性格によって、学者であり聖職者であり軍師であるわけだが、エレグもまた語り部と呼ばれる知恵者のひとりだろう。伝承や神話について尋ねれば言い淀むことはなく、民謡も数多く歌いこなす。
その有り様はいわば、文字を持たない彼らにとっての書庫だ。その書庫にしか保管されていない知識があり、彼らの培ってきた世界観がある。
彼女を救出に向かった理由にはイェスゲイとの関わりもあるが、その他の大きなひとつが、膨大な書がみすみす焼かれるのを見過ごせないのと似た気分だったと知ったとしても、ドルラルもエレグも咎めないだろう。理解もしない。書という存在をよく知らないがためにただ首を傾げて、頷くだけなのではないかという気がする。
エレグは知恵者のひとりであり、サラヘディンもまたそのひとりである。だが連綿と書に記された先人たちの筆致をつぶさに読み込み、血肉にしてきたサラヘディンからすれば、傷つけば意識を失い感情が揺れて涙を流す、脆く不安定な人間の記憶だけに記録が託されているのは、いっそ恐ろしい事態でさえある。紙の山を持ち歩くわけにいかないために、サラヘディンも旅の空にあってはすべてを記憶に叩き込んでいるが、それも最後には書に綴じるのだ。そうでなくては自分の後に記録が残らない。
怖くはないのか、と尋ねるほど人の心がわからないわけではないから、木綿の清潔な手拭いをただ渡すのだが。
ふと、爽やかな香りが鼻をくすぐる。振り返る。半開きにしていた扉から顔を覗かせたのは、先ほど部屋を辞した婦人である。茶器の乗った盆を手に、エレグの様子を見てまた眉を下げた。
『あらあら、お嬢さん。先生、お茶をお持ちしたのですが、失礼してもよろしいですか?』
『ああ、ありがとう』
婦人は盆をテーブルに置き、ガラスの茶器の片方をサラヘディンへ勧める。そうしてもう片方を手に、遠慮の素振りで少し迷ったが、寝台に身体を起こしているエレグの前へ膝をついた。
『大丈夫よ』
すぐに言葉が出てこなかったのかもしれない。通じない方の言語で、彼女はエレグに話しかける。
『ミントも緑茶も、熱を下げてくれるから。苦しいことないのよ』
「うん」
理解できないだろう言葉に、異民族の娘は頷いていた。茶器を受け取り、水面に目を落とす。微かに震える息で少しずつ、茶を冷ます。
サラヘディンも茶器に口をつけた。色付けされたガラスの茶器に惜しみなく、千切ったミントの葉が押し込まれ、そこに熱い緑茶が注がれている。郷里でもよく似たものが好まれていた。富裕な家であれば、砂糖を入れて飲んだものだった。
「サラー」
「ん?」
「この女のひとはおれの手当をする度に、悲しい顔をする」
最後の涙を瞼で払い、平静な声で彼女は言う。
「傷痕はずっと残るかしら」
打撲傷。
鞭打ち。
皮削ぎ。
脆い人体に与えられたそれらがもっとも酷い状態にあったときしか、サラヘディンは直に見ていない。
「不確かなことは、答えられないんだよ」
「そうか」
エレグは口元をほのかに綻ばせた。
「それだから、サラーを信用しているんだ」
部屋の扉が再び、半開きになっている。洋燈の灯りとともに、小さな話し声が漏れていた。
中を覗くとふたり分の視線が返ってくる。寝台で膝を抱えたエレグと、昼間はサラヘディンが使っていた椅子に座るドルラル。エレグの手には割られた柘榴があり、ドルラルの膝には革の端切れを組み合わせた何かがある。
「閉めりゃいいのに」
「うん。でも、動かない家の四方を立て切るのは、なんだか落ち着かなくて。ルカは?」
「知り合いに会ってくるってさ」
エレグに答え、ドルラルに目を移す。硬い革に針を通すには力も必要だろうが、その点は苦労していないらしい。異形を屠るだけの膂力を振るう青年なのだから当然といえば当然である。
「順調かい」
「たぶん。針も見繕ってくれて助かった、細いのじゃ曲がっちまったから」
「器用なもんだなぁ。もしかして遊牧民の男は針仕事をするのか? あんまり他所じゃ見ないもんだが」
「ううん。服を縫うのは女の仕事だよ」
生活について根掘り葉掘り尋ねられるのにもそろそろ慣れた様子で、首を傾げたエレグが柘榴を一粒口へ入れ、ドルラルが後を引き取る。
「馬具を作るのは男の仕事だ。だから、似てるっちゃ似てる」
「ははあ、立体物を設計して縫い合わせなけりゃいけないことに変わりはないものな。型紙もなしにうまいもんだ」
「ってもこんなの縫ったことねぇよ」
言いながら、彼は膝に乗せていたそれを目の前へ吊るす。ごく曖昧な表現を許すならば概ね、肩にかける鞄に似ているだろうか。加えて足元に立てかけてあったモリンホールを取り上げ、あてがったりなどしている。
「普段はどうしてるんだ? 手持ちで運んでる? もしくは今回は楽器を剥き身で持ってくる羽目になっただけで、家には持ち運ぶためのものがある?」
「いんや、大抵、うちの中で弾くもんだし。持ち歩くときは馬の鞍に括るし」
「そりゃそうか。移動するときは馬だわな」
モリンホールを足元に戻して革の重なりを調整するドルラルを眺めながら、エレグは小さく笑った。
「おれが自分で作ってもいいよって言ったんだけれど」
「お前の手には硬すぎるつったろ」
対してドルラルは一瞥を返し、やや渋さの滲む調子で言う。
「怪我人はそれ食っておとなしくしてろ」
「おいしい」
「おう。よかったな」
柘榴は、昼間に出かけていた折にでも買ってきたものだったのだろう。声と同じに、渋面だった表情が明るくなる。この青年の笑顔は、いつであっても誰に対してのものであっても、素直で裏表がない。
「サラーも食べる?」
「え? いやこの流れでおじさんがもらうのはさすがに悪くない?」
「まだ何個かあったはずだし、ひとつやふたつ構わねぇよ。革だって分けてもらったんだ」
「ええ? ドルラルがそう言うならいいけどぉ
……
」
ドルラルの作業を興味深く眺めていたサラヘディンは、エレグにあっけらかんと提案され少しばかりたじろぐ。だが当のドルラルも、さして気にするでもない。
やや当惑しながら頷けば、エレグは傍らの麻袋からひとつを取り出し、ナイフで皮に切れ目を入れた。そうしてサラヘディンへ軽く投げ渡す。指で皮を割り広げようと柘榴を手の中で転がすサラヘディンに、ドルラルが片手間に話しかける。
「にしても、革だの金具だの、やたらと溜め込んでたんだな。自分で使うわけじゃねぇのにか? こっちは助かったけどよ」
「革の染め色や金具の意匠がばらばらだろ? 地域ごとの違いを見比べるために方々で端材を分けてもらってたんだが、生憎、俺はそこまで器用じゃないわけだ。道中で売れるものは売ってたものの、やっぱいくらかは残るもんでな」
家畜であれば牛や羊、狩猟の獲物であれば鹿や猪。革製品にするには一定の性質が必要であるために、革に加工される獣の種類は、地域をまたいだとしても限られる。それでも染料の種類や型押しの意匠は地域ごとに工夫が凝らされているし、金具にも同じことが言える。
「売れ残りだから中途半端な端材が多いのは申し訳ないが、うまく使ってもらえるならよかったよ。なにせ荷物が増えてくると、サラヘディンがまたがらくたを集めてるってキャラバンの連中に言われるわけで
……
いや、どれも学術資料であってがらくたじゃないのよ?」
「確かに、いろんなのがある」
モリンホールのためだけに組み上げられた鞄は、もう大まかに形になっている。異なる質感と色合いが隣り合ってひとつを成している様子に、エレグはおかしげに目を細める。随分と表情が穏やかになった。ドルラルと何か話をしたのかもしれないし、彼がただ傍にいることだけでもよかったのかもしれない。
手を動かす作業はひとの居合わす場を作り、時間を作るものだ。
「サラーは、いろんなひとに会ってきたんだな。それがわかるよ」
「お、これを見てそう思うか。じゃあ今夜くらいは、俺が語り部になろうかね」
「サラーの旅の話?」
「これまで俺たちが話すばっかりだったもんな」
声を弾ませたエレグの目がサラヘディンへ向けられる。手を止めないながら、ドルラルがちらと視線を上げて笑う。
目に好奇心が煌めく様というのは、この世で最も美しいもののひとつである。
「あんまり遅くまで起こしてると傷の治りに障るから、その柘榴を食べ終わるまでの間だけな。それでいいかい」
エレグが頷く。ドルラルも否と言わなかった。
知恵者としての在り方が大きく異なるとはいえ、記憶から語るべきことを選び出してくる今にあっては、お互いそう変わりないのかもしれない。サラヘディンは分厚い書をめくるように。エレグは例えば、井戸から水を汲み上げるようなのだろうか。もしくは絨毯の刺繍を手のひらで撫でるような。
サラヘディンの手元の柘榴はまだ減っておらず、疲れた娘が眠るまでの間には、食べ終わりそうにない。
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